通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

鍋桟橋から呉駅まで(その5)

2013年10月18日 | 見て歩き
「鍋桟橋(なべさんばし)からアレイからすこじま経由で呉駅まで、広島電鉄のバス路線に沿って呉の街をめぐる、今回のシリーズ」

「前回は、串山にある防空監視所と工廠神社について話をしたんじゃけど」

「今日は、さらに山側を紹介しようと思う」







「工廠神社から降りると、前回紹介した、アレイからすこじまにあるセブンイレブンから100メートルくらい山側に行ったところにある、道が左右二手に分かれとるところに戻る」

「前回は、ここを左に行ったんよね」

「今回は、そこの道を右側、アレイからすこじま駐車場の方へのぼっていくと、呉海軍工廠の職工教習所(工員養成所)跡地記念碑があるんじゃ」







呉海軍工廠
職工教習所 工員養成所
跡地記念碑

 大正七年(一九一八年)呉海軍工廠は中国、四国地方の小学校高等科二年卒業生より、厳重な試験により、優秀者を採用し、中堅工員養成の目的でこの地に職工教習所(後に工員養成所)を開校し、終戦(昭和二十年)までの二十七年間に約二万名の卒業生を送り出した。この生徒は一般には見習工と云われ、羨望の的であった。
 三年間の本科、選ばれて補習科、更に全国の工廠からの技手養成所等への道を設けられ名実共に工廠を担う者となった。当時の軍隊に入営した者、又一般社会人としても優秀者、指導者として活躍し、広く見習工出身との名声を高めた。
 昭和十三年には海軍工作科予備捕習生(一般に工作兵と呼ぶ)制度が設けられ、他への流出を阻止されたこともうなずけるものであった。
学校は小さく期間は短かかったが我々に多く教訓を与えてくれたことに感謝する。
 戦後、その精神、知識、技術は各方面に発揮され日本復興と発展に大きく寄与されたことは広く認められた。
しかし、戦争に多くの学友が国難に殉じたことは惜しみても余りあり、決して忘れてはならない。
 ここに同窓生より基金を募り、呉市の協力を得て懐しのこの地に思い出と功績を偲び記念にこの碑を建立した。

   平成十年五月吉日  同窓会






「呉と海軍の話を簡単にしとくと…。1889年(明治22年)7月、呉海軍鎮守府(ちんじゅふ)が開庁したんじゃの」

「それまでの呉は、呉浦(くれうら)と呼ばれる、小さな漁村じゃったんよね」

「今から110年前の1903年(明治36年)11月、造船廠(ぞうせんしょう)と造兵廠(ぞうへいしょう)が合併・改組されて、海軍工廠(かいぐんこうしょう)が設立されたんじゃ」

「どれくらいの人が働きよっちゃったん?」

「海軍工廠ができた1903年には、工員が約1万3000人。それが18年後の1921年(大正10年)には、3万5000人くらいに増えとったそうなんじゃの」

「おー、すごい! それだけの工員が必要とされとったんじゃね」

「そんなころに開設されたのが職工教習所で、1918年(大正7年)の11月ことじゃった。工員養成所と名前を変えたのは、1940年(昭和15年)4月じゃ」

「へぇ…」







「アレイからすこじま駐車場があるところには、海軍技手(ぎて)養成所があったそうじゃ」







海軍技手養成所跡

海軍技手養成所ハ慶応三年横須賀ニ創立サレタル黌舎に始マリ 爾後造船工学校 技手練習所等名称学制ニ変遷ハアリタルモ 何レモ日本海軍揺籃成長期ノ中堅技術者養成ヲ目的トサレ 大正八年三月勅令第三十四号ヲ以テ海軍技手養成所令ガ公布セラレ 校舎ヲ横須賀ニ設ケ 専門学校ニ準ジテ教育サルルコトトナリ造船 造機ノ二科ヲ置キタルガ 昭和三年校舎ヲ呉ニ移シ 海軍造兵職工講習所ヲ合併シテ造兵科(砲熕・水雷・電気・製鋼・航空)トシ 昭和十七年金属材料科 機械工作科ヲ増設 従来ノ海軍技手養成所ヲ第一海軍技手養成所ト改称 航空関係ヲ分立シテ横須賀ニ第二海軍技手養成所ヲ設ケテ機体 発動機 兵器 材料ノ四科ヲ置キ 昭和十八年ニハ燃料関係トシテ大船ニ第三海軍技手養成所ヲ新設セラルルモ 昭和二十年八月終戦ヲ迎ヘ 第一海軍技手養成所は第二十四期生 第二海軍技手養成所ハ第四期生ノ卒業ト共ニ此等ハ凡テ廃所トナレリ 然リト雖モ黌舎以来ノ卒業生一、七八三名 何レモ日本海軍ノ艦船 兵器 航空機の造修ニ於ケル中堅指導者トシテ輝カシキ事績ヲ挙ゲ 戦後ハ各界ニ進出シテソノ復興ニ多大ノ貢献ヲ為シタリ 戦後五十年ヲ機トシ今茲ニ同窓生有志相計リ校舎跡ヲ望ム此ノ地ニ本碑ヲ建立 先輩諸兄ノ功績ヲ偲ブト共ニ同窓ノ心ヲ結ブ絆トシテ 後世ニ海軍技手養成所の名ヲ刻シ 自ラヲ工士ト称セシ衿持ヲ伝フト言フ

   平成八年十一月
     海軍技手養成所同窓会






「漢字ト、カタカナ バッカリデ、ナンノコッチャ ヨク ワカリマセーン」

「コレヲ ワカリヤスク 説明スルト…。「海軍技手養成所」ハ慶応3年(1867年)、横須賀デ創立サレタ。チナミニ、明治ニ改元サレタノハ、翌慶応4年(1868年)ノコトジャノ」

「途中デ、「造船工学校」トカ、「技手練習所」トカ、名前ガ変ワッタンジャネ」

「1928年(昭和3年)、横須賀カラ呉ニ移転。1942年(昭和17年)、金属材料科・機械工作科ヲ増設シテ、「第一海軍技手養成所」ト名前ヲ変エタ。ソシテ、1945年(昭和20年)8月、第24期生ヲ以ッテ ソノ歴史ヲ終タソウジャ」









「そこから山側には、軍港・呉を見張っとった港湾監視所があったんじゃ」

「なんとなく、『天空の城ラピュタ』に出てくるロボット兵に見えるのは、うちだけかね?」

「「港湾」という言葉で思い出したが、このあたりの町名は「船見町(ふなみちょう)」というそうじゃ」

「船見町というからには、「船がよく見える」場所なんじゃろうね」

「船が見えるということは、呉の港もよう(=よく)見えるはずじゃ」

「それで、この場所に港湾監視所を作ったんかね」







「これは、港湾監視所の近くにある塔。どういう役割をするために建っとるんか分からんが、気になるので載せてみた」





2013年(平成25年)5月12日





【参考文献】

奥本 剛『呉・江田島・広島 戦争遺跡ガイドブック』(光人社 2009年)

『呉・江田島歴史読本』(新人物往来社 2013年)






「今日は、串山にある呉海軍工廠の職工教習所(工員養成所)跡地記念碑、海軍技手養成所跡の碑、そして港湾監視所について話をさせてもらいました」

「次回は、アレイからすこじままで戻って、呉駅を目指す予定じゃ。ほいじゃあ、またの」

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