「ニッポン縦断歩き旅」「四国八十八か所ガイジン夏遍路」

今回も、外国人による日本探訪記。
著者、クレイグ・マクラクランさんの著書は4冊。

「ニッポン縦断歩き旅」1998(1996)
「四国八十八か所 ガイジン夏遍路」2000(1997)
「ニッポン百名山よじ登り」1999(1998)
「西国三十三か所ガイジン巡礼珍道中」2003

いずれも、出版は小学館。
訳は、橋本恵。
カッコ内の数字は、原書の刊行年。
「珍道中」については未確認。

クレイグさんは、ニュージーランドのひと。
滞日経験が長く、日本語が堪能。
奥さんは日本人。
カバー袖の著者紹介によれば、現在(といっても出版当時)、クイーンズタウンに在住。
トレッキングガイドをしているとのこと。

というわけで、著者はよく日本の社会風俗に慣れ親しんでいる。
だから、日本を訪問したばかりの外国人のように、日本のことがなにもかも新鮮にみえるというようなことはない。
ましてや、なんでもかんでも一般化したりしない。
外国人が、一般化した日本を礼賛するような本を読みたい向きには、本書はものたりないかもしれない。
また、ものごとを一般化するさいに生じるゆがみを楽しみたいひとも同様。

では、本書にはなにが書いてあるのか。
どこそこを歩いて、どこそこに泊まり、なにを食べ、だれに会った――ということが、ずっと書いてある。
つまり、愉快な調子で書かれた移動の記録。
そんなものが面白いのかといわれると、とても面白い。
だいたい、移動の話というのはそれだけで面白い。
ものをつくる話と、移動する話には、まずはずれがないものだ。

ただ、日本人としては読んで面白いけれど、英語圏のひとはこの本を読んで面白いのだろうか。
もう少し、日本社会を一般化して解説するような文章があったほうが、日本を知らない読者にとっては親切ではないだろうか。
そんな、よけいな気をまわしてしまう。

では、一冊ずつみていこう。
「ニッポン縦断歩き旅」
まえがきによれば、著者は1977年に日本を縦断したイギリス人、アラン・ブースの「佐多への旅」を、今回の旅の手本としたとのこと。
(ちなみに、「佐多への旅」の日本語訳は、「ニッポン縦断日記」(柴田京子/訳 東京書籍 1988)ではないかと思う。これは未読。同じ著者の「津軽」(柴田京子/訳 新潮社 1995)は以前読んだことがある。これもまた移動の記録。ちょっと憂いが効いていたように記憶している)

1993年5月20日。
著者は九州の南端、佐多岬を出発。
日本海側を北上していき、99日目、宗谷岬に到着。

著者は大柄な白人男性なものだから、地方を歩いているとたいそう目立つ。
しばしば、子どもたちにまとわりつかれる。
どこにいってもアメリカ人とまちがえられる。
よくひとから食べものをもらう。
車に乗らないかという誘いは、目的を話して断る。

旅の途中、じつにさまざまなひとたちに会う。
しかし、なにしろ旅の途中なので、そのひとたちがどういうひとたちで、その後どうなったということは皆目わからない。
ただすれちがうばかりで、それが余韻を残す。

たとえば、熊本から宮崎のおばあちゃんのところまでいくという、自転車の少年。
会った時点で、宮崎は120キロ先だ。
少年はぶじおばあちゃんのところにいけただろうか。
もちろん、その後のことはわからない。

著者の旅はいきあたりばったり。
事前に宿の手配をしたりしない。
そのため、その日の食事、風呂、寝床の確保がなによりも大切になる。
あるときはテントを張って野宿し、あるときは民宿に泊まり、あるときはゆきずりのひとの好意により、そのひとの家に泊めてもらったりする。

鹿児島で民宿に泊まろうとしたときは、そこの94歳になるおばあちゃんの話すことばがわからなかった。
ヘルパーの女性が通訳してくれるが、著者のいうことも、ヘルパーさんが通訳しておばあちゃんに伝えるのをみて、著者は仰天する。

鹿児島から宮崎に入ったところで、温泉に入る。
すると、一緒に温泉につかっていた年配者に声をかけられる。

《「鹿児島弁わかった? 宮崎にきてほっとしただろう。ここなら、日本語がまともだからねえ」》

島根の醸造所を訪れたときは、日本語がわからないふりをして、味見コーナーでワインを堪能。
ここに、著者にしてはめずらしく、日本人の「外人恐怖症」についての解説めいた文章があるので引用したい。

《最初は誰も、話しかけてくれない。誰かに日本語で話しかけてはじめて、見るからにほっとした様子で、恐怖症の垣根が取り除かれ、ごく普通の人間として扱ってもらえるようになる》

