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Made by hand、タブッキ、メビウス、ドライヴ

忙しくて、更新もままならない。
4月を甘くみていた。
なんという忙しさだ。

それでも本は読んでいる。
とりあえず、最近読んで面白かった本のメモを少し。

「Made by hand」(マーク・フラウエンフェルダー オライリー・ジャパン 2011)
これは、なんでも自分でやってみようと思ったアメリカ人のエセー集。
工作し、園芸し、改造し、飼育する。
ギターをつくり、木からスプーンを削りだし、エスプレッソマシンを改造し、野菜を育て、ミツバチを飼い、ニワトリをコヨーテから守るために金網を張り、小屋をつくる。
話が具体的でとても面白いし、失敗を恐れずチャレンジする著者の姿には勇気をあたえられる。
こういう本を読んで思うのは、日本のエセーとのちがいだ。
なにがちがうのかうまくいえないのだけれど、明らかに日本のものとちがう。
最初から日本語で書かれたこんなエセーがあったら読んでみたいのだけれど、それは無理な相談だろうか。

新聞をごくたままにしか読まない。
なのに訃報に出会う。
アントニオ・タブッキが亡くなったと知り、とても驚いた。
さっそく、手元にあった未読の本を2冊読む。
「逆さまゲーム」(白水社 1998)
「黒い天使」(青土社 1998)

両方とも短編集。
タブッキの作風は茫漠としてして、そこにあるなにかを読者に察せさせるというもの。
いわば、読者に花をもたせる作風だ。
茫漠としたところに、抒情味があり、その抒情がひとを打つ。

ただ、今回読んだ2冊は、あまりにもそこはかとなさすぎて、読んでもいまひとつぴんとこなかった。
特に「黒い天使」はそう。
「逆さまゲーム」のほうがわかりやすくて面白かった。

一番好きなタブッキ作品はなんだろう。
どうも「島とクジラと女をめぐる断片」(青土社 2009)に落ち着きそうだ。
まだ、読んでいないタブッキの本が一冊部屋にあるはずなのだけれどみつけられないでいる。

フランスの偉大なコミック・アーティスト、メビウスも亡くなった。
さっそく「エデナの世界」(TOブックス 2011)を読んでみる。
日本のマンガと文法がちがうから、非常に静かな印象を受ける。
聖書のエデンの園の逸話を下敷きにしたSFで、夢から夢へ、どんどん入りこみ、さまよっていく展開が面白い。
最初のほうで、突然場ちがいにシトロエンがでてきて、シュールだなあと思っていたら、この作品はまずシトロエンの販促物として描かれたのだそう。

あと、「ドライブ」(ジェイムズ・サリス 早川書房 2006)が映画化されたというので、みにいった。
もうすぐ上映終了というころだったせいか、お客は10人くらい。
原作は読んだけれど、ストーリーはいいぐあいに忘れていたので楽しめた。
ストーリーは忘れていたけれど、印象は残っていて、もっと貧乏な感じの話かと思っていたらそうではない。
これは、こちらの記憶ちがいか、映画化にあたり少しリッチにしたのか。
原作同様、映画もシンプルなつくりで、緊張感があり、よくできていると思った。
驚いたのが、銃声の音。
最近の映画の音響にはびっくりさせられる。


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「エネルギーレビュー」、田村隆一、長田弘

雑誌「エネルギーレビュー」2011年4月号の巻頭に、編集長金木雄司さんによる「読者の皆さまへのお詫び」と、株式会社エネルギーレビューセンター代表取締役長田高さんによる、「東北地方太平洋沖地震の被災者の皆さまへお見舞い」という文章が載せられている。

「お詫び」というのは、発行日を遅らせてしまったこと。
なぜ遅れたのか。
当初、「原子力発電所の地震安全」というテーマで特集を組んでいたところ、地震が起き、内容を変更したためだという。

「本誌は「広く詳しく正確な情報・評論を」を標語に掲げていることに鑑み、特集企画を当初の内容どおりに大地震発生直後に発行することは相応しくないと判断し、急きょ内容を差し替えて発行することにした次第です」

差し替えた結果の特集は、「風力発電は新エネの柱」。
「エネルギーレビュー」をさかのぼって読んでいけば、原発の安全性にかかわる言葉がいくつか拾えることと思う。
大きな図書館には置いてあるだろうか。

「鳥と人間と植物たち」(田村隆一 徳間書店 1981)
副題は、「詩人の日記」。
というわけで、本書は日記風のエセー。
晩年の軽みには欠けるけれど、面白くてひと息に読んだ。
余勢をかって、手元にあった「すばらしい新世界」(新潮社 1996)と「自伝からはじまる70章」(思潮社 2005)まで再読。

「鳥と人間と植物たち」の終わりのほうに、スコットランドに旅行にいったことが書いてある。
これは、平凡社カラー新書のためのウィスキーの取材だった。
このとき同行したカメラマンが、いま時代小説作家として名高い佐伯泰英さん。
そのときの旅行の模様やその後の交流を、岩波のPR誌「図書」2011年2月号に書いている。

それによれば、スコットランド取材中、パリに寄った田村隆一は、パリのビストロで、同行していた愛人の父親と遭遇したのだそう。
この話、さっぱりしていてやけに面白い。
「鳥と人間と植物たち」では、この愛人は〈家内〉として登場する。
これもなにやら面白い。

田村隆一と愛人だか家内さんは、佐伯泰英さんの近所に引っ越してきて、しばらくゆききがあったそう。

〈私と娘が田村を訪ねると、気遣いの詩人は必ず、
 「おい、ざるを三枚頼め」
 と、蕎麦屋から出前をさせ、自分はベッドに仰向けに寝たまま、蕎麦を手繰った。娘と私もベッドの脇の床に胡坐をかいて蕎麦を啜った。〉

