かくれ佛教

「かくれ佛教」(鶴見俊輔 ダイヤモンド社 2010)

前々回、マクヴェイ山田久仁子さんが書かれた、「鶴見俊輔さんの本をハーバード大でみつけた話」(「一冊の書きこみ本から」)を読んでから、鶴見俊輔ブームが到来している。
で、今回は、「かくれ佛教」。
インタビューをまとめた本なので読みやすい。
話は具体的で、エピソードは豊富、注釈は充実。
鶴見さんはあとがきで、「この本は村上紀史郎氏との合作である」と記している。
鶴見さんにインタビューし、構成し、出展を調べたのは村上紀史郎さんなのだそう。

本書は、鶴見さんが宗教についての考え、あるいは感慨を述べたもの。
インド人アーナンダー・クーマラスワミーの「ブッダ伝」を読んで、鶴見さんは学問としての仏教にふれた。
それから、法然、親鸞、一遍、良寛。
大逆事件に連座した内山愚童、アナキスト石川三四郎。
柳宗悦、橋本峰雄、創価学会の創始者牧口常三郎。
祖師禅の創始者、馬祖道一。
その遠い日本の弟子である岡夢堂。
キリスト教では、ドイツの神秘主義者エックハルト。
作家ヘンリー・ジェームズの兄で、「有限の神」という考えを述べたというウィリアム・ジェームズ。
…などなどのひとたちについて語っている。

この本のなかで、鶴見さんは「客観性の誤用」ということを述べている。

「例えば「USAに湾岸戦争を止める動きはなかったのか」。そういったことを社会科学が問題として出す。これはmisplaced objectivityだ。objectivity(客観性)は、そういうふうに使うべきではない。自分が入っているとどうなるかと考える」

本書の語り口は、客観性とは逆。
主観的というか、縁あるひとたちについて語っている。
上に挙げたひとたちも、一見、雑多なようだけれど、すべて鶴見さんに縁あるひとたちだ。
どのひとをとっても、鶴見さんの肉声が響いている。
だから面白いのだろう。

一例として。
良寛にふれたとき、鶴見さんは、「良寛はunlearnした人だ」という。
unlearnとは、「学びほどく」というほどの意味。
このことばを、鶴見さんは、ヘレン・ケラーから教わった。
ニューヨークの図書館で、ヘレン・ケラーに会ったとき、「私はハーヴァードの隣りのラドクリフでたくさんのことを学んだけれど、大学をはなれてから、多くをunlearnしなければならなかった」と、ヘレン・ケラーはいったのだそう。
それに感銘を受けた鶴見さんは、良寛も「unlearnしたひとではなかったか」と思う。

鶴見さんを介して、良寛とヘレン・ケラーが出会う。
これがこの本の面白いところ。

もうひとつ。
鶴見さんは、創価学会にわりあい好意的。
それはなぜか。
じつは、鶴見さんの家庭教師が、創価教育学会(創価学会の前身)系統のひとだったから。
家庭教師がもってきた、戸田城外(のち城聖)のつくった参考書で、小学生の鶴見さんは勉強したという。

縁は、引きあうものだけではなく、反発するものもある。
戦時中、一部にせよ、中国人を殺していいと本気で信じて駆け回っている坊さんや牧師がいた。
あの戦争を支持しないということに、大変な努力を払った鶴見さんは、これら坊さんや牧師さんに非常な違和感をもった。
よって、「一代限りの恨みがある」。

「私の葬式のときは、友人の僧侶や牧師に説教などしてもらいたくない」

縁があるといえば、鶴見さんがハーヴァードの図書館で、「余は如何にして基督信徒となりし乎」を借りだしたら、そのなかに手紙がくっいていたという。
どうも、ウィリアム・ジェームズがこの本を読めといって渡した本が、転々としてこの図書館にたどり着いたらしい。
だれに渡したのかがわかれば面白いのだけれど、さすがにそこまでは書いていなかった。
それにしても、ハーヴァードの図書館には、書きこみや手紙つきの本がたくさん眠っているのだろうか。

それから、驚いたことがひとつ。
この本の終わりごろに、内山節さんの「共同体の基礎理論」(農山漁村文化協会 2010)という本について触れた箇所がでてくる。
たまたま読んでいたから、おやっと思ったのだけれど、この本がでたのは2010年の3月だ。
「かくれ佛教」は、同じ年の12月にでている。
ということは、鶴見さんは、「共同体の基礎理論」が出版されるとすぐに読み、すぐインタビューで話したのだろう。
米寿を越えてなおこうかと、その好奇心には感心してしまう。

(この本の巻末にはインタビューの日付も載っている。それをみると、あとがきに記された日付のあとにもインタビューをしていることがわかる。こんなところも面白い)

最後に、鶴見さんのハーヴァードでの卒論が、「一冊の書きこみ本から」と「かくれ佛教」でちがっているので、それを記しておきたい、

「一冊の書きこみ本から」に載っている卒論のタイトルは、

「ウィリアム・ジェームズのプラグマティズム Pragmatism of William james」。

この卒論は、「名誉ある卒論 honor thesis」として、いまも大学で保存・公開しているそう。

いっぽう、「かくれ佛教」で、鶴見さんが語っている卒論のタイトルはこう。

「実在しないものについての理論、ないということについて、とくに強調をこめて A theory of non-existential being with a special emphasis on nothing in particular」。

これはジョークだね、と鶴見さんは述べている。



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