goo blog サービス終了のお知らせ 

K&A

kan-haruの日記

小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その1

2007年03月15日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

< 総合INDEX へ

今年のひな祭りの3月3日は土曜日にあたり、伊豆稲取温泉のつるし雛を前から見たいと思っていたので、2月10日から3月10日までの期間実施の往復JRの日帰りプランの「河津桜&雛のつるし飾りまつり」を申し込み出かけてきました。なお、稲取の雛のつるし飾りまつりは、3月31日まで開催しております。
日帰りコースには、稲取を先に廻るのと河津を先に回る2コースがありましたが、稲取を先に行くこととし東京8時発の特急踊り子号を予約しました。

稲取の雛のつるし飾りまつり
当日は、天気が良く10時05分には伊豆稲取駅に着きました。このコース(地図参照)には、伊豆バイオパークでの昼食がセットになっておりますが、昼には時間が早いのでつるし飾りを先に見ることにし、タクシーを1時間予約して雛の館から回りました。
・雛のつるし飾り
雛の和細工のさげ物の風習は、パンフレットによると、九州柳川地区、山形酒田地区、伊豆稲取地区の三地区が由来、文献等、つるし飾りの資料が現存しており、日本三大つるし飾りと言われています。古老のお話によると、江戸時代においてはお雛様を購入できるような裕福な家庭はまれで、せめて代わりに、愛する子供や孫の為に手作りの雛飾りで初節句を祝おうという、切ない親心から生まれたのが稲取の雛のつるし飾りまつりの発祥の由来と伝えられています。
つるし雛は、猿っこ、柿、唐がらし、座布団、這い子人形など数10種類ある各人形には「いわれ」があり、成長への願いを込めてお飾りが色鮮やかに、愛情あふれる手作りのつるし飾りで、雛壇のまわりにあふれています。
地元の文化の継承から始まった「雛のつるし飾り」も、今年で10周年を迎え毎年20万人以上の人が訪れるという、春の風物詩です。

・雛の館めぐり
稲取温泉の雛の館は、5箇所(地図参照)にあり、先ずは稲取漁港の海の近くのメイン会場の「むかい庵」のつるし雛の見物から始め、観光バスで来た団体客で込み合っておりましたが、会場に入ると沢山の赤一面の雛人形の周囲につるし雛があふれており、その華やかさに圧倒されました。

    (拡大写真)          (拡大写真)                (拡大写真)

つぎの館は、稲取の中央部の町並みの狭い路地にある「なぷらとと」のつるし雛を見ました。ここは、団体バスが入れないので最初の混雑した館とは異なり、観客は我々だけでしたので、ゆっくりと鑑賞することができました。その上、つるし雛人形の前で何枚もの写真撮影のサービスをして貰いました。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

たっぷりと鑑賞した後、3箇所目の館は広い公園内にある増築された「文化公園雛の館」に行き、雛人形の周囲に飾りつけてあるつるし雛以外にも、非常に沢山のつるし雛がつるされてありました

      (拡大写真)                 (拡大写真)             (拡大写真)

また、この会場では、第一回雛のつるし飾りコンテストが開かれており、運よく3月3日の1日だけ開催の人間が衣裳を付け雛壇に上がる、ジャンボ雛祭り(トップ写真)が行われておりました。

      (拡大写真)           入賞作品(拡大写真)     コンテスト入賞授与

3つの雛の館を回りますと、少しばかり食傷ぎみを感じましたが、雛人形とつるし雛の赤一色に触れると暖かみが感じられ、古き日本文化の良さが伝わります。
つるし飾りまつりを堪能しましたので、昼食会場の伊豆バイオパークに向かいました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(2月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次
<前回 小さな旅(10) すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな へ
次回 小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その2 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(10) すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな

2007年03月05日 | 小さな旅
kan-haru blog 2007

< 総合INDEX へ

桃の節句
3月3日の雛祭りは、平安時代には高貴な生まれの女の子の厄除けと健康祈願のお祝いとして「桃の節句」が行われ、庶民の間にも定着してきたお祝いです。
日本には大変古く平安時代から五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)があり、この行事は貴族の間で、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事でした。その中の「上巳(じょうし)の節句」が後に「桃の節句」となりました。

上巳の節句の日に人々は野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願いました。この行事が、後に宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」と融合し、自分の災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと発展してきました。 室町時代になるとこの節句は3月3日に定着し、やがて紙の雛ではなく豪華なお雛さまを飾って宮中で盛大にお祝いするようになりました。その行事が宮中から武家社会へと広がり、さらに裕福な商家や名主の家庭へと広がり、今の雛祭りの原型となっていきました。

2月25日の日曜日に、吾妻橋際の隅田公園のテラス沿いで12時から、子どもの災厄を紙や草木で作った人形に託し、川や海に流して祓い清め、子どもの無病息災を願う江戸流し雛が行われ、対岸にあるすみだ郷土文化資料館には、「芥川家旧蔵雛人形」が3月14日まで展示されてますので見に行って(地図参照)きました。

すみだ郷土文化資料館
すみだ郷土文化資料館(東京都墨田区向島2-3-5)へは、大森町からは京浜急行電鉄と都営浅草線乗り入れ直通で本所吾妻橋駅にて下車して、墨田公園脇を北上し徒歩約8分です。
資料館は、1998年(平成10年)に開館し5階建ての1~3階が展示資料室で、1階は古代から現代までの墨田区の歴史の流れを知ることのできる資料や刊行物や墨田区の歴史のライブラリーが展示してあり、このフロアーで「芥川家旧蔵雛人形」は展示されておりました。入館料は、個人が100円で、団体が80円です。
資料館は、撮影禁止のため雛人形や展示資料はホームページでリンクしてあります。


・芥川家旧蔵雛人形
芥川家旧蔵雛人形は、作家・芥川龍之介の妻、文(ふみ)が所有していたもので、文の初節句〔1901年(明治34年)〕の際に購入されました。明治時代に多いといわれる小ぶりの雛人形ですが、ひとつひとつが精巧なつくりで、人形の表情は穏やかで味わいがあります。
平成16年に芥川家より龍之介にゆかりのある墨田区へ寄贈され、平成17年2月1日に墨田区登録有形文化財となりました(すみだ郷土文化資料館資料より)。

2階の展示コーナーには、隅田川を中心に、すみだの文化・風俗・文学の資料が展示してあり、「墨堤のにぎわい」コーナーには、花見でにぎわう明治末年の墨堤をジオラマ模型で再現してあり、照明と音響による臨場感あふれる演出を行い、コンピューターマルチメディアソフト「墨堤そぞろ歩き」が組み込まれていて、コンピューター画面の中で、模型の登場人物の話を聞きながら、あたかも当時の墨堤を歩いているような体験ができるようになっております。

3階の企画展では、「東京空襲を描く人々‐空襲体験者の記憶と表現‐」を4月15日まで開催しております。
62年前の1945年(昭和20年)3月10日には、このあたり一帯の本所・深川では東京大空襲での戦災により、10万人の市民が亡くなりました。

資料館では、『以前企画展で東京空襲体験者がご自身の空襲体験を自ら描いた絵画を募集し、資料館に寄せられた体験画は、それぞれ体験者の重く苛酷な記憶が表現されており、絵を見る者の心を強く揺さぶるものがあります。体験者の方々の絵には、別に多くの方々が、「デッサン」や「下絵」など、自らの記憶を確かめ、ご自身だけの記録にする目的で絵を描いておられました。「デッサン」や「下絵」には、体験者だけがもつ空襲の「記憶」が第三者への伝達を目的とした「表現」にいたるまでに辿る、体験者の「心の軌跡」を体験者の「心の軌跡」を推察することもできるでしょう。
展示の企画展では、「完成作品」と共に「デッサン」「下絵」も展示されており、空襲体験者が記憶の中に抱える深い心の傷を知り、空襲体験をめぐる世代間の認識のギャップを少しでも埋めることができれば幸いです。』とあります。
少しでも多くの人が、3月10日の悲惨な戦災体験を知り、戦争を語り継ぎ平和の有難さを願いたいと思います。資料館では、平成15年に募集した体験画集「あの日を忘れない 描かれた東京大空襲」監修すみだ郷土文化資料館を1階ライブラリーで発売しております。

牛島神社
牛島神社(牛御前社)は、墨田公園に接して鎮座され、立ち寄って参拝してきました。
神社に伝わる縁起書によると、貞観二年(八六〇年)慈覚大師が御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請して創祀し後、天之穂日命を祀り、ついで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でなくなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし『王子権現』と称しました。

