通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

台屋の鼻と(広島)駅前橋記念碑

2011年09月25日 | 広島の話題
「??? 「台屋(だいや)の鼻」って何? 「(広島)駅前橋記念碑」と一緒ということは、広島駅の近くにあるんかね?」

「「台屋の出鼻」とも言うらしいんじゃがの。場所は、広島駅の南口から駅前大橋を渡って右折、城南通りを西に進んで駅西高架橋と交差する、上柳橋(かみやなぎばし)東詰交差点あたりじゃ」

「あぁ、ちょっとした緑地帯があるよね。あそこのこと?」

「ほうなんよ」

「京橋川(きょうばしがわ)と猿猴川(えんこうがわ)が分かれるところになるんじゃね」

「「ここは何という名前じゃろうか?」と思うて調べてみたんよ。近くにある秀玉稲荷神社の由緒書を読みよったら、「台奥の鼻(通称デビ)」と書いてあったけぇ、「でび」と呼びよった人もおっちゃったんじゃろうの」




台屋の鼻(上流から見る)


「正面に台屋の鼻があって、右が京橋川、左が猿猴川になるんじゃ」




台屋の鼻



台屋の鼻から上流を見る
(正面は栄橋)




上柳橋東詰交差点から台屋の鼻を見る



「へぇ…。ところで、「台屋」って何? 昔の地名かね?」

「ほうなんよ。昭和40年代まで、このあたりは台屋町(だいやちょう)と呼ばれよったそうじゃ。今の京橋町と的場町あたりじゃそうな」

「うーん、そんな町名、全然聞いたことがないね…」

「わしも初めて聞いたのう」



「で、駅前橋記念碑というのは?」

「その前に質問。江戸時代、広島城から京都や江戸へ向かって行くには、広島城下にある橋を2つ渡って行かんといけんかったんじゃが、その橋はどれか知っとるかいの?」

「京橋川に架かっとる京橋と、猿猴川に架かっとる猿猴橋の2つじゃね」

「正解じゃ。では次の質問。広島駅ができたのはいつか、覚えとるかいの?」

「えーと、確か日清戦争が始まった年じゃったよね…。1894年(明治27)!」

「これも正解じゃ。ほいじゃ最後の質問。その広島駅前に駅前橋ができたのはいつでしょうか?」

「うーん…。広島駅ができた時?」

「ブー。残念、はずれじゃ。広島駅前に駅前橋ができたのは1933年(昭和8)のことじゃそうな」

「へぇ。広島駅ができてから約40年間、駅前には橋がなかったんじゃ」

「広島駅から南に歩いて行くと猿猴橋もあったし、台屋の鼻のすこし上流に、栄橋(さかえばし)が1906年(明治39)に架けられとったんよ」

「ほいじゃけど、駅前に橋がないのは不便じゃなかったんかね?」

「確かに不便じゃったんじゃろうの。駅前橋は地元の要望で架けられたそうじゃ。とはいえ、橋があった場所は今の駅前大橋のあるところじゃのうて、台屋の鼻の近くじゃったんよ」

「駅前からまっすぐ行った方が便利…。ほうか。あのころは今のように自動車で移動する時代じゃなかったもんね」

「当時はここに橋を架ける方が便利がえかったんじゃないんかの」

「原爆の時はどうじゃったん?」

「木造の橋じゃったけぇ、原爆ですっかり燃えてしもうたそうじゃ」




(広島)駅前橋記念碑



同上 正面
(正面上部)駅前橋記念碑




「記念碑の場所の説明をするのを忘れとったが、広島駅南口第三駐輪場のすぐ側、駅西高架橋(駅西歩道橋)の北側にありますけぇの」

「興味のある方は探してみてくださいね」

「わしゃ、何度かあのへんを歩いとるんじゃが、今まで全然気がつかんかったんじゃ」





↓猿猴川についての関連記事は、こちら↓

猿猴川河童まつり 広島市南区段原

旧猿猴橋水管橋






「今日は、広島駅の西側にある台屋の鼻と駅前橋記念碑について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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谷口織物(旧住友銀行東松原支店) 広島市南区猿猴橋町