〈時に蕎麦にむせた田村が床の上に転がり落ちてくることもあったが、私たちは慣れっこだった〉

「田村隆一全集」(河出書房新社)の最終巻、6巻目が先月めでたく出版されたそう。
これは、毎日新聞(3月28日夕刊)の「詩の波 詩の岸辺」という欄に書いてあった(この欄、はじめてみたけれど、このときが最終回だった)。
書き手は、松浦寿輝さん。
松浦さんは、田村隆一の第一詩集「四千の日と夜」のなかの「立棺」を引用し、この詩集ができるまで敗戦から11年という歳月が必要だったのだから、今回の地震が才能ある詩人によって詩篇として結実するのにも同じくらいの歳月がかかるだろう、と書いている。

その「立棺」の冒頭はこうだ。

〈わたしの屍体に手を触れるな
 おまえたちの手は
 「死」に触れることができない〉
 ……

「詩ふたつ」(長田弘 クレヨンハウス 2011)
ちょっと前の毎日新聞に、この本の紹介がでて、びっくりした。
出版されたのが去年の6月だから、いかにも遅い。
ひょっとしたら、今回の地震で思い出されたのかもしれない。
危機のとき思い出されるのは、散文よりも詩だと思う。
たしか、同時多発テロのときはオーデンの詩が改めて読まれたのではなかったっけ。

「詩ふたつ」は文字通り、「花をもって、会いにゆく」と「人生は森のなかの一日」という二つの詩に、クリムトの絵を組みあわせた詩画集。
静かで、品があって、美しい。
毎日新聞の紹介は、「花をもって、会いにゆく」からの引用だったから、ここでは「人生は森のなかの一日」から引用しよう。

〈わたしは新鮮な苺をもってゆく。
 きみは悲しみをもたずきてくれ。〉


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「寒い国から帰ってきたスパイ」「暗くなるまで待て」「世界文学を読めば何が変わる?」

「寒い国から帰ってきたスパイ」(ジョン・ル・カレ 早川書房 1978)
訳は宇野利泰。

名高いスパイ小説だけれど、読んだことがなかった。
ジョン・ル・カレの作品自体、読むのははじめて。
ストーリーは、英国情報部ではたらく主人公がわざと落ちぶれ、東独のスパイを引きつけ、金のためを装って情報を流し、ある東独情報部員の失脚を狙うのだが…というもの。

描写を積み重ねて読ませるストーリーテリングが素晴らしい。
さすが名作。
驚いたのは、本書は法廷ものでもあるということ。
スパイ小説のクライマックスは活劇だろうと思っていたのでびっくりした。

皆で話しあって結論をだすということは、法廷ものは広義の会議小説に分類されるだろう。
会議小説なんてジャンルはあるかどうか知らないけれど、英米の小説を読んでいると、むこうのひとたちは会議小説がものすごく好きなんだなあと思う。
「指輪物語」でも、ホビットたちが旅にでるのは会議に出席するためだった。
この発想は、日本の小説にない気がする。

とても楽しんで本書を読了したけれど、疑問がひとつ。
主人公とヒロインが恋仲になっていなかったら、一体どうしていたのだろう。
この点、読んでいる最中は気にならないけれど、いささか無理があるような気がする。


「暗くなるまで待て」(トニー・ケンリック 角川書店 1984)
訳は上田公子。

これもスパイ小説。
でも、「寒い国…」とくらべたらずっとファンタジック。
ファンタジックなのは、アイデアの芯に架空の発明がつかわれているせいだ。

人間に「夜間視力」を発現させる薬品を開発した軍が、テストをおこなうために主人公に接近。
主人公は軍の実験に協力するが、同時に「夜間視力」をほしがる外国のスパイにも狙われるはめに…というストーリー。

「夜間視力」というのは、夜、昼間と同じようにみえるけれど、昼間はまるでみえなくなってしまう。
そこで、ボランティアで目が見えなくなったひとの手助けをしている主人公に白羽の矢が立った。
そればかりでなく、主人公には軍の要請を断れない過去がある。
つまり、だいぶキャラクターに寄りかかってストーリーが構築されているので、ここで、あんまり都合がよすぎるじゃないかと思うひとは、本書を読み通せないだろう。

でも、ユーモラスな筆致と要所要所の描写は、さすがケンリック。
後半は活劇につぐ活劇。
そして、ラストはどんでん返しにつぐどんでん返し。

サービスたっぷりで、とても面白かった。
と、いいたいのだけれど、個人的には残酷味が強すぎた。
もうちょっと軽いほうがよかった。

訳者の上田公子さんは、本書の前作、「バーニーよ銃をとれ」を書いているとき、ケンリックの頭に「夜間視力」のアイデアが浮かんだのではないかと推察している。
それにしても、よくまあ、ひとつのアイデアを転がして、うまく小説に仕立て上げられるものだ。


「世界文学を読めば何が変わる?」(ヘンリー・ヒッチングズ みすず書房 2010)
副題は「古典の豊かな森へ」
訳は、田中京子。
編集者は、成相雅子。

本書は、世界の古典文学や読書や教養について記したエセー。
面白そうだと思ったのだけれど、語り口がうるさくて読めなかった。
3800円もするのにつまらないなんて、悲しくてやりきれない。
38円だったらよかったのに。


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「キス・キス」「夜の旅その他の旅」

大きな災害や災難が訪れると、フィクションを読むのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
電車に乗っても、目に入る広告など凄まじく白じらしい。
そうだった、惨事が起こるとこういう気分になるんだったと思い出した。

じゃあ、最近は小説を読んでいないのかというとそんなことはない。
むしろ、いままで以上に、なかばムキになって読んでいる。

最近読んだのは、「異色作家短編集」のこの2冊。

「キス・キス」(ロアルド・ダール 早川書房 1974)
訳は開高健。
収録作は以下。

「女主人」
「ウィリアムとメアリイ」
「天国への登り道」
「牧師のたのしみ」
「ビクスビイ夫人と大佐のコート」
「ローヤル・ジェリイ」
「ジョージイ・ポーギイ」
「誕生と破局」
「暴君エドワード」
「豚」
「ほしぶどう作戦」