関東大震災後に現在の位置に移されました。東京大空襲での類焼も免れ東都随一といわれる総桧権現造りの社殿は昔のままの姿をみせており、狛犬と並んで左右一対の神牛(狛牛)が奉納されています。

    本殿(写真拡大)           狛犬(写真拡大)          狛牛(写真拡大)

・撫で牛(青銅製)
江戸時代から庶民に親しまれた「撫で牛」(なでうし)が祀られています。この牛の像は、牛御前または牛嶋という神社の名称に由来して作られたもので、1825年(文政8年)ごろ奉納されたといわれています。

2月25日は友引でお日柄も良く、お宮参りのご親族の方がお参りに見えられておりました。

    お宮詣り(写真拡大)        撫で牛(写真拡大)       撫で牛説明板(写真拡大)

江戸流し雛
日本古来の伝統行事の流し雛は、子どもの災厄を紙や草木で作った人形に託し、川や海に流して祓い清め、子どもの無病息災を願う日本古来の伝統行事で、台東区では江戸流し雛振興会が、1986年(昭和61年)から実施され第22回目の江戸流し雛です。
一般参加者約1500人をはじめ、花柳界の半玉さんのスタイルに倣った「振袖さん」4人や地元の幼稚園児・保育園児などが参加し、ひな人形を川に流す4基の流し台の前に並び、12時にハト形風船を放って流しびなが開始されました。
天気が良くうすら寒い陽気でしたが、赤色の欄干の吾妻橋上は、大勢の見物人で一杯でした。


流し雛見物の後は、雷門付近で昼食を取って帰路に、お日柄も良く先頭に提灯を掲げて式を挙げられた夫婦と親族の人力車のおめでたい行列が見られました。


< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(2月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次
<前回 小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その2 へ
次回 小さな旅(11) 雛のつるし飾りまつりと河津桜まつり その1 へ>
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その2

2007年02月17日 | 小さな旅
その1記載の古民家のハケの上の農家の旧河内家住宅の南側には、立川段丘を模して小川を配しております。小川の対岸には、ハケ下の一般的な農家を復元した江戸時代後期に創建の旧越智家がありますが、プラネタリウム観覧の時間の都合もありそこには立ち寄らずに、島田薬舗の道沿いに戻り、並んで建てられてる町役場と昔の郵便局を見ました。

・旧府中町役場庁舎
府中町役場庁舎の建物は、1919年(大正8年)から3ヶ年かけて竣工した洋風の庁舎で、屋根の飾り天窓、正面玄関の屋根の車寄せ意匠、背後に接続する和風の付属舎が特徴であり、1987年(昭和62年)2月に東京都指定有形文化財となり、大正時代の建物としての第1号です。

正面玄関(写真拡大)  役場庁舎内部(写真拡大)        (写真拡大)

・旧矢島家住宅(旧府中郵便取扱所)
矢島家住宅の建築年代は、幕末から明治の初めまでの間と推定されております。日本の郵便規則は、1871年(明治4年)に制定され、府中では当時府中番場宿の名主兼問屋の矢島九兵衛が郵便取扱役に任命され、居宅に窓口を設けるなどの改築し、急遽郵便取扱所として開設しました。

     矢島家住宅(写真拡大)     郵便取扱所(写真拡大)  矢島家裏側(写真拡大)

  昔の郵便局(写真拡大)     郵便箱(写真拡大)        (写真拡大)

梅園での野点と大道芸
昔の郵便局を見てから、園内を西に進むと旧町役場脇の梅園で、府中市茶道連盟の方による野点茶会が催されており、その脇を抜け長屋門前の広場では、大道芸人が見物人を集めて芸を演じておりました。
江戸時代後期に旧是政村の村役人を勤めた家柄の三岡家の長屋門は、中央部を門とし、その両側に部屋を総塗込め蔵造りとし、置き屋根形式を採用している点で類例の少ない長屋門で、平成7年3月に東京都指定有形文化財となりました。
長屋門を潜ると、右側にふるさと体験館があり、昔遊びコーナーで昔懐かしい遊びを無料体験できます。

梅園での観梅と花見
長屋門の南側の川を模したやすらぎの池があり、そこから多摩川までの広範な一帯が梅園であり、60種の1100本の梅も開花前の木もありますが、今年の暖冬で各種の梅も花を付け始めて、中には見頃の梅もあり開花したばかりの梅の香があたり一面に満たされておりました。

 5分咲きの梅(写真拡大)  7分咲きの紅梅(写真拡大) 蕾が膨らむ枝垂れ梅(写真拡大)

梅園の南端の多摩川縁の「ロウバイの小路」には、中央部が紫色のロウバイ、花全体が黄色いソシンロウバイ、花が大きく鮮やかな黄色のマンゲツロウバイの68本が、花を付けて4分咲きで開いておりました。
また、梅園には冬枯れの空に黄色の花も見られ、マンサクや福寿草、クロッカスなどの草花も春を待ちわびて可憐な花びらを見せております。

 4分咲きの蝋梅(写真拡大)  可憐な福寿草(写真拡大)  可愛いクロッカス(写真拡大)

園内の風景
寒梅で人が出ている梅園を西から東へと歩きますと、桜の林があり野外ステージの或る芝生公園があり、暖冬で水がぬるむ「水あそびの池」で子どもたちが遊んでおりました。
昼時には、園内でお蕎麦でもと考えておりましたが、旧田中家のうどん店やふるさと体験館際のラーメン屋もやすらぎ亭での軽食店の何れも満員のため、昼食にはありつけませんでした。
そろそろ、プラネタリウム観覧の時間が近ずいてきましたので、博物館本館に向かう途中には、芝生公園に撮影会のためモデルが集合しており、博物館前の道添えに梅の盆栽が展示してありました。


博物館
博物館脇では、太陽観望会が開かれており、天体望遠鏡で太陽黒点などの観察を行っており、行列を作って観測しておりました。
プラネタリウムは、直径が23mの平面床ドーム300席の日本での最大級のもので、12,000個の星や惑星、多彩な映像群が生の解説のもとで写しだされ、投影機は地元の株式会社五藤光学研究所(府中市矢崎町4-16 地図参照)製の「GL-AT, ASTROVISION70 70-10P」機です。
アストロビジョンは五藤光学研究所が世界で初めて開発したワンレンズ投影式全天周映画で、映像は客席の全体を天まで覆い、まるで映像空間に包まれたようにリアルな感覚が楽しめます。
14時上演のプラネタリウムの番組は、3月11日までは、「温泉発!~太陽系火山めぐり~のタイトルで、満天の星空のもと温泉を楽しんでいたはっつあん。そこへ怪しげな地質学者が現れ、温泉&火山談義に花を咲かせます。話題はとうとう太陽系のさまざまな星にある火山へと広がっていくというもので、約1時間の上演でした。

プラネタリウム鑑賞後、博物館の常設展示の見物を取りやめて、15時13分発の分倍河原駅行きの京王路線バスにのり、分倍河原駅を臨時停車する準特急で新宿に出て、やっと遅い昼食にありつけました。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(1月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次
<前回 小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その1 へ
次回 小さな旅(10) すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その1

2007年02月15日 | 小さな旅
今冬は、12月と1月の世界の月平均気温が、1891年に統計を始めてから最高記録を更新したと発表され、記録的な暖冬に見舞われています。この暖冬に誘われて、春の花の開花も例年より早いようで、各地からの梅祭りの便りも聞かれます。
早いようでしたが、暖かい陽気と梅祭りの誘いにのって、1月11日の3連休の中日の日曜日に府中の郷土の森博物館の梅園に出かけてきました。

府中市郷土の森博物館
府中市郷土の森博物館(東京都府中市南町6-32)は、今年が丁度20年の誕生を迎えました。博物館は、敷地がおよそ13.7haもある広さを誇り(空中写真参照)、敷地の南面には紅梅の「八重寒紅」や白梅の「八重野梅」「唐梅」「白加賀枝垂」などの梅が60種の1100本も植えられた見ごたえのある梅園(園内マップ参照)があり、第20回郷土の森梅祭りが2月1日から3月11日まで開かれております。
郷土の森博物館へのアクセス(地図参照)は、新宿から京王電鉄の特急、準特急で19分の府中駅または、JR南武線と乗り入れている分倍河原駅および、JR府中本町のそれぞれの駅から路線バスが出ております。