2011年09月24日 | 広島の話題
「今日は、広島市南区猿猴橋町(えんこうばしちょう)にある旧住友銀行東松原支店について取り上げようと思うんじゃ」

「あぁ、猿猴橋の東側にあって、谷口織物の看板が出とる建物じゃね。うちゃ、この3軒隣にあった「甘党の店 たむら」が好きで、よう行きよったんよ」

「わしゃ、ここの大判焼き(おおばんやき)が好きじゃったのう」

「うちゃ、クリームあんみつが好きじゃったよ。店内の、古臭い感じも好きじゃったんじゃけどねぇ…」

「えーと、話を元に戻して…。この建物は1921年(大正10)、住友銀行の広島支店東出張所として、レンガ造り2階建てで建てられたんよ」

「あぁ、窓で見ると2階建てじゃね。建物の高さからいって、3階建てかと思うとったよ」




谷口織物(旧住友銀行東松原支店)



同上 正面上部




「最初は、建物に向かって右側(東側)が入口じゃったんじゃと」

「うーん、それは知らんかったね」

「ほいで、1階の左奥には金庫室があったそうじゃ」




旧入口



旧入口の階段



旧入口の屋根飾り




「1929年(昭和4)に、東出張所から東松原支店に昇格したそうじゃ」

「で、原爆が投下された時は?」

「建物は大破、全焼して、西面にある鉄の扉は大きく曲がってしもうたんよ」

「ほうか。爆風はほぼ西側から来たことになるんよね。爆心地からの距離は?」

「爆心地から1,890メートルじゃの。ほいで、住友銀行の広島支店と東松原支店を合わせて、29人の方が即死されたそうじゃ」

「住友銀行の広島支店いうたら、銀行入口の階段に、腰掛けた人の影が残された「人影の石」があったところじゃろ?」

「ほうじゃの。強い光が当たった部分が変質して、強い光が当たらんかった部分が元のまま残ったんよ。それで、強い光が当たらんかった部分、つまり人の影の部分が黒い影のように見えるそうじゃ」

「なるほど…」

「東松原支店は応急修理をして、8月27日から広島支店と合同で営業を開始されたそうじゃ。その後、1948年(昭和23)に広島駅前支店と改称された後、1949年(昭和24)に松原町に移転していったんじゃと」

「その後が衣料品店になったんじゃね」

「1959年(昭和34)に衣料問屋の十和がこの建物を取得した後、1970年(昭和45)に谷口織物(現:谷口)が取得して、呉服屋に改装されたそうじゃ」

「改装いうたら、入口の位置が変わっとったよね」

「それまでの入口を塞(ふさ)いで中央に入口を持ってきて、高い天井を利用して中2階を設けて、屋上を増築されたそうじゃ」

「そういや、イズミの前身となった「山西商店」も広島駅前あたりで商売を始められとってんよね」

「ほうなんよ。写真で見る限り、この建物の北側の方に山西商店があったんじゃ」

「この建物は、いつまで残っとるかね」

「ここは広島駅南口再開発のBブロックになっとって、51階建てと9階建ての2棟の建物が建つということじゃが、今のところはその計画が進みそうな感じじゃないじゃのう」





↓人影の石については、こちら↓

「人影の石」広島平和祈念資料館

「8.6探検隊 (47)熱線で「人が蒸発」本当?」






↓広島駅南口再開発については、こちら↓

「広島駅南口Bブロック市街地再開発事業」広島市





↓猿猴橋町についての関連記事は、こちら↓

旧猿猴橋水管橋





↓イズミについての関連記事は、こちら↓

復興の記憶~広島 戦後の商業史~ 泉美術館





「今日は、広島市南区猿猴橋町にある谷口織物、旧住友銀行東松原支店について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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スペクトラム 解散から30年