「夜の旅その他の旅」(チャールズ・ボーモント 早川書房 1978)
訳は小笠原豊樹。
収録作は以下。

「黄色い金管楽器の調べ」
「古典的な事件」
「越してきた夫婦」
「鹿狩り」
「魔術師」
「お父さん、なつかしいお父さん」
「夢と偶然と」
「淑女のための唄」
「引金」
「かりそめの客(チャド・オリヴァーと共作)」
「性愛教授」
「人里離れた死」
「隣人たち」
「叫ぶ男」
「夜の旅」

じつは、チャールズ・ボーモントのほうは読んだものの、あんまりピンとこなかった。
タイトルは素敵だし、うまいのはわかるんだけど…という感じ。
このなかで好きなのは、闘牛を題材にした「黄色い金管楽器の調べ」くらいだ。

いっぽう、ロアルド・ダールのほうは堪能した。
短編集で、こんなに粒がそろっているのはめずらしいと思うくらい、どれも読みごたえがある。
ユーモラスなのは、奇想天外な方法でキジの密猟をたくらむ「ほしぶどう作戦」くらい。
あとはどの作品も、冷酷で残酷で不気味。


まず面白かったのは、若い男が部屋を貸している女主人と出会う「女主人」
不気味なほのめかしかたがじつに見事だ。

それから、フォスター老夫妻のあいだに起こったできごとをえがいた、ミステリ風味の「天国への登り道」
ワン・アイデア小説なのだけれど、よく読ませる。

日曜日ごとに牧師に化けて、田舎町をめぐっては骨董家具をみつけて買い叩くポギス氏の物語、「牧師のたのしみ」は素晴らしい完成度。
ダールは、すぐに通になるタイプのひとだったのか、ウンチクの多い作品がよくあって、これもそのひとつ。
読んでいて、別にポギス氏に肩入れするわけではないのだけれど、結末がみえてくると思わず脈が早くなる。
本書中、随一の一篇だ。

愛人から手切れの品として、とても高価なミンクのコートを贈られたビクスビイ夫人。
夫に怪しまれないように、コートを質に入れ、質札をタクシーで拾ったように偽るのだが…という、「ビクスビイ夫人と大佐のコート」も、夫婦もので、皮肉の効いた一篇。

あんまり不気味すぎるのは、個人的にダメだった。
「ウィリアムとメアリイ」とか「ローヤル・ジェリイ」とか。
最初、童話めいた語り口で楽しく読んでいたら、最後にとんでもないオチがつく「豚」もあんまり。

訳者あとがきで、開高健は小泉太郎氏と常盤新平氏に感謝を記しているけれど、小泉太郎は、生島治郎の本名じゃなかったかと思う。
そして、「キス・キス」は下訳を小泉氏がやり、開高健がこのままでいいといって、ほとんど下訳を完成稿として出版したという逸話が、ハヤカワミステリにかかわっていたころを題材とした生島治郎の回想小説、「浪漫疾風録」(講談社 1996)に書いてあったような気がする。

初期のハヤカワミステリに興味のあるひとは、この小説を読むときっと面白い。
田村隆一が、支離滅裂ながら、なにやら格好良よかったのが印象的。

長年の懸案だった、「手元の異色作家短編集をぜんぶ読む」は今回の2冊でついに終了。
読み終わった本はみんな手元から放したけれど、「キス・キス」だけはとっておこうかと、いま悩んでいるところ。


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ヴォネガット、ヘルボーイ、オーパ!直接原稿版

「デッドアイ・ディック」(カート・ヴォネガット 早川書房 1984)

ヴォネガットは好きな作家なので、なにを読んでも楽しい。
でも、「デッドアイ・デイック」はまだ読んだことがなかった。
で、たまたま古本屋でみつけたので読んでみることに。

手法はいつもの、断章によってつづられる回想記。
今回の語り手は、ルドルフ・ウォールツ。
舞台は、オハイオ州のミッドランド・シティという田舎町。

まず、物語はルドルフの父、オットー・ウォールツについて語られる。
インチキ売薬で富を得た家の息子、オットーは、なんの根拠もなく芸術の才能があると祖母に思われて、家庭教師をつけられる。
が、この家庭教師がとんだ食わせもので、オットーを放蕩の道に誘いこむ。
家庭教師はクビになり、オットーはウィーンの親戚宅へ預けられることに。
ウィーンの美術アカデミーへの入学を拒否されたオットーは、たまたま居合わせ、同じ目にあっていたアドルフ・ヒトラーと意気投合。
その後、ウィーンで日々どんちゃん騒ぎをくりひろげたのち帰国。
妙なかたちの家を建ててそこに住み、結婚し、派手好きで勘違いばかりする無能力者として、落魄してゆく人生を送る。

ユーモラスな語り口と、荒唐無稽なストーリー、全体をおおう悲哀の雰囲気は正にヴォネガット調。
ウォールツ一家はこのあと、運命の変転により、すっかり貧乏になるのだけれど、それには語り手のルドルフが大いにかかわっている。
また、舞台のミッドランド・シティは、この物語が語りだされたとき、祖国の中性子爆弾により全住民が消滅したという設定になっている。
つまり、2重の喪失がえがかれる。

ところで、この小説には、シリルという氷のような美女が登場する。
「猫のゆりかご」(早川文庫 1979)にもそんな美女が登場したような気がするし、それからオットーはできそこないの画家だけれど、「青ひげ」(早川文庫 1987)の語り手もたしか画家だったかと思う。
作家はだれでもお気に入りのモチーフがあるものだけれど、ヴォネガットは、氷のような美女や画家がお気に入りだったのだろうか。

好きな作家の作品を読むと、あれこれいうのが面倒くさい。
面白かったといって本を閉じる以外、なにもする気が起きなくなる。
ただ、「デッドアイ・ディック」を読んでいたら、突然、「小森陽一、ニホン語に出会う」(小森陽一 大修館書店 2000)の一節を思い出したのでメモを。