博物館とプラネタリウム観覧料金
郷土の森博物館の観覧料金は、大人200円、子供(4才以上)100円で公園(梅園)と博物館常設展示室の見学と園内に復元した古民家も見られます。また、博物館にはプラネタリウムの施設があり、大人600円、子供300円の観覧料(博物館の観覧込み)で見られます。プラネタリウムを観覧するには、上演時間を指定して入場します。
プラネタリウムの投影開始時刻は、月曜日から金曜日には14時と15時30分上演ですが、日・祭日・休日には11時にも上演され、3月11日までの土・日・祭日・休日には親子星空散歩の「ムーミン谷のオーロラ」の特別番組が12時30分に上演されます。

復元古民家の見学
郷土の森博物館には、14時上演のプラネタリウム観覧料を払って入場しました。
園に入ると、正門前広場の右側に博物館があり、広場を左折した「けやき通り」の左手には、府中市から移築復元された8棟の古い建物が点在しております。先ずは、園内の古民家の見学から始めることとし、一番手前の小学校から見て歩きました。

・旧府中町立府中尋常高等小学校校舎
現府中市立第一小学校(府中市寿町2-6)に、1935年(昭和10年)に建設され、1979年(昭和54年)の新校舎の建設を機に解体され、郷土の森博物館の開設に先立つ1983年(昭和58年)に、延床面積が5,870㎡もあった校舎の中心部分を復元したものです。
復元校舎には、近代教育のあゆみの展示や昔の教室の再現と、府中ゆかりの詩人、村野四郎の記念館が併設してありましたが、時間の都合で内部の見学を見送りました。

  府中尋常高等小学校(写真拡大)        (写真拡大)

・旧田中家住宅(府中宿の大店)
田中家は幕末から明治にかけて、甲州街道府中宿を代表する商家で、明治天皇行在所にもあてられ、その御座所として使われた奥座敷の部分が昔のまま残されておりました。奥座敷、表店、土蔵、表門など白壁が美しく、建築的評価が高い建物です。
なお、当時の田中家の屋敷図や写真資料が残っておりましたので、残存していない建物部分を含めて、屋敷全体を復元されました。現在、表店(おもてみせ)部分などの新築復元部を休憩所やそば処として利用しております。

  表門・土蔵(写真拡大)      奥座敷(写真拡大)       土間(写真拡大)

・旧島田家住宅
島田家は旧甲州街道・府中新宿の商家です。移築・復元したのはその店蔵(みせぐら)部分で、1886年(明治19年)から足掛け3年の歳月をかけて建築されました。同家には、この店蔵の普請帳が残され、建築実態の詳細が分かり、1階が店舗で、2階と屋根裏が倉庫になっています。
復元には、普請帳を参考にしながら屋根の下も含めたすべてが厚い土壁で覆われた置屋根構造の建物で、伝統的な左官工法で再現し、足掛け3年をかけて完成されたものです。
島田家では、寛政年間から金物を、天保年間からは薬種を扱って(薬輔店先薬を入れる引出しの階段参照)いました。

   島田薬舗(拡大写真)   島田薬舗の裏側(拡大写真)     (写真拡大)

[ひな人形展示]
梅祭りの期間中、旧島田家店先に歳時記展として、ひな人形が展示してありました。展示のひな人形の中一つは、「1933年(昭和8年)に買って貰い、母が毎年2月20日頃お雛様を出して、3月7、8日に丁寧にしまうのが通例でありました。ところが、1945年(昭和20年)の小学6年学童疎開中の冬に病気となり上野の家(寺)に帰され、3月9日の東京の大空襲では、翌日寺に沢山の死体が集められ父が供養した」とあり、当時の戦禍を見てきたおひなさまも展示されておりました。

    ひな人形1拡大      ひな人形2拡大        ひな人形3拡大

・旧河内家住宅
旧河内家は、元は1844年(天保15年)に大沢村(現三鷹市)から人見村に移築された、茅葺屋根の農家で麦などの畑作りや養蚕を営んでいました。人見村は、府中市の北東部の立川段丘を東西に走る人見街道沿いに開けた村で、明治末期に広間を部屋に区切り、棟の空気抜き室、格子欄間、簀子天井を設けた改造は、保温・通風・採光をよくして養蚕に適するためのものです。その後、1929年、1958年に大きな改造がありましたが、府中で養蚕が最も盛んであった明治末期の姿に復元されました。

  旧河内家住宅(拡大写真)  部屋の区切り(拡大写真)      土間(拡大写真)

立川市や府中市、調布市の中心市街地が載っている立川面は立川崖線(たちかわがいせん)によって多摩川の沖積低地と分けられています。この崖線のことを、この地区では「ハケ」と呼んでおります。旧河内家は、立川段丘にあるのでハケ上の農家(説明板)と云われます。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(1月分掲載Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次
<前回 小さな旅(8) 大江戸温泉物語 ドクターフィッシュ へ
次回 小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その2 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(8) 大江戸温泉物語 ドクターフィッシュ

2006年12月05日 | 小さな旅
11月19日はたまたま孫が遊びに来ており、天気が小雨模様でしたので、午後から最近話題になっている「ドクターフィッシュ」がいる大江戸温泉物語に行って見ました。
大森から大江戸温泉物語へ行くには、京浜急行電鉄の青物横丁駅から路線バスによりまっすぐ行けますが、雨降りのためタクシーにて直行しました。青物横丁駅から首都高速湾岸線の海底トンネルを抜け台場から南にすすむと目的の大江戸温泉物語(大江戸温泉物語地図航空写真参照)です。

大江戸温泉物語
入り口に入ると下足番(下駄箱)に履物を入れ、帳場(カウンター)で手続きをしてコード番号の着いた鍵を貰い、館内には浴衣に着替えないと入れないので、越後屋と称する呉服屋造りの店で浴衣を選んで借ります。コード番号のキーは、大江戸温泉物語内で買い物やゲーム、食事などの費用を支払う都度記録されますので、現金での支払いは行なわない方式になっております。
まず、浴衣を借りると館内は暖房で暖かくしてありますので、更衣室で薄い下着の上に浴衣一枚に着替えて、大江戸を模擬した広小路へと進みます。
広小路(館内見取り図参照)の周囲には、食べ物やさんやゲームが沢山並んでおり、奥の中村座は大広間のお座敷になっておりますので、ゆっくりと寛ぐことができます。

広小路の奥は、八百八町へと続いており、沢山の食べ物やさんと、料亭風に作られた日本食の川長があります。二階には、チェアーの置いてある休み処(仮眠室)や、大江戸宿の伊勢やと深川とよぶお座敷などがあります。
ざっと一巡しましたので、待ちかねていた孫がゲーム(手裏剣吹き矢)に興じ大喜びでした。

ドクターフィッシュ体験
ここで、温泉の売りの「ドクターフィッシュ」足湯を体験してみることにしました。足湯は屋外にありますが、雨も殆ど落ちていないので、浴衣の上に上っ張りを掛けて足湯に入りました。日本庭園の全長50mの湯の道内に足裏を刺激する丸石が敷いてあり、人口炭酸泉で男女一緒に入れます。

ドクターフィッシュは、37℃の温水で元気に泳ぎ、皮膚の古い角質をついばいで肌をきれいにしてくれる特殊な魚です。


「ドクターフィッシュ」足湯は、一番奥にあり小屋掛けですので雨には当たらずに入れますので体験してみました。


当日は、雨模様でやや寒かったので、それほど待たずに入れましたが、15分浸かるだけで1,575円也です。足をついばまれると、くすぐったい感じです。

丸内の魚がドクターフィッシュ

温泉
温泉は、地下1,400mから汲み上げた湧出量が240リットル/分の天然温泉で、まろやかな感じのお湯です。お風呂は、「大江戸温泉」と源泉に近い「黄金の湯」に、「百人風呂」とその一角にある「絹の湯」にはマイクロナノバブルで細かな泡を発生させてあります。大浴場の外には、天然の岩肌の感触の露天風呂があり、婦人用には桶風呂があります。
泉質は、ナトリウムと塩素イオンが主要成分で、カルシウム、マグネシウムイオン等も含まれており、神経痛、筋肉痛や病後回復期、疲労回復など様々な症状に効果があると書いてありました。