2011年09月22日 | 音楽
「今日は9月22日じゃのう…」

「何かある日じゃったかいね?」

「今から30年前の1981年(昭和56)9月22日、日本武道館でのファイナルコンサートを最後にスペクトラムが解散した日なんじゃ」

「うちはよく知らんけど、お父さんはむかしからスペクトラムが好きじゃったね」

「実はわし、スペクトラムをリアルタイムで体験しとらんのじゃ」

「ありゃ、そうじゃったん」

「スペクトラムが解散した後、リーダーの新田一郎がプロデュースしたイメージアルバム『パタリロ!』(1982年)から病みつきになったんよ。ほいで、新田一郎、スペクトラムと時代を遡(さかのぼ)っていく形で聞き始めたんじゃ」

「この前話を聞いたけど、新田さんはキャンディーズのバックバンド「MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)」で活躍されとったんよね」

「スペクトラムは、そのMMPのメンバーを中心に結成されたんじゃ」



新田/マネージャーだった大里さんがアミューズをつくって、誰もタレントがいないから、「ウチに来れば?」ということで行ったんだ。

坂崎/人ん家、メシ喰いに行くんじゃないんだから(笑)。

新田/そうしたら、サザン(・オールスターズ)がデビューして、「バンドってやっぱり楽しそうだな」と思って自分たちもデモ・テープをつくったの。それを机の上に置いておいたら、大里さんが「おまえら、デビューしろ。すぐできるんだろ? これ」とか言われて(笑)。

坂崎/大里さんが?

新田/うん。ただ半分は友達を集めてやってもらっただけで、バンドはできていなかったんだよ。でもそこで「実は…」って言うとノリが醒めると思って、「すぐできます!」とか言っちゃって(笑)。それでデビューが決まったんだよ。

(「坂崎幸之助とJ-POP Friends 1」(株)国民自由社 2008年)




「大里さんというのは、アミューズの創業者にして代表取締役会長の大里洋吉(おおさと ようきち)氏のことじゃ。大里氏はアミューズを立ち上げる前、ナベプロ(渡辺プロダクション)におられて、ザ・ピーナッツやあいざき進也、キャンディーズらのマネージャーを務めとられたんよ」

「アミューズいうたら、サザンを始め、福山雅治、ポルノグラフィティ、Perfumeなどのミュージシャンを抱える大手プロじゃもんね。そのアミューズからデビューされたんじゃ」

「当時はアミューズ自体ができたばかりで、「誰もタレントがいないから」という時代じゃったそうじゃがの」

「新田さんと話をされとる「坂崎」というのは、アルフィーの坂崎幸之助(さかざき こうのすけ)さんのこと?」

「ほうじゃの。アルフィーが「メリーアン」(1983年)でブレイクする前は、坂崎氏はラジオのパーソナリティじゃと、わしゃ思うとったんじゃ」

「トークが上手じゃもんね」

「新田氏の話に戻すと…、本人やHorn Spectrum(ホーン・スペクトラム)名義で、サザンの初期の楽曲に管編曲で参加されとってんじゃ」

「スペクトラムは、いつデビューしたんかいね?」

「サザンがデビューした翌年の1979年(昭和54)8月25日、ビクターからデビューされたんよ。ほいで、ファースト・シングル「トマト・イッパツ」と、ファースト・アルバム「スペクトラム」を出されたんじゃ」

「「トマト・イッパツ」!? へんてこりんなタイトルじゃね」



新田/曲のタイトルにしても「トマト・イッパツ」(デビュー曲)ってさ…何だ、それ、と思うわけ。今、逆の立場だったら思いますよ。「おまえら、いいのか、それで」って。

坂崎/ハハハ

(同上)




「その年の11月1日に、セカンド・シングル「イン・ザ・スペース」が発売されたんじゃ」

「♪イン・ザ・スペース~(山田邦子の声で)」

「この曲は、テクニクスのコンポのCMに使われたんじゃ」





↓「イン・ザ・スペース」については、こちら↓

「SPECTRUM - スペクトラム - IN THE SPACE」You tube





「それにしても新田さんの声はすごいね」

「レコードのライナーに、「男なのにアグネス・チャンみたいな声なんだもの」と書かれとったのう」



坂崎/裏声でうたおうというのは?