小森陽一さんは、近代日本文学を専門とする大学の先生。
この本は、小森さんがご自身の言語体験をつづったエセー。
プラハの旧ソ連大使館付属学校に通っていた思い出から(ちなみに、先輩に米原万里さんがいたそう)、小学校6年生のときに帰国し、文章みたいな日本語しか話せずクラスメイトに笑われたこと、ロシア人の生活習慣を身につけていたためにクラスメイトに抱きついては嫌われたこと、相手との違和感を言語化する習慣が身についていたために、一学期最後のホームルームは「親もいわないようなひどいことをいうコモリクン」についてのつるし上げ大会となったことなど、苛酷なエピソードが年月を経た軽みのある文章で記されていて、気の毒ながら大変面白い。

でも、とりあげたいのはそこではない。
ひとり芝居の話だ。
小森先生がアメリカで近代日本文学を教えていたときのこと、ある日、学生とともに、ひとり芝居をみにいった。
その舞台では、青年が家族や身近なひとの物真似をつぎつぎと披露する。
見終わって、学生から感想をもとめられた小森先生は、「とても懐かしかった」とこたえて、学生にけげんに思われた。
「私はケンタッキーの同じ地域の出身だから、とても懐かしかったけれど、プロフェッサー・コモリはどうして懐かしいと感じたのですか」

その後、小森先生は役者の青年と話す機会を得、ひとり芝居をはじめたいきさつを聞く。
青年は、ニューヨークで演劇活動をしていて、将来を嘱望されていたけれど、標準的な英語、正しいアメリカン・イングリッシュでセリフをいうことに、次第に違和感を感じるようになった。
それで、セリフをいわなくてもいいような役に挑戦したけれど、こんどは、舞台の上で演じている自分のカラダは自分のカラダじゃないというような思いにとりつかれ、うごけなくなってしまった。
ニューヨークのアパートを引き払って、あてもなく車を走らせていると、トウモロコシ畑のなかで、突然おばあさんの声が聞こえてきた。
それは、おばあさんが自分のおじいさんから聞いた話で、おじいさんの父親が南北戦争のとき北軍で苦労をして、いまの土地に住みつくまでを物語ったものだった。

その夜泊まったモーテルで、青年は頭に響くおばあさんの声をカセットデッキに吹きこんだ。
それから毎日、車を走らせながら、自分の家族や近所のひとたちの声を思い起こし、語り直し、鏡を前に相手の身振りや表情を再現した。
ケンタッキーにもどってから、懐かしいと思うひとにはとにかく会いにいった。
家に帰って、そのひとたちの物真似をしてみると、父も母も喜んだ。
毎日会っているひとの物真似がこんなにうけるんだったら、はじめてのひとにだって面白いんじゃないかと思い、青年はこの芝居を思いついた――。

ところで、小森先生の「懐かしさ」の分析はつぎのようなものだ。
「私が彼のお芝居に懐かしさを感じた最大の理由は、彼が演じた家族や周囲のひとびとの声が、かつて聞き手であった彼のなかに刻まれ、それをいま一度記憶をよみがえらせながら演じることによって、語り手である他者と聞き手であった彼が、同時に舞台の上に立ちあらわれていたからではないか」

で、話はようやくヴォネガットにもどるけれど、回想形式をつかうヴォネガット作品は、どれもなんとなく懐かしい。
それは、上記のようなことをフィクションでやっているからではないかと思い、それで「小森陽一、ニホン語に出会う」のエピソードを思い出したのだった。

これは前にもいったかもしれないけれど、なにか思い出す本というのは、いい本だと思う。

「ヘルボーイ:百鬼夜行」(マイク・ミニョーラ ジャイブ 2010)
アメリカン・コミックス「ヘルボーイ」の最新刊がでたのでさっそく買って読んだ。
でも、話がいまいちわからない。
「ヘルボーイ」はたまにしか出版されないから、前回までの話を完璧に忘れてしまったのだろうか。
大いにありえる話だ。
でも、ひとつのまえの「ヘルボーイ:闇が呼ぶ」(ジャイブ 2008)を読んでいないという可能性もぬぐいがたい…。

「ヘルボーイ」シリーズはみんな似たような表紙なので、どこまで読んだのかすぐわからなくなる。
部屋のあちこちに散らばった「ヘルボーイ」をあつめ、きっと読んでいないだろうと判断。
「闇が呼ぶ」を買ってきて読んでみたら、はたして読んでいなかった。
まだ、記憶力は衰えていないようだとほっとした。
値が張る本なので、まちがえて2冊買ってしまったら、ずいぶん落ちこんだだろう。

「闇が呼ぶ」の序文は、ジェイン・ヨーレンが書いていてびっくり。
「私とヘルボーイは双子なのだ」と、親愛に満ちた文章を書いている。

残念なのは、「闇が呼ぶ」から、作画がミニョーラではなくなってしまったことだ。
「ヘルボーイ」の魅力の大部分はミニョーラの絵にあるのに、なんということだ。
作画のダンカン・フィグレドはミニョーラ風の絵を描いているけれど、いかんせん真似して描いているものだから、絵が精緻になってしまって、ミニョーラのぼけっとした魅力がなくなってしまっている。

ストーリーは、ヘルボーイの生い立ちをめぐるもの。
古今東西の神話や伝説を自在に引用する語り口は健在。
巻末の注釈も、いつもながら大変な充実ぶり。
これがないと、読むのに相当難儀するだろうから、じつにありがたい。

「オーパ! 直筆原稿版」(開高健 集英社 2010)
この出版には、ほんとうに驚いた。
何部くらい刷ったのだろう。
3000部くらいだろうか。
「直接原稿版」というのは、要は原稿用紙を印刷して本に仕立てたものだ。
それを読みたいというひとが、3千人もいるのだろうか。