風呂上りにおそばを食べて腹ごしらいをして、さらにひと時ばかり遊んで温泉を後にしました。楽しい、日帰り温泉でした。

< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(11月分掲載Index前へIndex後へ)
<前回 小さな旅(7) 日本一大きい牛久の大仏 へ
次回 小さな旅(9) 梅祭り 府中市郷土の森梅園 復元古民家めぐり その1 へ>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(7) 日本一大きい牛久の大仏

2006年10月13日 | 小さな旅
10月9日の3連休3日目は、朝から風も無く雲一つない快晴で家に閉じこもっては勿体ない秋日和なので、茨城県牛久市にあるギネスブックにのった大仏の見学に行きました。
大森町を9時半ころ出て、JR上野駅から快速を利用して11時半頃に牛久駅に着き、牛久大仏行きのバス時刻を調べると30分以上待たなければならないので、タクシーを利用しました。タクシーに乗り行き先を告げると、「道順が分かるか」と聞かれ、駅前待ちの地元のタクシーなのにと怪訝に思いながら「東京から来たので、分からない」と答えると、運転士が「実は、2日前まで土浦で運転しており、以前に大仏を見に来たことはあるのだが、牛久は慣れていないので道が分からない。途中で会社の無線で聞きます。」ということで心細い車に乗り合わせました。

牛久大仏の遠景
牛久の大仏は、牛久駅から丁度真東(地図赤線参照)にあり、慣れてない運転手のため牛久浄苑の管理棟前で、到着しましたとタクシーから降ろされました。そこで見る右横顔の大仏はかなり大きいのですが、周辺の浄苑の墓地も非常に広大ななかにあるポツンと立っている一体の大仏立像は、見る近くに比較対象できる構造物が無いので大きさの印象はピンときません。
ここから、浄苑内を通って大仏の前に行けそうもないので管理棟の人に尋ねると、降りた道を進むと右側に管理事務所があるので、反対に左折して暫く行くと大仏の入り口があると聞き歩き始めました。折角タクシーに乗ったのに、途中で降ろされるとは何のためだと思いましたが、凄い好天と付近の閑静な環境に歩くことに心地よさがありました。
歩くにつれ大仏の姿は変わり、牛久浄苑管理事務所から庭木を通して見る大仏や、途中の浄苑内から見る姿も変化があり飽きませんでした。



牛久大仏見物
さらに進むと入り口があり、中に入って牛久大仏の見学(浄土真宗東本願寺派本山東本願寺 空中写真参照)です。入り口を入ると仲見世でお土産物や食べ物店があり、そこを通過すると広場でフリーマーケットを開いておりました。
その先のチケット売り場で、胎内めぐり付の入場券で正門を入りました。先に進むと、本物の大仏の顔の千分の一という顔の模型があり、模型も結構と大きいものでした。
さらに進むと、頭のちぢれ毛? の模型と大仏のサイズにいついての説明板(開いて大きさを見てください)とギネスブックに登録した説明の石碑など、日本一大きい大仏を示すコーナーがあります。

その先の雲の道を経て、発遣門を潜ると直線の道の先が牛久阿弥陀大仏です。大仏に向かって進むと、道の右側には花摘みの定聚苑があり、コスモスが5分咲きでした。道をふり返ると、発遣門の二階に釈迦三尊像が祀られております。
さらに、大仏に向かうと日本一の大香炉があり、お線香を上げて横超の橋を六歩で渡りますと、右側の本願荘厳の庭には餌さを求める鯉が群がって突進してきます。
すぐ先は、大仏様の足元で、看板にここから見上げてと書いてありましたので、見上げてみました。逆に、上から見た大仏の空中写真を示します。

牛久大仏の胎内見物
牛久大仏の胎内の入り口は、台座をぐるりと回り背面から入ります。内部は、撮影禁止のため、ここからの説明は記述のみとなります。
土足禁止なので、靴を脱ぎ待っていると扉が開き入ると、明かりが消え静寂な観想の間で一心に思いを凝らした後、明かりが点り前方の扉が開き大仏の胎内に入ります。
階段を二階(地上10m)に上ると、大仏の建設の模様のパネルや模型が展示してあります。工事施工業者は、川田工業㈱(東京都北区赤羽西1-7-1)で平成5年に完成しました。
また、二階には、知恩報徳の世界で、阿弥陀如来への知恩の気持ちを込めて写経を行う77席の空間と、法話を行う念仏の間がありますが、この間へは上から降りてきたときに通過します。
ここからエレベータで四・五階(地上80~85m)に上がると霊鷲山(りょうじゅせん)の間で、仏舎利(釈尊のご遺骨)が安置されておりました。また、四方に窓があり、東西南北が見渡せます。なお、大仏の正面の胸の辺りにある三本のスリット状のどの窓から下を見下ろしても、入り口から入ってきた発遣門が見られるように出来ております。内部の左窓から、下を見てみました。五階から階段を降りると、香や数珠などの仏具と簡単なお土産品の売店です。

さらにここから、三階(地上20~30m)までエレベータで降りると、極楽浄土の蓮華蔵(れんげぞう)世界で、周囲の回廊には約三千体の金ぴかの永代経(胎内仏)で囲まれております。
永代経は、法名(戒名)を収め奉安して永代に亘り供養することで、二種類のサイズの永代経があり受付け(大型百万円、小型三十万円)をしておりました。
三階からは、二階に階段をおりますが、前述の写経の間を通り階段を降りると出口です。

大仏の裏手には、お猿のショーステージやウサギとリスの小動物園がありましたが、見ずに帰ることにしました。帰りは、バス(バス停から見た大仏)の時間を調べて置き、14時49分発の牛久駅東口行きにのり、駅前ビルで遅い昼食を取り帰宅しました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(9月分掲載Indexへ)
<前回 小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1 へ
次回 小さな旅(8) 大江戸温泉物語 ドクターフィッシュ へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その2

2006年06月29日 | 小さな旅
国府台は、今の真間山から松戸駅東側の台地までをいい、文学碑のある大坂を中心とした四キロ四方は、国府台合戦の激戦地であったとのことです。裏境内には、矢切の古戦場の史跡「国府台の戦争」の説明板があります。

・史跡 国府台の合戦
国府台の合戦の説明板の大意は、「今から約460年前、天文7年(1538年)に松戸駅東側台地、相模台を中心として行わた合戦を前の国府台合戦といい、永禄7年(1564年)に市川城(国府台城ともいう)を中心に繰り広げられた合戦を後の国府台合戦といい、ここ矢切の台地で戦われた。
小田原の北条方と矢切側の里見義弘との戦いで、北条方の勇将富永三郎右衛門尉が文学碑わきの坂道で落馬し首を打たれ、また、遠山丹波守はこの坂下、坂川の手前の「カイカバ曲り目の内野」という所で、里見方の里見山之介という16才の少年にその首を打たれて、この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いた。
緒戦に大勝して気を良くした里見方は、夕刻から小雨と疲れから次の合戦は翌日だと考え、鎧を脱ぎ馬に飼葉を与え油断するその隙に、北条氏の大軍にはさみ打たれ、徹底的に打ちのめされ、大将里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後再起することはなかった。」とあります。

西蓮寺から江戸川堤へ
西蓮寺の高台から、地名の語源のいわゆる「谷切れ」の坂を下りきると(散策地図の赤印線参照)、上矢切から栗山まで続く壮大な田圃と畑地の平坦地に出ます。
・矢切ネギ
畑地には、葱、キャベツやジャガイモが生育されておりました。このあたりの矢切ネギは、Webで調べると根部の白い部分を食べる千住群の根深一本葱で、その起源については、明治二十年ごろ東京府下砂村から種子を輸入し、栽培したといわれていたが定かでない。
地元の矢切で現在使用されているねぎの種子は、その後に幾たびか品種改良がなされたもののようです。

・江戸川堤小公園「矢切苑」
前方に江戸川堤が見える、畑地の中の長い一本道を進むと坂川に出ます。坂川は、源流を流山に発して、松戸市中を通り上矢切から下矢切、栗山を経て江戸川に放流されております。坂川に架かる整備された大変と立派な橋を渡り、さらに畑地の道を進み江戸川の大堰堤に着きました。

堰堤に上がると、堤防上には休憩小屋のある小公園「矢切苑」があり、そこには何人かの人が休息しておりました。堤防からの眺望は、何も遮るものが無く180度の悠大な風景展望は当に圧巻です。江戸川の対岸を眺めると、川辺の木の茂った所が矢切の渡しの船着場で、川を渡ると帝釈天のある東京下町の柴又が見えます。堤防から振り返り今来た道を展望すると、先方に西蓮寺の台地の大坂が見渡せ、手前には坂川を挟んで展開する180ヘクタールに及ぶ田園・畑地の景色は一幅の絵を見る様でした。