新田/ソウルとかファンクとか好きだったから、それを意識していたけれども、もともと歌手が本業じゃないから、だったら誰もやったことないから裏声でうたっちゃえと。そんなに深く考えずにやったら、珍しがられたと。

(同上)




「歌って、踊って、演奏して…。演奏も確かじゃけど、ステージングもすごいね」

「ミラーボールが天井に取り付けてある、というのが時代を感じるのう」

「トランペット、トロンボーンは楽器をくるくる回すし、ギターの西氏は、あんなに回って目が回らんのかいの、と心配になってしまうで」

「そういや、スペクトラムのメンバーを紹介しとってや。うちゃ新田さんとギターの西さんしか知らんのじゃけぇ」

「ほいじゃ、メンバーを紹介しときましょうか」



新田一郎/トランペット・ボーカル

兼崎順一(かねざき じゅんいち)/トランペット

吉田俊之(よしだ としゆき)/トロンボーン

渡辺直樹(わたなべ なおき)/ベース・ボーカル

西 慎嗣(にし しんじ)/ギター・ボーカル

奥 慶一(おく けいいち)/キーボード

岡本郭男(おかもと あつお)/ドラムス

今野拓郎(現:今野多久郎(こんの たくろう))/パーカッション




「ホーン・セクションが3人にリズム隊が5人の、総勢8人じゃ」

「ギターやベースの人が歌を歌いながら演奏するのは見たことがあるけど、トランペットを吹きながら歌うというのは、スペクトラムで初めて見たね」

「セカンド・シングル「イン・ザ・スペース」のB面が「アクトショー(Live Version)」。ファースト・アルバム「SPECTRUM」で1曲目に収録されとる曲じゃ」

「B面という言葉がまだあった時代じゃね」





↓「アクトショー」については、こちら↓

「スペクトラム - ACT SHOW(TV).flv」You tube





「いつも思うんじゃけど、このキンピカ衣装はすごいね」

「衣装代に1,000万円かかったそうじゃ」



新田/あの当時、トータルで1000万円。アミューズ500万、ビクター500万の折半で(笑)。

坂崎/でも宣伝費をかけるぐらいのインパクトはあったでしょう?

新田/そういうこと。だから「元取った!」って喜んでいたよ。衣装が話題になったからメディアには大きく取り上げられたでしょう。「結果的には安い買い物だった、アハハハ」とか(笑)。

(同上)




「それにしても、このパフォーマンスはどう評価してええんじゃろうか?」

「振り付けといい、ライティングといい、カメラワークといい、かなり独特じゃろ。ほいじゃけぇ、「色物系バンド」と誤解されることもあったそうじゃ」



新田/でも「何だ、それ」って言われることを面白がっていたし、衣裳も「バカじゃない?」と言われるのが楽しいんだ。

坂崎/それには音楽的な裏づけが絶対あったからだと思うね。

新田/それは多少、正直言って自信はあった。

坂崎/それがなかったら「こいつら面白い」で終わっちゃう。でもタイトル変だし、衣裳も派手だし、だけども演奏は巧かったから。

新田/音楽を本気で真面目にやっているという自信はあったんだよね。

(同上)




「サード・シングル「F・R・Y」(1980年3月5日発売)のB面が、「ミーチャン Going to the Hoikuen」じゃんよ」

「ミーチャンというのは、アミューズの大里さんの娘なんじゃってね」

「広島限定で言うと、RCCラジオでやっとった西田篤史(にしだ あつし)の「あっちゃんのSay春ing(せいしゅんあいえぬじー)」のオープニング曲に使われとったのう」