不思議に思いながらも、開高ファンなので、いそいそと買って読んでみた。
で、思ったのだけれど、活字とちがう、直筆原稿版を読む面白さというのはたしかにある。
一字一字書いている、著者の思考のリズムによく寄りそって読むことができるといったらいいだろうか。
文字の一画一画を書きながら読んでいるような気分。
だから、読むのに時間がかかる。
活字をスキャンするように読むわけにはいかない。

1章が原稿用紙30枚というのも発見だった。
開高健の文章は密度が高いので、もっと枚数が多いような気がしていた。
原稿用紙30枚で、どれだけのことが表現できるか、肌でわかる気がする。

この出版に驚いていたら、新潮社からも「夏の闇」の直筆原稿版が出版された。
買って読むかどうか、いま思案中だ。

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最近読んだ本

いま時間がないので、最近読んだ本の話を――。

「事実と創作」(桑原武夫 講談社 1978)
という本を読んだ。
内容は、スタンダールを筆頭として、いくつかの文学評論をあつめたもの。
桑原さんの文章は、はじめて読んだけれど、きびきびとしていて小気味いい。
とくに、つねに作者の味方に立っているところが好ましい。

で、この本のなかに「三国志のために」という文章があって、

「三国志は必ず湖南文山の完本で読まなければならない」

と、書かれていて、吉川英治のしか読んだことないなーと思いながら古本屋にいったら、湖南文山の「三国志」が売っていたので買ってきた。

「通俗三国志」全3巻。
緒言によれば、湖南文山は元禄のひとで、その素性はよくわからないそう。
手元の本は、明治に石川核が校訂し、大正になって有朋堂から出版されたもの。
挿絵は北斎。
古本価格は全3巻で1500円だった。

文章は文語調。
この文語調が、密度があり、緊張感があり、読んでいてじつに楽しい。
ふりがなもあれば句読点もあり、また筋は知っているからわからないところは飛ばせばいいので、読むのに不都合はない。
どんな文章なのか、引用したいのだけれど、漢字変換が大変そうなのでよす。
とにかく物語がどんどん進み、登場人物がどんどん死んでいく。
決まり文句や、くり返しも多く、まるで「封神演義」のよう。
桑原武夫さんは、「イーリアス」をもちだしていたけれど、この叙事詩性というか、口承性が読んでいてくせになる。

桑原さんが湖南文山をもち上げるのは、要するにそれが最初に接した三国志だからだろう。
長ながと文章を引用したあげく、
「今のような文章のどこを縮めることができるのか、またどこに飾りが付けられるのか」
と、啖呵を切る。
でも、吉川英治の「三国志」が最初だったこちらとしては、三国志を小説の文体に置き換え、かつ膨らませた吉川英治もエライといいたい。

三国志自体も、読むのはひさしぶりなので、こんなことあったっけと忘れていたディティールに驚くこともしばしば。
三国志の冒頭は、玄徳、関羽、張飛の三人が義兄弟の誓いをするところからはじまる。
いわゆる、桃園の義。
この桃園は、張飛のうちの近所だったらしい。
玄徳のうちだとばかり思っていた。

それから、関羽は、寒い日はヒゲを袋に入れていたとか。
ちゃんと関羽は、ヒゲの手入れを欠かさなかったらしい。

それにしても、なんでこんなに面白いのか。
思ったのは、セリフがすぐれていること。
ある論点をめぐって意見が対立するときなど、面白さがじつに際立つ。
それから、物語が、計画→実行→成否、のくり返しで進むところなども、読むのがやめられなくなる理由のひとつかと思う。

ともかく、いまは、寝る前にこの湖南文山「三国志」を読むのが楽しみ。
きのうは官渡の戦いの場面を読んで、うっかり寝るのが遅くなってしまった。
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創造者/続審問/ボルヘスとの対話

ボルヘスは、引用するとなんとなく頭が良さそうにみえるので引用はするのだけれど、そんなにちゃんと読んだことがない。
だから、なんとなく借金ばかりが増えていくような気がしていた。
ところが、最近岩波文庫で立て続けに22冊本がでた。
で、これを機会に読んでみることに。

「創造者」(J.L.ボルヘス 岩波文庫 2009)
訳は鼓直。

これは寓話的詩文集と呼べばいいのか。
前半は、ほとんど散文詩のような、幻想的かつ超高密度の、非常に短い作品がいくつもおさめられている。
後半は詩。
どの作品も、密度が高く、硬く、しかし軽く、幻想的で、飛躍があり、かつ真率さがある。
読んでいると、じつに楽しい。
おさめられた作品のうち、どれがいちばんいいかなんて、面倒なことを考える気にならないくらい楽しい。
自分はこういうたぐいの作品がよくよく好きなんだなと思った次第。
読んでよかった。

「続審問」(J.L.ボルヘス 岩波文庫 2009)
訳は中村健二。

これは評論集というか、文学的エセー集。
〈続〉ということは、その前の本があると思うのが自然だけれど、本書の場合はない。
いや、じつはあったのだけれど、前の本は、作者が出版後すぐ回収し、生前には出版しなかったとのこと。

評論集とはいっても、とりあげられている作家たちは有名なひとたちが多いので接しやすい。
それに、一編一編はたいした長さではないので読みやすい。
また、注釈が充実しているので助かる。

ボルヘスが世界文学のなかから自分の好きな作品を選んで編集した「バベルの図書館には、各巻に序文がつけられていて、それを読むとボルヘスの序文のうまさに感服する。
同じように、短い文章のなかで作家の本質を一挙に把握してみせる手際には目を見張る。
たとえば、「オスカー・ワイルドについて」で、チェスタトンとワイルドくらべてみたところはこうだ。