江戸川土手の道は、松戸方面から南へと、市川方面から北へとのウォーカーやサイクリングの人達が、結構行き交わっておりました。桜の木の下のクローバーの絨毯に腰を下ろして、軽い昼食休憩をとりました。
休憩した小公園周辺には、「川の一里塚」(一里塚説明板)、昭和30年代に戻ったような懐かしい姿の「魚釣りの少年像」や太田道灌の「水五則」などが見られました。

江戸川堤小公園から里見公園へ
昼食をとり活力がでてき出発し、途中「野菊のこみち」の案内像を見ながら、江戸川大堰堤沿いを南下して里見公園へと向かいました。
北総電鉄のガード下を通り、暫らく行くと「柳原水門関」に到着です。坂川の治水事業は古くから手掛けられてましたが、明治37年(1904年)に煉瓦造樋門として造り替えらた、四蓮アーチ式の貴重なもので、平成7年4月に松戸市の有形文化財に指定されたものです。
柳原水門関から江戸川沿いを離れ、市川市国府台に入り里見公園下の道を公園口へと進み、左折すると「羅漢の井」説明板がありました。

・里見公園

里見公園は洋式庭園と奥の自然式公園に造られており、洋式公園には噴水池があり久保田俶通作のブロンズ像があります。そのかたわらにもと対岸の小岩にあった詩人・北原白秋の旧居「紫烟草舎」が移築されており、夜泣き石も本来の位置に移設してあります。
公園の洋式庭園には、丁度よくばらが咲き誇っており感嘆し、見事な満開のばらを観賞してから県道松戸市川線に出て、バスで矢切駅に戻り帰路につきました。
里見公園の洋式庭園の咲き誇る ばら1ばら2ばら3

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1 
次回 小さな旅(7) 日本一大きい牛久の大仏 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1

2006年06月27日 | 小さな旅
6月10日は、うす曇で雨の心配はなさそうなので一週前の旧古川庭園に引き続き、小説伊藤左千夫ゆかりの「野菊の墓」で名が売れてる矢切周辺を散策してみました。
矢切の散歩道は、東京から出かける場合には京成柴又駅から帝釈天を通り、江戸川を矢切の渡しで渡り、野菊のこみちを経て野菊の墓文学碑に至るのが一般ですが、今回のコースは、自宅から京浜急行、都営地下鉄、京成電鉄押上線、北総電鉄の4社線を乗り繋いて北総電鉄の矢切駅をスタートし、西蓮寺の野菊の墓文学碑を見て、江戸川左岸堤防上の小公園から土手道を散策し、里見公園の見頃のばらを観賞後、県道に出てバスで矢切駅に戻り帰路につきました。

矢切駅をスタート、矢切神社へ
北総電鉄は、京成電鉄の高砂駅から次の新柴又駅を過ぎると江戸川を渡り千葉県に入り、しばし田園地帯を進み、高架線のままトンネルに入るとすぐの所が矢切駅です。トンネル内の駅改札を出ると、駅構内に「矢切の渡し」に使用された渡し船が展示してありましたが今回は、渡し船を利用しないで、江戸川左岸沿いの矢切周辺の一周コース(散策地図の赤印線)を散策しました。
矢切駅前からは、県道松戸市川線を北に向かい下矢切の交差点を左折して暫らく進むと、突き当たりが矢切神社です。矢切神社は、昔の矢切村の鎮守で学業、健康の神様で、お賽銭を上げて参拝しましたが、神社境内はひっそりとしていました。

矢切の地名をWebで調べてみると、矢切は谷の多い所で地形から谷の切れた所を「谷切れ」と呼び習わし、それが「矢切」となったともあり、土地の俗説として、北条、里見の戦いで、里見が矢を使い尽くして敗れたので、矢が切れたことからなどの説が地名に結びついていると書かれております。また、下矢切、矢切神社の石塔には、元文五年(1740年)下矢喰村...とあり、矢喰も地名として使われていたとのことです。

矢喰村庚申塚
矢切神社を後にして進むと、三叉路の角が矢喰村庚申塚です。
いくつかの石像が建っていてその中央に青面金剛を主尊とする、庚申塔があります。碑には寛文8年(1668年)の銘があり、1988年12月に松戸市の有形文化財に指定されています。

「国府台の合戦」に因んだ庚申塚名「矢喰」の由来を説明した石碑も建っています。
矢喰村庚申塚の由来の石碑の大意は、「矢切が北条、里見の国府台合戦の主戦場となり戦没者が一万余、家は焼かれ逃げまどい一家離散の敗残の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子へ、子から孫に言い伝えられ、江戸時代中期に二度と戦乱のないよう、やすらぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み、朝夕お祈りをしてきました。先人達の苦難と生きる強さを知り、四百年前の遺跡と心を次の世代に伝えるため、この塚をつくります。」とあります。

西蓮寺の野菊の墓文学碑
矢喰村庚申塚から緩やかに道を下って行くと道路上に歩道橋が見え、道路右の石段を登って上がった所が高台の「野菊苑」で、江戸川を見晴らす展望台となっています。
展望台から、道路上に架かっている歩道を渡ると西蓮寺で、裏境内に野菊の墓文学碑があります。
・西蓮寺の野菊の墓文学碑 (拡大写真)
野菊の墓文学は、小説の3ヶ所から一つの文に構成して碑文としています。
小説のなかに、「村外れの坂の降くちの大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。」とあるのが、即ちこの文学碑のある場所です。樹齢約六百年の大きな銀杏の樹は、西蓮寺の入り口にありましたが、何年か前に切られて現在はありません。
・伊藤左千夫の短歌
   牛飼が歌よむ時に世のなかの
   新しき歌大いに起る
伊藤左千夫が、明治33年1月はじめて正岡子規を訪問して入門し、その短歌革新の思想と運動に共鳴して詠んだ代表作で、この歌には、牛飼の歌人と自ら称した左千夫の歌に対する気概がこめられています。
子規の没後、長塚節、蕨真等と発行した根岸派の機関紙「馬酔木」「アララギ」の主導的地位に立ち、島木赤彦、斎藤茂吉、吉泉千樫、中村憲吉、土屋文明その他の歌人たちを育成しました。

・野菊
小説「野菊の墓」には、政夫が「民子さんはどう見ても野菊の花だ」、民子は「政夫さんはりんどうのようだ」という記述があります。
野菊という花は山野に咲く数種の菊を総称しているだけで"野菊"という名の花はないようです。小説の野菊が具体的にどの花を指すのか興味がそそられます。
・歌碑
野菊の墓文学碑の両脇の花壇には、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクやリンドウの苗が植えられています。その脇にある歌碑は、市内で印刷会社を経営する高山光江さんが、市川市在住の姉美恵さんを数年前に亡くしました。高山さんは平成13年春に所属している東京中小企業家同友会が自主製作した映画を市民会館でチャリティ上映会を成功させ、その時の収益金の残額を野菊とリンドウの植裁に充てました。子宝に恵まれなかった美恵さんとは「老後は仲良く一緒に・・・」との約束があった光江さんは、歌を刻んだ石碑を野菊の花壇の脇に添えられたものです。

小説「野菊の墓」の作者の伊藤左千夫は、1864年8月18日、現在の山武市殿台に伊藤重左衛門の末っ子として生まれる。30歳の時、同業者の伊藤並根のきっかけで 歌の手ほどきを受けることになり、これが左千夫と和歌の本格的な出会いとなる。左千夫は世に数々の作品を発表しているが、中でも「野菊の墓」は夏目漱石に激賞を受けたことで有名。他にも「隣の嫁」「春の湖」「紅黄緑」などの名作を残している。大正2年7月左千夫は脳出血で50年の生涯を閉じるものの、歌論において近代短歌革新の偉大な原動力となった人であると現代において高く評価されている。
小説「野菊の墓」は、インターネットの図書館、青空文庫からダウンロードして読むことができます。
<続く>

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 小さな旅(5) 旧古河庭園 
次回 小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その2 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(5) 旧古河庭園