↓「ミーチャン Going to the Hoikuen」については、こちら↓

「Spectrum「ミーチャン Going to the Hoikuen」」You tube





「そして、4枚目のシングルが、あの「SUNRISE」(1980年6月5日発売)。スタン・ハンセンの入場曲に使われて、スペクトラムの曲の中で最も有名な曲じゃの」

「曲は知っとったけど、歌詞がついとるとは知らんかった。この曲は西さんがソロをとっとってんじゃね」

「全員でコーラスする部分も多いんじゃがの。個人的には歌詞のこの部分が大好きなんじゃ」


おれたちが行くあとから
目覚めた都市(まち)がつづく

(作詞:山川啓介)






↓「SUNRISE」については、こちら↓

「SPECTRUM - スペクトラム - SUNRISE」You tube





「5枚目のシングルが「夜明け(アルバ)」(1980年11月21日発売)」

「アルバ(ALBA)言うたら、お父さんが持っとる時計じゃん」

「この曲は、セイコーの腕時計「ALBA」のCMソングじゃったけぇの。それ以来、わしの腕時計はALBAなんじゃ」

「あぁ、それでALBAにこだわっとったんじゃね」




↓「夜明け(アルバ)」については、こちら↓

「夜明け(アルバ) スペクトラム」You tube





「そして6枚目、ラスト・シングルとなったのが「Night・Night・Knight」(1981年6月21日発売)」

「ありゃ、ジャケットの写真はステージ衣裳じゃのうて、普段着になっとるんじゃね」

「解散が決まった後に発売されたけん、こういう格好になったんじゃないんかの」

「それでアルバムも「Second Navigation」、つまり「2度目の航海」というタイトルになっとるんじゃね」





↓「夜明け(アルバ)」については、こちら↓

「NIGHT NIGHT KNIGHT (スペクトラム) 」You tube





「渡辺さんの声は色っぽさがあるね」

「で、それから3カ月後の9月22日に解散されたんじゃ」



坂崎/解散コンサート(1981年9月22日)はどうだったんですか?

新田/それは最高ですよ。スペクトラムは売れたくてやったバンドでもなかったし、むしろメンバーはスタジオ・ミュージシャンで、バンドをやる前の方がお金をもっていたし。だからお金目的でもないし、ベスト・テンに入ることが目的もでもなかったし、とにかく「バンドをやりたい」という夢だったんですよ。ただひたすらやって来た、その最後が武道館だった。そのときに目の前にお客さんがいるわけじゃないですか。目の前に自分たちを支持してくれていたお客さんがいるわけだから感無量だよね。そういう終わり方をさせてもらえたということが。

(同上)




「この時、新田さんが「俺たちは3年前、ひとつの夢をえがきました…」と言われたんよね」


今日、俺たちスペクトラムをこの武道館まで連れてきてくれたみんなに、心から感謝します! ありがとう!!





↓スペクトラム ファイナル・コンサートについては、こちら↓

「TOMATO IPPATSU SPECTRUM(at BUDOKAN)」You tube

「(Live)SUNRISE~サンライズ/SPECTRUMスペクトラム」You tube





「1979年8月にデビューして、1981年9月に解散じゃけぇ、2年間しか活動されとらんのじゃね」

「活動した期間は、実質2年半ぐらいじゃそうな」

「その間に、シングル・アルバムとも6枚出しとってんじゃね」

「6枚目のアルバムは解散コンサートを収録したものじゃけぇ、アルバムは実質5枚じゃの」



坂崎/だけど与えたインパクトや存在感は相当あったわけですよ。そういう意味では成功したバンドだと思うんですけど、新田さんから見てスペクトラムというバンドは?

新田/メンバー全員、今になって認識しているみたい。

坂崎/本当?