《レストランに入るときには、天気について二言三言いえば、たいていはうまくいく。もっとも、バックパックを背負った、背の高い半ズボン姿の外人が、田舎の小さな食堂にやってくるとは、誰も予想していないにちがいない》

《のちに梅雨入りしてからは、宿探しで「外人恐怖症」にはずいぶん泣かされたが、そのころはもう慣れていて、苦労の種の一つと見なせるようになっていた》

米子駅近くのビジネスホテルに泊まったとき。
朝食の席に浴衣姿でいったところ、ほかの客はスーツにネクタイ。
「外人が浴衣を着ている」と苦笑する。

《「そっちこそ、日本人のくせにスーツを着ているじゃないか」と内心毒づきながら、わたしも笑い返した。》

高山のあるお寺に泊まったときのこと。
朝食にゆで卵がでた。
外人は生卵が苦手だと思い、ゆでてくれたのだ。
でも、著者は生卵も食べられる。

《親切のつもりで卵をゆでてくれたのだろうが、わたしは特別扱いされることに、いい加減うんざりしていた》

この寺には、ほかの外国人も泊まっていた。
「あなたの卵、ゆでてあるんですよ」と訴えると、その外国人は「ああ、それはありがたい」と喜ぶ。
そこで、著者はまたしても毒づく。
《「この外人め!」》

こんな著者は、福岡県の途上で一度、中年女性に、「にいちゃん、何時ごろでしょうか?」とたずねられた。

《これには、驚いた。時間を聞かれたからではない。「にいちゃん」と呼ばれたことに、である。「にいちゃん」とは直訳すれば「兄」という意味だが、この場合は「そこのお若いの」という意味になる。非常にくだけた、親しげな呼びかけの言葉で、そのように呼ばれたのは初めてだった》

著者は大いに喜ぶのだが、この一件を奥さんに話すと、奥さんはにべもなくこたえる。
《「きっと目が悪くて、あなたが日本人に見えたのよ」》

著者が日本を縦断したのは、1993年。
期せずして、本書は当時の世相を映している箇所があり、味わい深い。
《皇太子の結婚式まで、あと三日。日本中が興奮の渦につつまれている》

長野オリンピックはまだ開催されていなかった。
《長野は、来るべき冬季オリンピックに備えて、建設ラッシュに沸いていた。…脚光を浴びる日が待ちきれなくて、町全体が浮足立っているのは、はた目にも明らかだった》

福井県で道連れとなった49歳の男性は、東京で力仕事をしていたものの、不景気のため建設現場の仕事が激減。
故郷にもどるところだった。
《敦賀までの電車賃で蓄えを使い果たし、ここ三日間ほど歩き続けているという。荷物はなく、イカの干物を入れたビニール袋を持っているだけだ》

酒田の路上でマスクメロンを売っていたおばさんはいう。
《「バブルがはじけったって言うけどさ、あたしにゃ何のことだか、さっぱりわからない。わかるのは、誰もメロンを買わないってことだけ。バブルとやらと、どういう関係があるんだろうねえ」》

大野をでて、九頭竜峡に向かう途中の、ひなびた食堂に入った著者は、そこで恐るべきものをみる。
食堂のなかは、動物のはく製でいっぱい。
さらに女主人は、冷凍庫から冷凍タヌキをもちだしてくる。

《「これはね、お客様に見せるためにとってあるの。みなさん、たぬきを見たがるから」》

このときの印象がよほど強かったのだろう。
著者は、のちの「百名山」の旅の途中、この食堂を再訪している。

このあとも、痛めた足を手術したり、パイロットをしている友人のアンディと一緒に歩いたり――アンディは1日歩いただけで足を痛めて帰ってしまう――小学校を訪れたり、知的な障害をもつ子どもたちと一泊したり、青森でねぷたに参加したりしながら、旅は続く。

「四国八十八か所 ガイジン夏遍路」
こちらは、1995年、四国八十八か所を徒歩でめぐった旅の記録。

以前から、著者は四国巡礼をしてみたいと思っていた。
そこで、以前から娘がほしいと思っていた奥さんは、著者の希望を逆手にとる。
お遍路は、肉食、飲酒、情交を断たなければならない。
――はめられた。
と思いながら、著者はお遍路に出発する。

出発は7月なかば。
お遍路といえば春だが、仕事の都合で夏しかいけない。
スタートは、徳島市にある一番札所(ふだしょ)の、竺和山霊山寺(じくわさんりょうせんじ)から。
白衣(びゃくえ)を着て、金剛杖をもち、菅笠をかぶり、いざ出発。

本書は、八十八か所のお寺について、くわしく書かれている。
ガイドブックとしてもつかえそうだ。
また、当節のお遍路事情を知ることができる。

お遍路には序列があるという。
一番えらいのが、著者のような歩き遍路。
次が、自転車遍路。
以下、バイク遍路、カー遍路、タクシー遍路、バス遍路と続く。
歩き遍路でも、野宿をするとえらい。
野宿をした遍路は、泊まり遍路を見下す。

しかし、歩き遍路のほうがタクシー遍路より上だと、いい切っていいものかと、著者は疑う。
《タクシー遍路だって、旅の足と宿に相応の時間と費用をかけて、行脚を終えようとそれなりに努力しているではないか。》

これは、すべてのエセーについていえることだろうけれど、エセーを面白くするのは、この自己批評性だろう。

外国人の歩き遍路である著者に、地元のひとたちは優しい。
ほうぼうで、お布施をもらい、えらいえらいとほめられる。

《今回の旅は、数年前の日本列島縦断の歩き旅とは、がらりと趣向が異なりそうだ。八十八か所の霊場巡りという目的があるし、白衣という出立ちだけに、通りがかりの人にもお遍路さんだとすぐにわかる。歩き遍路は精神的に、あるいは食料や金銭という目に見える形でさまざまな支援を受けられる。これは、実にありがたい。》

旅をはじめて4日目(だと思う)。
二十一番札所、舎心山太龍寺(しゃしんざんたいりゅうじ)で、タケゾウという若い僧侶と出会う。

このタケゾウ、じつにろくでもない。
金がないと開き直って、他人の善意にすがることを、お遍路だと確信している。
民宿にただで泊まろうと計略を練り、まず風呂を借りようとする。
が、民宿の主人はその手には乗らない。
タケゾウはしつこく食い下がるが、主人はその申し出を断る。
この光景をみて、著者は、これまで千年間、托鉢僧にたかられてきた四国のひとたちを気の毒に思う。

こうして、しばらく著者とタケゾウの珍道中が続くのだが、タケゾウは著者の健脚についていかれない。
ついにタケゾウを置いて、著者は先に進む。

牟岐(むぎ)町で一泊したときは、ちょうどお祭りをしているときだった。
そこで、今回の旅ではじめて外国人に会う。
その若い女性は著者に、スペイン語は話せますかと聞いてくる。
女性は、漁師をしている夫と故郷のウルグアイで出会い、日本にやってきたのだった。
著者と女性は日本語で話しあう。

《「日本には、八年前に来たんですよ。でもこのあたりじゃあ、スペイン語を話せる人なんていなくて。みなさん英語で話しかけてきては、通じないと知って驚くんです。あなたが日本語を話せて、よかった!》

お遍路さんは、霊場に着くと納経所にいく。
そこで、納経帳に寺の名前を書いてもらい、朱印を押してもらう。
そのため、どこの納経所にもドライヤーが置いてあるという。
納経帳が汚れないためにだ。

観光バスがずらりと並んだある寺の納経所では、なにごとにも無関心を貫くお坊さんしかいなかった。
《思うにこれは観光業がもたらした、「坊さん燃え尽き症候群」なのではあるまいか。》

また、別の寺で。
護摩を見物した著者は、事務室で住職と話しあう。
そのとき、護摩で助手をつとめた2人の尼さんがやってきて、タイムレコーダーを押す。

1995年は、フランスがムルロアで核実験をした年だった。
著者がニュージーランド人だと知ったある男性は、「フランスはムルロアで何てことをするんだ!」と怒る。

《核問題についてはおなじ意見を、道中で何度も耳にした。現実に核爆弾を投下された唯一の国家として、核問題で激高しない日本人はまずいない。反核の気運が高まって反核の立場を明確に示したニュージーランドに、わたしが出会ったおおかたの日本人が拍手喝采してくれた。》

スーパーに入ると、外国人ということで、たいそう驚かれる。
著者はいたずらっぽく書いている。

《道を行く場合は、はるか遠くからでも姿が見えるから、遍路が来たぞと相手にも構える余裕がある。少なくとも、落ち着いた顔を装うことならできる。しかしスーパーマーケットとなると話は別で、面白いこと請け合いである。商品がならんだ棚に挟まれて、通路も狭く、誰もこちらに気づかない。買い物客がひょいと角を曲がったら、不意に奇怪な予想外の恐ろしいもののけが登場するというわけだ》

著者はときどき、スーパーにいき、地元のひとを驚かせては楽しんでいたようだ。

このあとも、足摺のユースホステルでアホ少年と同宿するはめになったり、学校のプールを借りてひと泳ぎしたり、一泊1500円の民宿に泊まったり、タケゾウと再会したりしながら歩き続ける。

それにしても、著者は観察が細かい。
どこの納経所に美人がいたかなんてことを、よく書いている。
毎日40キロほど歩いて、さらにメモをとっていたのだろうか。
それとも、みんな記憶で書いたのだろうか。
どちらにしても、たいしたものだ。


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