2006年06月15日 | 小さな旅
今年の春先の天気は、晴れの日が少なく植物の生育が遅れ気味となり、開花も例年に比し遅いように見受けられます。
旧古河庭園のバラ園のばらも通常5月頃が見ごろですが、今年は6月に入ってもまだ観賞ができそうなので、3日の土曜日に出かけてみました。
JRの山手線駒込駅から本郷通りを10分ほど北に進むと、旧古河庭園の塀が左手に見えてくるので、先の四つ角を左折すると正門です。
正門(庭園案内図)を入ると、右手の小高い丘に洋館が建てられております。この日は、日柄が良かったのか、洋館で結婚式が行われておりました。

和洋一体の庭園
旧古河庭園(庭園マップ)は、洋館の前の斜面に洋風庭園を、その先の低地には日本庭園を配した和洋一体の庭園の説明案内板によると、「本園は、大正六年(1917年)古河家により作られたものです。本館と前庭欧風花壇は英国人ジョサイア コンドル博士(1852~1920)の設計であり、和風回遊式庭園部分は京都の庭師植治(小川治兵衛1860~1933)による、和洋が一体となった庭園です。本園は大正初期を代表する庭園として貴重なものです。」とあります。
なお、旧古河庭園は、昭和57年(1982年)8月4日に東京都の名勝に、また今年の平成18年(2006年)1月26日に国の「名勝」に指定されております。

バラ園
バラ園には、5月に咲いてたバラと入れ替えに、満開の時期は過ぎましたが、まだまだ蕾もあり、沢山のバラの観賞ができました。また、バラ園の下のツツジ園には、一株のサツキの玉物が満開でピンク色の花をびっしりと咲かせておりました。
バラ園に咲き誇るばらの花(クリック)、ばら1ばら2ばら3ばら4ばら5


日本庭園
明るい洋風庭園のバラを堪能してから、日本庭園へ向かうと入り口にはシイなどの濃い植え込みで雰囲気が一変し、カエデやムクノキなどで深い植え込みにより深山幽谷の趣きを呈しております。
大滝
松に囲まれた雪見灯篭を右に見て、「心」の字に似せて造った心字池を大島伝いに右回りして進むと大滝があります。大滝は庭園の勾配が急な場所を断崖として、高さ10数mから落ちる滝を配し、濃い樹林で囲み渓谷の雰囲気を醸し出しております。
奥の院型灯篭
心字池をさらに右回りに進み、大きな奥の院型灯篭を過ぎると、当日は茶室で有料の茶のもてなしをしておりました。
さらに、崩石積や書庫などを見て、庭園を半周して和洋の見事に調和された大正初期の庭園を堪能しました。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(5月分掲載Indexへ)
前回 小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その4 
次回 小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その4

2006年05月07日 | 小さな旅
大原野山麓 西国三十三所善峯寺の枝垂れ桜 4月9日紀行第4回
山麓の勝持寺の上ってきた道を戻り、南春日町から灰方を経て大原野小塩町の西国三十三所善峯寺(地図参照緑印)に向かいました。

善峯寺は、勝持寺より高所にあり山道のドライブで灰方からおよそ4キロほどにある、バスなどの大型車が駐車できる第二駐車場までは快適に飛ばしてきましたが、そこでアクシデントに出会いました。
アクシデントは、4月6日午後6時頃、第二駐車場を過ぎ参道口付近の少し先で がけ崩れ が発生し、第一駐車場に向かう道路が通行止めになっていたのです。
そのため、ここまでの花見観賞のように車の門前に直付けの花見は適わなくなり、初めて九十九折の急勾配の歩道「よしみね参道」を息急き切らして登り、やっと善峯寺の山門に辿り着きました。これにより、快適なハイヤーと整備された道路の有難味が切実に分りました。
しかし、山中に創建された寺社は、山麓から歩いて参詣をすることが本来の姿でありますので、参道くらいは息急きを切らして登りませんとご利益を授けて頂けませんことで、気持ちの良い一汗をかきました。

由来によると西国三十三所善峯寺は、1029年に源算上人がこの地に小堂を建て、自作の十一面千手観音をまつられたのに始まります。観音信仰の高まりとともに早くからその霊場として栄え、創建まもない長元七年(1034)に後一条天皇 から「良峯寺」の寺号と聖詠をたまわって以来、歴代天皇の崇敬あつく、中世 には「西山宮」と称する門跡寺院となり、五十あまりもの堂塔を有する大寺院となりました。
しかし、応仁の乱(1467~77)の際に兵火を受けて焼け、現在の諸堂の多くは、江戸時代に徳川五代将 軍綱吉の母である桂昌院の援助によって再建されたものです。
元和七年(1621)再建の多宝塔は、現存最古のもので、重要文化財に指定されています。

深い木立の中にある善峯寺の10万㎡の広い境内(googleサテライト地図参照)は、京都が眼科に見える回遊式庭園で、1692桂昌院によって再建された山門を潜り、正面の観音堂の十一面千手観世音菩薩をお参りして、右手を進むと天然記念物の樹齢600年の五葉松は、さすが「日本一の松」と称するだけあって、必見の松です。「遊龍の松」と呼ばれる松は、枝が横に長く延びていて全長54mありましたが、平成6年に松くい虫のため15mほど切りとられました。松の幹元は太く、枝はまるで龍が遊んでいるように延び脇にある標石は1886年鳥尾中将の書であり、それから先の枝はあまりにも長く、松の先端はカメラの視界外でした。

「遊龍の松」と1705年建立の経堂の先にある枝垂れ桜は、桂昌院お手植えのもみじとの寄せ植えで、花はかなりほころびはじめ、後一週間ほどで満開となる状態でした。
枝垂れ桜を観賞し、つりがね堂、多宝塔、阿弥陀堂や幸福地蔵など歴史ある古寺の諸堂を参観して、心から安らぎを感じました。

枝垂れ桜

また、境内からの京都市街の展望は、うす曇で靄がかかっておりましたが一望でき素晴らしい眺めでした。
善峯寺の古い歴史を感じ、急坂の参道もそれほどの苦労もなく下山し、駐車のハイヤーまで戻り、日帰りの花見を終え帰路につきました。お世話になりましたハイヤーは、帝産観光タクシーで、ドライバーは戸田さんで一日の観光案内を有難うございました。

あとがき
京都日帰りの旅は、実は初めてではなく3回目の日帰りの旅でした。
最初の京都日帰りの旅は、いまから12年前の平成6年11月に周山街道の高雄、槇尾、栂尾の三尾の紅葉名所を歩き、二回目は翌年11月に大原の里の三千院、寂光院を歩きました。この時は、東京から新幹線と京都の路線バスを利用し、目的地一箇所の周回と帰路に洛東の一寺に寄って帰りました。
今回の旅は、久方振りの京都日帰りの旅であり、趣を変えて春の桜・花見とし、観光ハイヤーを利用して複数箇所の桜の観賞を目的として企てましたが、花見時と天候が選べる日帰り旅行は、宿泊の余裕が得られない場合に好適で、混雑が予想される桜・花見で多数の場所を周回するハイヤー利用は最適でした。

前回 小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その3 
次回 小さな旅(5) 旧古河庭園 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その3

2006年05月05日 | 小さな旅
椿寺地蔵院の椿の花見 4月9日紀行第3回
今宮神社を後にして、西大路通りを南下して北野天満宮の南方向にある西大路一条交差点傍の京都で花見最初のお寺の「散り椿」で有名な洛陽三十三所観音第三十番札所椿寺地蔵院(地図参照)で、満開の椿と枝垂れ桜を観賞しました。

由来によると、椿寺地蔵院(地図緑印)は、726年に行基菩薩が攝津国昆陽野池のほとりに建立した浄土宗昆陽山地蔵院が始まりで、平安時代に衣笠山に移されたが焼失し、1589年足利義満が現在地に再建したとあります。
また、有名な散り椿は、秀吉朝鮮侵略文禄の役の際に加藤清正が朝鮮蔚山(うるさん)城から持ち帰って秀吉に献上したものを、北野大茶会のときに椿寺に献上された初代の椿は枯れ死しました。現在花を咲かせている「散り椿」は、二世椿で樹齢が約百年で書院の前庭で毎年満開の花を見せています。

洛西大原野 花の寺勝持寺の西行桜
地蔵院を出たところで昼時となったので、西大路通りを南下(地図参照)しながら、次の場所の洛西大原野 山里へ行く途中での京都ならでの食事所の心当たりを運転手さんに頼み、寺の門前で精進料理が味わえるというお店に打診してもらったところ、残念ながら廃業したとのことで、そのまま次の目標に向かって西大路通りを西大路九条まで南下(地図参照)しました。