新田/俺たちがやっていた2年半というのは、本当に駆け抜けたという感じだった。半年に1枚、アルバムを出しているし、ライヴも半年に1回ペース。それで解散ライヴは武道館でしょう。そのときはわかっていないんですよ。でも今、振り返って考えると何かすごいことをやっていたんだなと。それから1981年解散なんで、今年(2001年現在)で20年経っているんですよ。でも全国どこへ行っても「スペクトラム好きでした」「CD持っています」という人がいっぱいいるんだよ。

(同上)




「うちのお父さんは、スペクトラムの影響を完全に受けとるよね」

「影響といえば、うちの娘もこの間、スペクトラムの影響を受けました」

「上の娘が高校の吹奏楽部でトランペットをやらせてもろうとるんじゃけど、ちょっと伸び悩んどるんよね」

「そこでわしが聞かせたのが、「スペクトラム5 SPECTRUM BRASSBAND CLUB」(1981年9月5日発売)の中の「コンクールが近いよ」という曲なんよ」

「吹奏楽部でトランペットを吹いとる男の子が、うまくなりたい一心で毎朝、公園に出かけて、噴水の近くで練習をする…というような内容、といえばええんかね?」

「あれ以来、うちの娘は部活が休みの時、学校のトランペットを家に持って帰って、家や近くの山の上のあたりで練習するようになったんよの」

「とはいえ、家で練習されると音が大きいし…」

「近くで聞くと、「おぉ、トランペットってこんな大きな音がするんじゃ」と思うてしまうよの」

「近所の人から「うるさい!」と文句を言われんかと、内心はヒヤヒヤしとるんじゃけどね」





↓「コンクールが近いよ」については、こちら↓

「コンクールが近いよ」You tube





「スペクトラムに話を戻すと…、CDやDVDは買えば聞いたり見たりできるんじゃが、You Tubeが見れるようになって、スペクトラムが「サウンド・イン”S”」などTV出演した映像が見られるようになったのは、うれしいのう」





↓スペクトラムのTV出演映像については、こちら↓

「SPECTRUM - スペクトラム - A SEED’S A STAR AND TREE MEDLEY」You tube

「SPECTRUM - スペクトラム - LONG TRAIN RUNNIN」You tube

「SPECTRUM - スペクトラム - I’VE GOT THE MUSIC IN ME」You tube





「おぉ、スペクトラムってタキシード姿もあったんじゃね」

「最後になりましたが、ホームページを持っていらっしゃるメンバーの方のアドレスを紹介して終わりたいと思います」





↓吉田俊之については、こちら↓

Tea’s Room





↓渡辺直樹については、こちら↓

渡辺直樹 Solo Bass-Club





↓西慎嗣については、こちら↓

西 慎嗣 公式サイト





↓奥慶一については、こちら↓

Welcome to OR-LAB





↓スペクトラム、新田一郎についての関連記事は、こちら↓

追悼 キャンディーズのスーちゃん

キャンディーズとアミューズと広島と





「今日は、30年前の今日解散したスペクトラムについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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頼山陽文徳殿 広島市南区比治山町

2011年09月21日 | 広島の話題
「先日、頼山陽史跡資料館の話をした時に、1931年(昭和6)に頼山陽(らい さんよう)没後100年祭が開かれたという話をしたんじゃが、覚えとるかいの?」