「彼(ワイルド)の作品の基本的な味わいは幸福である」

「他方、肉体的精神的健全さの範例とも言うべき力強いチェスタトンの作品は、つねに悪夢と紙一重の世界である」

「チェスタトンは幼年時代を取り戻そうとしている大人であり、ワイルドは悪徳と不運にまみれながら、侵すべからざる無垢を保ちつづけた大人である」

面白いのは、ボルヘスの手にかかると、とりあげられる文学者たちがみな、ボルヘス作品の登場人物のようになってしまうこと。
ボルヘスは文学者たちをあまりにも自分に引き寄せすぎているのかもしれない。
でも、そこが面白いところだし、それに創作者の評論というのは、いつでも自作の注釈になってしまうものだろう。

(白状すると、この本はまだ半分くらいしか読み終えていない。体調をくずしたので放置していたのだ。これは個人的なくせだけれど、疲れたり、具合が悪くなったりすると小説が読みたくなる。評論のたぐいは元気がないと読めない。ほかのひともそうなんだろうか。もう半分はこれから読むつもり)

「ボルヘスとの対話」(リチャード・バーギン 晶文社 1973)
訳は柳瀬尚紀。

これは、タイトル通り対談集。
1967年、ボルヘス69歳のときになされたもの。
インタビュイーであるバーギンは、もとめられたときだけ意見をいい、あとは極力ボルヘスの話を聞こうとしていて、とても好感がもてる。
質問に答えるボルヘスは、慇懃かつ誠実。

この本のなかで、出版した本のなかでどれか気に入っているかという質問に対して、ボルヘスは「創造者」だと答えている。
「創造者」に対する自己評価は高い。
それに対するバーギンの返事はこう。
「(あの本には)あなたの本質的なテーマやモチーフがすべてあって、しかも重要なことに、あなたの声があります」

対談は、哲学や政治や文学以外の芸術についてもおよぶのだけれど、やはり文学についての話が面白い。
「続審問」を読んだときもそう思ったけれど、ボルヘスは個々の文学作品と同じくらい、それを書いた、文学というものに人生をからみとられた文学者たちに強い興味があったよう。
また、こんな読書の巨人が、文学を読むことについて「ぐっとくることがあって当然」なんていっているのは、とてもうれしい。
そう、文学を読むのが楽しいのは、「ぐっとくる」ことがあるからだ。

以下、面白いと思った発言を抜書きしてみたい。
抜書きの都合上、いいまわしを多少変更したりしているのでご注意のほどを。

《「オデュッセイア」は好きですが、「イーリアス」は嫌いです。「イーリアス」は、要するに、中心人物が愚か者です。つまり、アキレスのような男に感心ではないでしょう? いつもすねていて、人々がそれぞれ自分に不当をはたらくといって腹を立て、ついには自分の殺した男の死体を父のもとへ送る男です」》

《作家がひとりの人物で小説を、非常に長い小説を書く場合、その小説と主人公に生気を保たせる唯一の方法は自分と一体化することです》

《だから私の思うのには、セルバンデスもいくぶんそういうところがありました。「ドン・キホーテ」を書きはじめたとき、彼は主人公のことがほとんどなにもわからなかった。それで書きすすむにつれて、自分自身をドン・キホーテと一体化しなければならなかった。彼はそれを感じていたはずです。つまり主人公からかなり距離をおいて、その主人公をたえず茶化し、道化者あつかいしたりすれば、作品がばらばらになってしまうということをです》

《だからしまいに彼はドン・キホーテになったのです。彼はドン・キホーテに共感をいだいて、ほかの登場人物、たとえば旅籠の亭主や公爵、床屋や牧師などに退校したのです》

《私たちが何でも創り出せるとか、何でも創り出す必要があるとか考えるのは、ほとんど世界の神秘に対する侮辱です》

《(「不思議の国のアリス」について)すばらしい本です!》

《(どんな小説化が登場人物を創造できたかという質問に対して)コンラッド、それにディケンズです。コンラッドは確かです。というのはコンラッドの場合、すべてが現実的で、しかも同時に詩的であるという感じがするからです》

《ドストエフスキーの作品では、登場人物がやたらと大声で説明をする。人間というのはそんなふうなことをしないと思いますが、でもたぶんロシアではそうなのでしょう》

《私はヘンリー・シジェイムズをカフカよりずっと複雑だと考えるのです。しかしそれがひとつの弱点かもしれない。おそらくカフカの強みは複雑性の欠如にあるのでしょう》

《(作品があたえてくれる楽しみとは何だとお考えでしょう)それにはふたつの正反対の説明ができるでしょう。個人が自分自身の環境から逃れて、別の世界へはいっていこうとする、しかし同時に、その別の世界が周りの環境よりも自分の内面の自我にちかいために、それに興味をもつこともある。でもこういう説明は相伴うものですね。一方を受け入れて、他方を退ける必要はない》

《(楽しみというものが文学の主な目的だとお考えでしょうか)さあ、楽しみ、何ともいえませんが、しかしぐっとくることがあって当然でしょうね》

《私がセルバンデスに惹かれる理由のひとつは、彼を作家として、最大の小説家のひとりとして考えているだけではなく、一個の人間として考えているということです。ホイットマンのいうように、「友よ、これは書物ではない、これにふれる者は人間にふれる」》

《私が関心があるのは文学そのもののための文学だけではなく、人間に数多い宿命のひとつとしての文学でもあるということです。つまり、ひとりの人間が自己の夢に身をささげ、それからその夢を完成しようとする事実にです。そしてほかの人々にそれを共有させようと最善をつくすことにです》

《あの物語(「刀の形」)を書いたのはごく若い頃でして、当時は如才ないのがいいと思っていました。いまでは器用なのは障害だと思っています。作家は起用であるべきではない》

《不幸はなにかに変形しなければならない。あらゆる作品は不幸から生まれると思います》

《幸福な気持ちになったとしたら、それを受けとるだけで、せんさくしないほうがいいでしょう。せんさくしたなら、私には不幸であるための理由がずっと数多くあるということがわかってしまうからです。ただ自然と、無心に幸福になっているのなら、それでまったくいいのです。もちろん、そういうことはあまりないのですが》

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ウィルス性胃腸炎/500万ドルの迷宮/泥棒が1ダース

「500万ドルの迷宮」(ロス・トーマス ミリテリアス・プレス文庫 1999)
先週から引き続きロス・トーマスを読んでいたら、具合が悪くなった。
ウィルス性胃腸炎。
39度の熱をだし、七転八倒した。
どうも、ロス・トーマスを読むと熱をだすという個人的ジンクスがあるようだ。

医者からもらった解熱薬がよく効いて、「500万ドルの迷宮」はよろよろとだけれど、ふじ読了。
ストーリーは、主人公であるテロリズムの研究家スターリングスが、フィリピン新人民軍の指導者を500万ドルで買収してくれともちかけられるところから。
この指導者は、第2次大戦中のスターリングスの戦友。
この買収工作に、国際的詐欺師や、元シークレット・サーヴィスの美女や、自称中国皇帝位継承権主張者や、その友人にして腹心や、それにスターリングスがチームを組む。

チームを組んで、買収工作を成功させるのではない。
500万ドルをいただくのだ。
しかし、各人の思惑が錯綜し、事態は思わぬ方向へ――。

ロス・トーマスは、詐欺師をただ詐欺師と書いてことたれりとはしない。
そうしてくれればわかりやすくなるのに、登場人物の来歴や現在の状況は、つねにウィットに富んだ会話でなされる。
あるいは、やはりウィットに富んだ地の文によって語られる。

プロットをあやつる手つきはたいへん優雅。
優雅すぎて、ほとんど退廃的と思えるほどだ。

それにしても、ロス・トーマスは会話がうまい。
とくに、多人数による会話のうまさは際立っている。
会話のうまさは、おそらくシチュエーション設定のうまさが一役かっているはず。

あと、いま思いついたけれど、退廃的な感じがするのは、あまりにも――ナンセンスといえるほど――ゲーム的だからだろう。
ほとんど倫理的なまでにゲーム的。
本書中、500万ドル奪うことはフィリピンを混乱におとしいれることから救うことになるという意見がだされると、元シークレット・サーヴィスの美女、ジョージア・ブルーは、「そんな話をするなんて、信じられないわ」という。
なぜ、そんな話をするのがいけないのか。
ブルーはため息とともにこたえる。
「そんなことは一文の得にもならないのよ」

「泥棒が1ダース」(ドナルド・E・ウェストレイク ハヤカワ文庫 2009)
本書は、哀愁の中年泥棒ドートマンダー物の短編集。
この出版はとてもうれしい。
未訳の長編もぜひ訳してほしいものだ。
さて、収録作は以下。

「序文 ドートマンダーと私」
「愚かな質問には」
「馬鹿笑い」
「悪党どもが多すぎる」
「真夏の日の夢」
「ドートマンダーのワークアウト」
「パーティー族」
「泥棒はカモである」
「雑貨特売市」
「今度は何だ?」
「芸術的な窃盗」
「悪党どものフーガ」

簡単に内容を紹介。
「序文 ドートマンダーと私」
作者が作品の由来を説いたもの。
それにしても、作者というのは、作品を思いついたときのことをよくおぼえているなあ。

「愚かな質問には」
とある優雅な男に拉致されたドートマンダーは、元妻にとられた彫像を男が盗み出すための、その盗難プランにアドバイスしてやるはめに。

「馬鹿笑い」
ドートマンダーと相棒のケルプが馬泥棒に挑戦。

「悪党どもが多すぎる」
穴を掘って銀行の金庫に到着してみたら、ちょうど強盗に襲われている最中だったという話。
エドガー賞最優秀短篇受賞。

「真夏の日の夢」
ニューヨークをはなれ、ケルプのいとこのもとに身をよせていたドートマンダーとケルプ。
そのいとこがやっている劇場の売上金が盗まれ、ドートマンダーが疑われることに。

「ドートマンダーのワークアウト」
これは短篇というより、一口話。
ドートマンダー物にでてくる店、〈OJバー&グリル〉の常連客がくり広げる馬鹿話が主役。

「パーティー族」「泥棒はカモである」
この2編は、逃走中とある場所に逃げこむという、同じ趣向の作品。
片方はパーティー中の部屋に給仕として、もう片方はポーカーの一員として追っ手の目を逃れる。
また、両方ともクリスマス物だ。

「雑貨特売市」
ドートマンダー物のレギュラー・キャラクターのひとり、因業な故買屋アーニー・オルブライトが登場する一編。

「今度は何だ?」
盗品をさばきにでかけたドートマンダーが、つぎからつぎへと騒動に巻きこまれる話。

「芸術的な窃盗」
アーティストに商売替えした元同業者に、展覧会中の絵を盗んでほしいともちかけられたドートマンダーが、その隠された裏を見破る。

「悪党どものフーガ」
これは変り種。
ハリウッドの映画会社との契約により、作者は一時、ドートマンダーという名前がつかえなくなりそうになった。
この短篇につけられた序文によれば、「ジョン・ドートマンダーの名前使用権をハリウッド弁護士の匪賊どもに奪われそうになった」。

最終的に、その恐れは遠のいたのだけれど、このときウェストレイクはドートマンダーに仮名をつけておいた。
それが、ジョン・ラムジー。
で、ほかのレギュラー・キャラクターたちもそれぞれちがった名前をあたえられて書かれたのが、この短篇。
名前が変わると、登場人物はどう変わるのかという実験をしてみたかったと作者は書いている。
実験の結果、「名前がすごく重要であることが判明した」。

(このくだりを読んでいて、登場人物の名前が決まらないとき、編集者はそこだけ空白にして書き進めてくれなんていうけれど、そんなことは不可能だ、とある作家が話していたことを思い出した)

やっぱり先日読んだ「忙しい死体」にくらべると、まあ短篇と長編のちがいもあるかもしれないけれど、じつに手際がいい。
安定した作風と、すこぶる高い打率で、とても楽しめる短編集だった。

さて。
容態はだいぶましになってきたけれど、未読のロス・トーマスものはまだ残っている。
しばらく読むのをひかえるか、いっそのこと具合の悪いうちに読んでしまうか、いま考えているところ。

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露伴/ロス・トーマス/ウェストレイク

「幸田露伴」(斉藤礎英 講談社 2009)
「露伴は時間を止めてうたいだす」
と、いうことが書かれている長編評論。
この「うたいだす」ことを、著者は「エピファニー」と呼んでいる。

「露伴の小説がなんらかのエピファニー(ある種の宗教的な悟り、日常とは異なる時間が流れる仕事への没頭、全存在をかけた感情の奔出、いままでとは異なる認識の枠組みを得ること、など)をめぐるものであることは既に述べた。デビューしてから死までの60年間の作家生活は、このテーマの千篇一律の繰り返しだったと言ってもいい」

エピファニーの訪れる瞬間は、たとえば初期では「五重塔」の暴風雨。
後期では「運命」暴風雨。
「幻談」「観画談」「連環記」などにも、この瞬間がある。

物語の叙述を止め、うたいだす露伴作品には、ストーリーにしたがい、登場人物たちの関係性が変わったり、ちがう側面をみせたりなどということがない。
だから、露伴の歴史小説は、小説というより、語りたいことだけ語った講談のようなものになる。

以前から露伴が好きで、あの文章に歯が立たないながらに(「運命」は一度も通読できたためしがない)読んできたのだけれど、この本を読んで、自分がなぜ露伴が好きかようやくわかった気がする。
露伴はエピファニー作家だからだ。
この発見は大変うれしい。

おなじエピファニー作家として、開高健がすぐに思い浮かぶ。
自分が好きな作家のラインに、エピファニー作家の系譜があるんだとわかったのは大収穫だ。

「暗殺のジャムセッション」(ロス・トーマス 早川書房 2009)
「冷戦交感ゲーム」(1985 早川書房)の続編だそう。
まさか、いまごろ出版されるとは。

「冷戦交換ゲーム」は読んだけれど、ストーリーはまるきり忘れてしまった。
ロス・トーマスの作品は、どれも話がややこしくておぼえていられない。
あるとき、風邪で寝こんだとき、「黄昏にマックの店で」(ハヤカワ・ミステリアスプレス文庫 1997)を読んだら、なにが進行しているのかちっともわからなくてびっくりした。
にもかかわらず、面白かったという気分だけは残った。

ロス・トーマス作品でいちばん有名なのは、たぶん「女刑事の死」(ハヤカワ文庫 2005)だろう。
読んだなかでは、「モルディダ・マン」(ハヤカワ・ミステリアスプレス文庫 1989)が好みだ。
この作品は、比較的わかりやすいと思う。

ロス・トーマスは、導入を書くのが猛烈にうまい。
「暗殺のジャムセッション」は、主人公マッコークル(マック)の一人称。
「冷戦交換ゲーム」のあと、ワシントンに「マックの店」をかまえ、恋人フレドルと結婚したマック。
そこに、かつての相棒パディロが転がりこんでくる。
某国の首相暗殺を依頼されたパディロは、それを断って逃げ出してきたのだったが、依頼者たちはなんとしてもパディロにやらせようと、マックの妻を誘拐して――。

このあと、ストーリーは2転3転どころじゃない展開をみせる。
ロス・トーマスのほかの作品もそうだけれど、ほとんどナンセンス小説ぎりぎり。
でも、1人称のおかげか、ロス・トーマス作品にしてはわかりやすい。
ラストも切れ味よく終わっていて、とても楽しめた。

ただ、タイトルだけはいただけない。
これでは、ウェストレイクの「悪党たちのジャムセッション」(ドナルド・E・ウエストレイク 角川文庫 1999)と間違えてしまう。

「欺かれた男」(ロス・トーマス 早川書房 1996)
「暗殺のジャムセッション」が面白かったので、まだ読んでいなかったこの本も読んでみた。
ロス・トーマス最後の作品だ。

元陸軍少佐で、現在はとある銃砲店につとめるエド・パーテイン。
そこに、元上官である大佐があらわれる。
以前、エルサルバドルで起きた事件の口止めにやってきたのだ。
大佐のために仕事を失ったバーテインは、とある人物から、ミリセント・アルフードという婦人の、ボディガードの仕事を得る。
政治資金調達のエキスパートである彼女は、最近、自宅に保管していた120万ドルを盗まれていて――。

この作品はややこしかった。
途中、どのへんが伏線なのかもよくわからないほどのややこしさ。
でも、最初と最後はさすがの上手さだ。

あと、この作品では、年老いた男たちの痛々しさが印象的だった。
作者の年齢を反映したものだろうか。

「忙しい死体」(ドナルド・E.ウェストレイク 論創社 2009)
ウェストレイクの新刊もでた。
じつにうれしい。
本書は、ハードボイルド作家として出発したウェストレイクがはじめて手がけたユーモア・ミステリだそう。

3人称1視点。
主人公はギャングのエンジエル。
ヘロインの運び屋だった仲間が死に、盛大な葬式が。
しかし、仲間は大量のヘロインを身につけたまま埋葬されてしまった。
そこで、エンジェルはボスに命じられ、仲間の死体を掘り返すことに。

ところが、いざ掘り返してみると、仲間の死体がない。
警官や謎の美女、世話焼きの母親などの妨害をうけながら、エンジエルは死体をもとめて奔走する。

ストーリーというより、プロットがうまい。
カードの出しかたがうまい、といいたくなる。
でも、ウェストレイクのほかのユーモア・ミステリ作品とくらべると、もうひと声と思ってしまう。
なにかがものたりない。
でも、それがなんなのか、正直よくわからない。

ドートマンダー物のケルプのような、とぼけたキャラクターがいないせいだろうか。
シチュエーションの荒唐無稽さがたりないのか。
それとも、語り口の滑稽味がいささかとぼしいのか。
理由をさぐるために、「我輩はカモである」(ハヤカワ文庫 2005)を再読しないといけないか。

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