西大路九条で右折し桂川の久世橋を渡り西進し、阪急洛西口を横切り快適なドライブで洛西大原野へと入ってきました。小畑川(地図参照)を渡り、洛西高校のヘリを右折すると、この辺りは竹林が多く竹の子の産地です。
旬の竹の子ご飯を味わうため勝持寺前の「京・洛西ぶへい」(小畑川地図赤印)に直行しましたが、満席のため時間待ち予約をして、花の寺勝持寺」(小畑川地図緑印)へと車で上がって行きました。

花の寺勝持寺は縁起によると、京の西山連峯の麓にあって、小塩山大原院勝持寺と呼ぶ古刹であります。680年に天武天皇の勅により神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、791年に桓武天皇の勅により伝教大師が堂塔伽藍を再建し、薬師瑠璃光如来を本尊としました。838年に仁明天皇の勅により塔頭四十九院を建立しましたが、応仁の兵火に遭い仁王門を除き焼失しました。現在の建物は乱後に再建されたものとあります。

勝持寺の境内には、染井吉野をはじめとして数種類の桜約450本が見頃をむかえ、1140年に勝持寺で出家した西行が一株の桜を植えて吟愛していた桜を、世人が西行桜と称し、寺を花の寺と呼ぶようになったそうです。

西 行 桜

阿弥陀堂(本堂)と並んだ瑠璃光殿には、重要文化財の薬師如来像本尊と胎内仏、金剛力士像や日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像と西行法師像などが安置されておりました。
境内にある西行桜など数多くの枝垂れ桜米桜など見頃の桜を観賞し、最古の仁王門、不動堂、庫裡や宝物などをゆっくりと見物して、昼食をとりに京・洛西ぶへいに戻りました。

洛西ぶへい
竹の風音を聞きながら、心地良い昼食タイムを、京都西山の竹林に囲まれた味処、洛西ぶへいでこの時期しか食せない、旬の朝採り竹の子を食材にした筍弁当を賞味してきました。
昼食後、京都日帰り桜・花見最後の目的地の西国三十三所第二十番善峯寺へと向かいました。

前回 小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その2 
次回 小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その4 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その2

2006年05月03日 | 小さな旅
洛東 鴨川から洛北 高野川の桜並木 4月9日紀行第2回
祇園白川の花見の次の行き先は、洛東 鴨川(地図参照)とその上流の洛北 高野川、賀茂川沿い(地図参照)の桜並木で観光タクシーのドライブにより、車中からの花見を楽しみました。
祇園白川から四条通りを西進し、四条大橋で鴨川沿いの川端通に入り北上して、鴨川の桜並木の染井吉野はまもなく満開と云うところでした。
鴨川は、Y字型をしており、京阪の出町柳駅あたりが合流点で、東から流れてくる支流を「高野川」と云い、分岐の西側を流れる川が「賀茂川」で、ドライブは右手の高野川右岸の川端通桜並木道(洛北地図青印)を北上し、車中より花見を堪能しました。

高野川とは、修学院近くで左折して高野橋を渡り北山通りを西進して別れを告げて、西側に分岐した「賀茂川」の桜並木へと向かいました。
北山通りに面した松ヶ崎の住宅街町並みは、旧市街とはすっかり趣きが換わり新興住宅街で京都風情は見られません。しかし、北山通りを進むとすぐ右手に京都の伝統行事五山送り火の一つ「妙法」のうちの「法」の字を点火する松ヶ崎東山(洛北地図赤印)が見えてきます。さらに、北山通りをおよそ1.5キロほど進むと、「妙」の字を点火する松ヶ崎西山(洛北地図緑印)が見えてきます。
妙法を示す文字の位置は、思ったより低いところにあり、京都旧市街から見ると松ヶ崎周辺は高台にあるため、市内から眺めるとよく目立つのではないかかと思いました。

五山送り火は、8月16日午後8時から次々と、京都盆地の周囲の山に「大」「妙法」の字や鳥居、船を形どった火を点火して、精霊送りの盆行事です。送り火百科(京都新聞社出展)によると、妙法送り火は、松ヶ崎西山の「妙」は鎌倉時代末期に日蓮宗の僧日像が妙の字を書き点火したのが起源とされ、「法」は近世初期に始まったと伝えられるとあり、二山による二字形であるが、一山一字形としています。

賀茂川の紅枝垂れ桜並木
北山通りの松ヶ崎東山と松ヶ崎西山の反対の南側にある京都工芸繊維大学には、IT関連の会合に参加出席したことを思い出しながら花見のドライブは進行し、賀茂川に架かる北山大橋を渡り左折して加茂街道(北山大橋から上賀茂橋を経て、御薗橋までの賀茂川の西岸約1キロメートル)に入り、北大路橋までの対岸の紅枝垂れ桜(奇祭地図緑印)は未だ開花したばかりで蕾が満開に備えているところでした。

賀茂川東岸の紅枝垂れ桜の小道は、地元の方が花見を楽しんだところですが、観光客にとりましては、高野川右岸の川端通桜並木道とともに花見の穴場です。
京都では加茂街道と賀茂川に、鴨川と、「かも」がつく漢字が3つありますが、京都に住んでいる人でも混同するそうです。ブログの記述にあたり、東京生まれの者には、大変と間誤付きました。

三大奇祭 やすらい祭り
北大路橋で賀茂川と分かれ、たまたま4月の第2日曜は、京都三大奇祭一つのやすらい祭りが北区の今宮神社(地図参照)で行われることを、ハイヤーの運転手さんが記憶しており、寄り道して祭りの様子を探索するため今宮神社方面に向かいました。
偶然と途中で、今宮神社北にある念仏寺から出発して町内を練り歩く行列に出会いましたので、車中から見物できました。

三大奇祭やすらい祭りの今宮神社

やすらい祭りは、疫病を鎮める祭として始まり、鎮花祭とも呼ばれており町内を練り歩いてから神社に到着後、悪霊を降伏させる儀式が行われるのだそうです。
三大祭りは、やすらい祭りと広隆寺で10月10日に行われる「牛祭」に由岐神社で10月22日に行われる「鞍馬の火祭り」を云います。
東京ではお祭りと云うと、店が出て人が集まるのが一般ですが、今宮神社の境内には入りませんのでわかりませんが、神社周辺には出店などが見当たらず、また練り歩きの行列には見物人はおりませんでした。京都のように、多数ある神社のお祭りは、氏子による信者の熱心な儀式の様です。

今宮神社を後に、西に左大文字送り火の大文字山を見て千本北大路を南下し、京都花見最初のお寺である椿寺地蔵院に向かいます。

前回 小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その1 
次回 小さな旅(4) 京都日帰り桜・花見 その3 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その1

2006年04月30日 | 小さな旅
現在、桜前線は北上し、青森の弘前公園のソメイヨシノが開花したようで、連休の後半には満開を迎えるようです。
最近の気候は異常気象の影響か、東京の開花は2番目に早く3月21日で、4月を迎えずに満開となりました。東京周辺以外では、例年通りか、やや遅めに咲きだしました。
大森町の近所でも公園に行けば満開の桜が見られるのですが、例年東京以外での花見は欠かさず、ツアーなどを利用したりして出かけております。しかし、ツアーは前もって申し込みが必要なため、なかなか満開の予想が立てられず、花見場所ではまだ開花前であったり、咲き終えた後で、がっかりするのが通例です。

今年の桜・花見は、昨年4月29日に出かけた、秩父市羊山公園の芝桜が満開宣言の当日に当たり味を占め、京都日帰りの花見を決め天気予報もまずまずの4月9日に出かけました。
当日は、日曜のため新幹線も満席で花見の人出が予想されましたので、京都桜・花見の行き先は名所を避けて、小型タクシーを借り切った運転手さんに穴場を紹介して貰い、洛東から洛北、洛西と周回して京の桜を満喫してきました。
しかし、周回に折角の京都の桜・花見ですので、一ヶ所は名所中の名所の円山公園周辺も散策しました花見紀行です。