「あぁ、そんな話があったような、なかったような…」

「その記念行事の一環として、頼山陽文徳殿(ぶんとくでん)が1934年(昭和9)に建設されたんじゃ」

「どこにあるん?」

「広電の比治山下電停から、比治山公園に上って行く途中、左手の方にあるんじゃ」




頼山陽文徳殿への階段



「あぁ、ここか…。頼家のお墓がある多聞院(たもんいん)より上にあるんじゃね」

「多聞院に頼家の墓地があるけぇ、この場所に建てられたそうじゃ」

「場所は知っとったけど、行ってみようと思うたことはないね」

「階段に木が生い茂っとるし、雰囲気的に行ってみようとは思わんよの。わしもここを上って行ったのは、今回が初めてなんじゃ」

「で、どんな建物があるん?」




頼山陽文徳殿



頼山陽文徳殿 入口正面



「玄関に広間があって、正面に頼山陽の銅像が飾ってあったそうじゃ」




頼山陽文徳殿 入口に掲げられた看板
「山陽文徳殿」



頼山陽文徳殿 九輪




「九輪(くりん)いうたら、お寺の塔の一番上についとる飾りのことじゃの」

「九輪の形が変わっとるのは、原爆のせい?」

「ほうなんよ。文徳殿の入口は南西の方向に向いとって、爆心地は北西の方向になるんじゃ。ほいじゃけぇ、画面の左側から原爆の爆風が吹いてきたことになるんじゃの。ちなみに爆心地からの距離は1,820メートルじゃ」

「どれくらいの被害があったん?」

「当時の屋根は瓦葺(かわらぶ)きじゃったんじゃが、瓦が飛ばされて窓ガラスが割れ、そのガラスの破片で多くの方が負傷されたそうじゃ」

「多くの方って、たくさんの人がおっての場所じゃないように思うんじゃけど?」

「戦争も終わりのころ、この建物は広島市の戸籍選挙課分室になっとって、市役所から戸籍簿の大部分が移されとったそうなんよ。この建物は焼けずに残ったけぇ、戸籍簿も助かったんじゃ」

「疎開させとって助かったというわけじゃね」

「1946年(昭和21)10月から1949年(昭和24)6月までと、1953年(昭和28)10月から1955年(昭和30)2月までの間、浅野図書館(現:広島市立中央図書館)として使われたそうじゃ」





↓山陽文徳殿については、こちら↓

「山陽文徳殿」“ヒロシマ”をさがそう!~市民とつくる被爆地図~





↓頼山陽についての関連記事は、こちら↓

頼家の墓 多聞院 広島市南区比治山町

頼山陽史跡資料館 広島市中区袋町






「今日は、広島市南区比治山町にある頼山陽文徳殿について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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頼家の墓 多聞院 広島市南区比治山町

2011年09月20日 | 広島の話題
「昨日、頼山陽(らい さんよう)史跡資料館のことを話したよのう」

「ほうじゃね」

「調べてみたら、頼家の墓が広島市南区比治山町(ひじやまちょう)の多聞院(たもんいん)の境内にあるということなんで、見に行ってきたんじゃ」




多聞院



広島県史跡
頼家之墓(らいけのはか)

指定 昭和15年2月23日
所在地 広島市南区比治山町7-10 多聞院境内

頼家は竹原の出身で、江戸時代後期に『日本外史』を著した頼山陽をはじめ多くの学者が出た学問の家として有名であるとともに、代々広島の教育・文化向上に大きな貢献をしました。
当墓所には、頼一族のうち、頼春水(しゅんすい)・梅■(=風思。ばいし)(山陽の両親)、杏坪(きょうへい)、聿庵(いつあん)、誠軒(せいけん)、古楳(こばい)等、広島で活躍した人々の墓が大小30以上も整然と並んでいます。
中でも春水、梅■(=風思)、聿庵、古楳の墓は、県内でも非常に珍しい円錐体に丸みを持たせたような形をしており、形態的な面でも貴重なものと言えるでしょう。

平成3年10月25日
広島県教育委員会
広島市教育委員会

(案内板より)



頼家の墓 案内板と石柱

(石柱正面)右 頼諸先生之墓
(石柱左側)大正三年六月
(石柱右側)杏坪先生追遠会建之





「ここで、注意をひとつ。「■(=風思)」という字は、「風」偏(へん)に「思」と書いて、「し」と読む文字なんじゃ」

「「旭」という字でたとえると、「九」の部分が「風」で、「日」の部分が「思」になるんじゃね」

「パソコンにない文字なんで、こうやって表現させてもろうとります」




頼春水の墓
(正面上側)春水先生頼君之墓



「頼春水は山陽の父上じゃの」

「頼家は多くの学者が出たそうじゃけど、もとからそんな家柄じゃったんかね?」

「春水の父の惟清(ただすが)は、竹原で紺屋(こんや。染め物屋)をされとったそうじゃ。惟清は子どもたちに学問をさせて、春水と杏坪は広島藩儒(はんじゅ。藩主に仕える儒学者)に、春風(しゅんぷう)は医者になられたんよ。春水、春風、杏坪の3人は「三頼(さんらい)」と呼ばれたそうじゃ」

「春風だけ広島にお墓がないんじゃね」

「春風は父の惟清の後を継いで竹原に帰られたけぇの。墓所は竹原市本町の照蓮寺(しょうれんじ)にあるそうじゃ」

「惟清が子どもたちの教育に力を入れたのは、なんでかね?」

「江戸時代、竹原には塩田があって、それでもうけとったんよ。塩田の経営者たちを中心に文化が生まれ、学問をしようとする空気があったそうじゃ」




頼梅■(=風思)の墓
(正面)春水先生配楳■(=風思)夫人墓



「梅■(=風思)は母上じゃね」

「作家の見延典子(みのべ のりこ)さんが、『すっぽらぽんのぽん ― 頼山陽の母・梅■(=風思) 八十四年の生涯』(南々社)という本を書かれとってんじゃ」

「「すっぽらぽんのぽん」って、すごいタイトルじゃね。常識に凝り固まった人というよりは、自由な生き方をしたような人に感じるよ」

「息子の山陽は脱藩を許された後、京都に行ったんじゃが、梅■(=風思)は山陽に招かれて4回も上方へ行かれたそうじゃ」




頼杏坪の墓
(正面上側)杏坪頼先生之墓



「頼杏坪は山陽の叔父にあたる方じゃね」

「広島藩儒をされた後、1811年(文化8)から、三次(みよし)・恵蘇(えそ)・三上(みかみ)・奴可(ぬか)の代官を、1828年(文政11)から三次町奉行を勤められたそうじゃ」




頼聿庵の墓
(正面)聿菴頼先生之墓



「聿庵は山陽の長男じゃ」

「父親の山陽が脱藩したじゃろ。聿庵はどういう扱いになったんかね?」

「藩の法律に従って、母・淳は山陽と離縁したけぇ、聿庵は祖父の春水に育てられたんよ。ほいで、春水の死後は聿庵が家督を相続し、広島藩の学問所の教授も勤められたそうじゃ」

「能筆家(のうしょか。書道に優れた人)じゃったそうじゃね」

「1849年(嘉永2)、娘に種痘したことでも有名じゃそうな」




頼誠軒の墓
(正面上側)誠軒頼先生之墓



「誠軒は山陽の孫にあたる方じゃ」




頼古楳の墓
(正面上側)古楳頼先生之墓



「古楳は山陽のひ孫にあたる方じゃ」




墓の後ろ側にある円錐



「そういや、山陽の墓はどこにあるんかね?」

「京都市東山区の長楽寺(ちょうらくじ)にあるそうじゃ」

「あぁ、そうか。脱藩の謹慎を解かれた後は、京都に行っとっちゃったんよね」





↓頼惟清については、こちら↓

「県史跡 頼惟清旧宅」きてみんさい竹原




↓頼春風については、こちら↓

「重要文化財 「春風館」頼家住宅 「復古館」頼家住宅」きてみんさい竹原





↓照蓮寺については、こちら↓

「照蓮寺」きてみんさい竹原





↓本『すっぽらぽんのぽん』については、こちら↓

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「今日は、広島市南区比治山町の多聞院にある頼家の墓について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」



■変更履歴
「多門院」は「多聞院」の間違いでした。
お詫びして訂正します。
本文は修正済みです。
(2011年9月28日)

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