紀行には、コメントが記述できる「Yahoo!地図情報」で周回の花見場所を示し、多くの写真や資料情報を引用し、Web 2.0には近づけませんがその気持ちで書いてみます。本文中の下線が引いてある部分の記述文は、地図や写真、資料を表しております。
これらを参照して見る場合には、下線付き文の上にマウスをあててクリックすることにより、インターネット エクスプローラが開いて当該の資料が表示されます。資料から日記に戻る場合には、エクスプローラの上部にあるメニューバーの「戻る」をマウスでクリックすることにより戻ります。
また、表示した地図を含めた資料を拡大して見たい場合には、日記タイトルのここをクリックして「番外編 ブログ記事の参照地図を拡大して見る方法」に、ブログ記事の参照地図などを拡大して見る方法を記載してありますので、参照して下さい。

洛東 円山公園、祇園白川の桜
円山公園
先ずは、京都駅から東大路通りを北上して、京都四條河原町にある元和年間(1600年代)に公許された南座の横を通り、京都桜の名所随一の円山公園と祇園白川(地図参照)へと向かいました。
円山公園(地図赤印)は、回遊式の日本庭園を中心とした周辺に、料亭や茶店が点在し、枝垂れ桜のシンボルの「祇園枝垂桜」を中心とし、染井吉野、山桜に八重桜が八百本以上咲き揃う名勝です。

桜は見頃を迎えておりましたが、花見の人出は、まだ10時を少し回ったところですので、日曜にしては混雑が少ないようでした。昼過ぎには、人で埋まると思われますが、京都桜の名所の神社・仏閣や公園はあちこちにあり、しかも敷地が広いですから、東京に比し花見の人出もゆとりがあるようです。
花見の次は、円山公園から西方にある名所地の祇園白川の桜に向かいます。

祇園白川
町並保存地区に指定された祇園白川の界隈(地図緑印)は、石畳の道にお茶屋や料理屋が連なり、白川にかかる京情緒あふれる橋と、角地にある辰巳稲荷付近の川畔に植えられた枝垂れ桜や染井吉野は見ごろを迎えておりました。
この祇園新橋界隈では、夕方になると桜と艶を競う舞妓や芸妓が辰巳稲荷にお参りして出かける姿は、祇園独特の風情があります。日曜日の昼下がりに、舞妓風の姿で通るのを見かけますが、本物でなく観光向けの代物です。

石畳の道にお茶屋や料理屋が連なる祇園白川の界隈

舞妓さんに会うには、お茶屋さんの紹介が必要で、一般には「一見さんお断り」が多く、予算もかなりかかるので、観光には京舞の鑑賞がお勧めです。
京舞は、明治5年(1872年)に京都博覧会が開かれ、その余興として舞妓・芸妓を揃えて「舞い」を披露しようと考え出されたのがその始まりといわれています。
この京舞のおどりは毎年、京都五花街と呼ばれる「祇園甲部・宮川町・上七軒・先斗町・祇園東」で行われていますが、唯一「祇園東」だけは秋のみの公演となっており、春の開催はありません。
祇園に後ろ髪を惹かれながら、次の桜の高野川畔に向かいます。

前回 小さな旅(3) 清澄庭園・深川江戸資料館 
次回 小さな旅(5) 京都日帰り桜・花見 その2 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(3) 清澄庭園・深川江戸資料館

2006年03月28日 | 小さな旅
21日お彼岸の中日お墓参りの日は、天気が良く暖かったので、早めに茨城県から東京にUターンして、秋葉原からバスで清澄庭園・深川江戸資料館のある清澄白河に向かい、深川探索(拡大図)を行いました。
深川界隈には、深川不動尊と富岡八幡宮があり、ちょっと足をのばすとうそ替え神事の亀戸天神は何度か訪れているが、清澄庭園と深川江戸資料館は初めてです。
本所深川の町は、芭蕉が住み、勝海舟もいた、忠臣蔵の大舞台があり、大相撲のふるさとで、細い路地裏には多彩な伝統や文化が息づき、東京の下町のなかでは歴史を感じ、情緒豊かな何か懐かしい臭いがあり、落ち着きのある好きな町の一つです。

清澄庭園
清澄庭園は、東京都立の公園で泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式築山山水庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
庭園の一部は、江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられ、明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、明治13年に「深川親睦園」として一応の竣工をさせたが、弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。(都立公園・庭園案内の清澄庭園から出典)

深川江戸資料館
深川江戸資料館は、清澄庭園から清澄通りを渡り、名物の佃煮やさんが並ぶ資料館通りの左側にあります。
深川江戸資料館は、約150年前の深川のたたずまいを、地下一階から地上二階までの三層にわたる高い吹き抜け大空間に、当時の沽券図 (こけんず)を参考に忠実に再現された資料館です。一つ一つの建物が実際の大きさに造ってあり、自由に中に入ることが出来、展示されている生活用具に触れることが出来ます。
時間によって夕方の情景を作ったり、朝になるとニワトリの鳴き声や、路地裏の猫が鳴いたりと本当に生活しているような雰囲気に構成されています。
ここでは誰でも長屋の八っあんやおかみさん、御隠居さんや番頭さんになれるんです。楽しみながら江戸の文化を学べるます。私も、すっかりと江戸町人の気分です。

深川めし
深川めし」は、ざっくりと切った葱と生のあさりを味噌で煮込んで熱いご飯にぶっかけた漁師の知恵の一品と、もう一つ、あさりの炊き込みご飯もありますが、それは大工などの職人さんが弁当に持っていけるものをという事で、生まれたと言われています。
深川江戸資料館の前には、名物 深川めしの深川宿がありますが、昼食は済んでいますので夕飯ようにおみやげ用の「深川めし」と「あさりの佃煮」を求めて帰路につきました。

<前回 小さな旅(2) 菩提寺墓参 へ
次回 小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その1 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅(2) 菩提寺墓参

2006年03月26日 | 小さな旅
古河市
何故か菩提寺は、茨城県古河(こが)市にある。
21日のお彼岸の中日に、先祖代々の墓参りをして参りました。
東京生活が長く、実家があるわけでもないのに菩提寺が茨城県にあるのかは、今となっては分からない。
古河市は、城下町(PDF地図版)でありますのでお寺の数は非常に多いところで、その中の真言宗豊山派神宮寺が我が家の菩提寺であります。
注.Adobe Readerをお持ちの方は、クリックしてPDF版地図を表示すると、地図を自由に拡大してご覧になれます。
神宮寺は、文安3年(1446年)に良宥上人が鎌倉で開いた寺で、当時の鎌倉公方足利成氏の古河入りに伴い、古河に移りました。室町時代の作である十一面観世音菩薩坐像が有名です。
古河市の場所は、JR宇都宮線で埼玉県との県境の利根川を渡った茨城県の最南西端にあり、上野駅から丁度1時間のところのひなびた町です。

桃まつり
古河市の名物は、鮒の甘露煮やお茶、御家宝、洋傘、地酒、銘菓などが特産品です。
また、古河桃まつりイベントは、古河を代表する日本一のまつりのひとつで、昭和51年(1976年)より開催されています。古河総合公園に約2000本の花桃が美しく咲きそろうなか、野点茶店、野外音楽会、郷土物産品の即売会、桃むすめによる場内案内などが催され、期間中、市内のみならず県内外から多くの人出でにぎわいます。

今年の桃まつりは、3月20日(月)~4月5日(水)まで開催されます。
21日は、丁度JR主催の「駅からハイキング&ウォーキングイベント」が開催され、古河総合公園を中心としたハイキングが行われ、東京をはじめ近県より多数の参加者が集まり、桃むすめも登場して賑わっておりました。
古河総合公園の満開の花桃は、桜と異なりピンク色が濃く、日本一と云われるだけあり当に圧巻そのもので、一度は訪れてみられることをお勧めします。
しかし、残念ながら今年は桜の開花は早いのですが、桃の開花は平年通りで、21日はまだ蕾の状態でしたので、桃まつりへの参加は取りやめて清澄庭園へと迎いました。

ホリデー・パス
JR東日本では、首都圏(ホリデー・パスのエリア内)で発売し、有効期間は1日間、エリア内乗り降り自由な企画乗車券(事前購入・当日購入可。価格は2,300円。)があり、利用区間によっては割安となり、複数箇所の移動には何回もキップの購入が不要で便利なパスです。使用は、土・休日および4月29日~5月5日(ゴールデンウィーク)、7月20日~8月31日(夏休み)、12月29日~1月3日(年末・年始)の期間に使えます。

<前回 小さな旅(1) 秩父長瀞の蝋梅と火祭り
次回 小さな旅(3) 清澄庭園・深川江戸資料館 へ>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする