「9月の『さかのぼり日本史』(Eテレ)は、幕末の話をやるんじゃそうな」
「幕末の話は去年、NHK大河ドラマ『龍馬伝』で見たけぇ、まだ覚えとるよ」
「明治維新からさかのぼってペリー来航までをやるんじゃが、来週9月13日(火)は、『長州征討(ちょうしゅうせいとう)・倒幕の胎動』ということで、第二次長州征討の話なんじゃ」
「着流し姿の高杉晋作(たかすぎ しんさく。演:伊勢谷友介)が、鉄砲の弾が飛び交う中を三味線を弾きながら歩いとったやつじゃね」
「おぉ、それ、それ。長州藩(現:山口県)では、あの戦いを四境戦争(しきょうせんそう)と呼んどるんじゃ」
「四境!?」
「四境いうのは、山陽道の芸州口(げいしゅうぐち)、山陰道の石州口(せきしゅうぐち)、関門海峡の小倉口(こくらぐち)、ほいで瀬戸内海の大島口(おおしまぐち)の4ヶ所のことを言うんじゃ」
「ほうか。この4ヶ所から攻め入ろうとした幕府軍を長州軍が打ち負かしたのが、この戦いじゃったんよね」
「高杉晋作が三味線を弾きながら歩いとったのは、小倉口での戦いのことじゃの」
「山陽道は広島を通っとるけぇ、芸州口の戦いがあったんじゃね。どのあたりで戦いがあったん?」
「今の広島県大竹市と山口県玖珂郡(くがぐん)和木町(わきちょう)、そのころは大竹村と和木村じゃったんじゃが、が主な戦場になったんじゃの」
「広島県と山口県の県境には、小瀬川(おぜがわ)が流れとるよね」
「幕府軍と長州軍が、この小瀬川を挟んで対峙(たいじ)しとったんよ。幕府軍というても、彦根藩(現:滋賀県)と高田藩(現:新潟県)が中心じゃったんじゃがの」
「彦根いうたら、ゆるキャラのひこにゃんで有名じゃん」
「彦根藩は「井伊の赤備え(あかぞなえ)」で有名じゃけぇ、ひこにゃんも赤い兜をかぶっとるんじゃ」
「タイトルに「彦根戦死士之墓」とあるけど、この戦いで死んじゃった彦根藩の人のお墓?」
「芸州口での戦いのきっかけとなった、幕府軍の竹原七郎平(たけはらひちろべえ)たちを、長州軍の品川清兵衛が弔った墓なんじゃ」
彦根戦死士之墓
慶応二年(一八六六)六月十四日未明、第二次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊使番(つかいばん)竹原七郎平は、従者二名と共に先陣を切って小瀬川を渡ろうとしましたが長州軍(しゅう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れました。
異境に死んだ三士の遺骨はしゅう翼団隊長 品川清兵衛によって、その勇を称える碑文と共に当寺に手厚く葬られました。
和木町教育委員会
(案内板より)
彦根戦死士之墓と案内板
(安禅寺境内)
安禅寺
(玖珂郡和木町和木1丁目)
「竹原七郎平が先陣を切って攻めていったんじゃね」
「ところが、大竹市にある案内板は言い回しが違うんじゃ」
長州の役(芸州口の戦い)古戦場跡
-幕府軍使 竹原七郎平の戦死-
慶応二年(一八六六)六月十四日未明、開戦直前の緊迫状態の中、幕府軍使 竹原七郎平盛員(もりかず。彦根井伊藩先鋒隊 木俣土佐守 第一軍使番 百二十石武士 三十九歳)は、従者二人(うち一人は曽根佐十郎正儀 五十三歳)を従え川霧の立ちこめる小瀬川に馬を進めた。
その時の出で立ちは、赤い陣羽織に身をかため、軍扇を開き、封書を高く掲げて軍使であることを表示していたという。
一行が川の半ばに達したとき、対岸の竹薮に身を潜めていた岩国藩民兵諸団の一つ、しゅう翼団(百七名)の小銃隊が一斉に発砲し、竹原七郎平と曽根佐十郎は、ともに壮烈な戦死を遂げた。
七郎平が携えていたのは、征討の勅允(ちょくいん)文(朝廷が認め許可した文書)と幕府の降伏勧告文だったといわれ、和戦両様の重要な使命を帯びての渡河であったと思われる。
七郎平の一行が川に乗り入れた場所は、大龍寺の南側に当たる川岸(大竹市元町二丁目)で、当時の絵図を見るとこの辺りは船着場であったらしく、かなり広くなだらかな石畳が川の中へと続いていた。
この斜面を下りた一行は、対岸(和木小学校裏)の竹薮の中にあった願掛地蔵の東側小道を目指していた。和木町の安禅寺境内には、今なお彦根藩士の墓として七郎平ら三人が祀られている。
大竹市教育委員会
(案内板より)
長州の役(芸州口の戦い)古戦場跡案内板
(大竹市元町2丁目 小瀬川沿い)
大竹駅前の碑より
(左:使番斥候 竹原七郎平、右:使番斥候 曽根佐十郎)
「この案内板によると、竹原七郎平は幕府軍の使いとして、書類を持って小瀬川を渡りよったということじゃ」
「うーん…。どっちが本当なんかね?」
「わしには、分からん。とにかく、これを合図に戦闘が始まったんじゃ」
「で、どうなったん?」
「数は幕府軍が圧倒的に多かったんじゃが、長州軍は地の利に長けとる」
「ということは、長州軍は奇襲戦に持ち込んだほうが有利というわけじゃね」
「長州軍が持っとったんは最新鋭のミニエー銃で、これを使いこなせるように訓練をしとったんじゃ」
「坂本龍馬が薩摩藩から買い入れよったね」
「これを山の上から打ちおろしたいうんじゃけぇ、幕府軍も逃げ場がないよのう。対する幕府軍が持っとったのは、旧式の火縄銃。それに重い甲冑を身にまとった、文字どおり時代遅れの装備じゃったんよ」
竹原七郎平の人形
品川清兵衛の人形
(どちらも和木町歴史資料館)
「なるほど、この写真を見たらよう分かるよ。長州軍は身軽そうじゃね」
「というわけで、芸州口の緒戦は長州軍の圧勝。幕府軍は鎧兜(よろいかぶと)を脱ぎ捨てて敗走したというわけじゃ。結局、幕府軍はこの川を渡って、長州藩に攻め入ることはできんかったんよ」
「第二次長州征討自体が、幕府にとっては負け戦じゃったよね」
竹原七郎平徒渉地点
(和木小学校裏手 小瀬川沿い)
↓「さかのぼり日本史」については、こちら↓
「さかのぼり日本史」NHK
↓和木町歴史資料館については、こちら↓
和木町ホームページ
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広島県立歴史博物館で開催されている秋の企画展は?
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大竹市を流れる小瀬川流域で行われる、ひな祭りの行事は何?
「今日は、芸州口の戦いで犠牲になった竹原七郎平を弔った彦根戦死士之墓について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「幕末の話は去年、NHK大河ドラマ『龍馬伝』で見たけぇ、まだ覚えとるよ」
「明治維新からさかのぼってペリー来航までをやるんじゃが、来週9月13日(火)は、『長州征討(ちょうしゅうせいとう)・倒幕の胎動』ということで、第二次長州征討の話なんじゃ」
「着流し姿の高杉晋作(たかすぎ しんさく。演:伊勢谷友介)が、鉄砲の弾が飛び交う中を三味線を弾きながら歩いとったやつじゃね」
「おぉ、それ、それ。長州藩(現:山口県)では、あの戦いを四境戦争(しきょうせんそう)と呼んどるんじゃ」
「四境!?」
「四境いうのは、山陽道の芸州口(げいしゅうぐち)、山陰道の石州口(せきしゅうぐち)、関門海峡の小倉口(こくらぐち)、ほいで瀬戸内海の大島口(おおしまぐち)の4ヶ所のことを言うんじゃ」
「ほうか。この4ヶ所から攻め入ろうとした幕府軍を長州軍が打ち負かしたのが、この戦いじゃったんよね」
「高杉晋作が三味線を弾きながら歩いとったのは、小倉口での戦いのことじゃの」
「山陽道は広島を通っとるけぇ、芸州口の戦いがあったんじゃね。どのあたりで戦いがあったん?」
「今の広島県大竹市と山口県玖珂郡(くがぐん)和木町(わきちょう)、そのころは大竹村と和木村じゃったんじゃが、が主な戦場になったんじゃの」
「広島県と山口県の県境には、小瀬川(おぜがわ)が流れとるよね」
「幕府軍と長州軍が、この小瀬川を挟んで対峙(たいじ)しとったんよ。幕府軍というても、彦根藩(現:滋賀県)と高田藩(現:新潟県)が中心じゃったんじゃがの」
「彦根いうたら、ゆるキャラのひこにゃんで有名じゃん」
「彦根藩は「井伊の赤備え(あかぞなえ)」で有名じゃけぇ、ひこにゃんも赤い兜をかぶっとるんじゃ」
「タイトルに「彦根戦死士之墓」とあるけど、この戦いで死んじゃった彦根藩の人のお墓?」
「芸州口での戦いのきっかけとなった、幕府軍の竹原七郎平(たけはらひちろべえ)たちを、長州軍の品川清兵衛が弔った墓なんじゃ」
彦根戦死士之墓
慶応二年(一八六六)六月十四日未明、第二次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊使番(つかいばん)竹原七郎平は、従者二名と共に先陣を切って小瀬川を渡ろうとしましたが長州軍(しゅう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れました。
異境に死んだ三士の遺骨はしゅう翼団隊長 品川清兵衛によって、その勇を称える碑文と共に当寺に手厚く葬られました。
和木町教育委員会
(案内板より)
彦根戦死士之墓と案内板
(安禅寺境内)
安禅寺
(玖珂郡和木町和木1丁目)
「竹原七郎平が先陣を切って攻めていったんじゃね」
「ところが、大竹市にある案内板は言い回しが違うんじゃ」
長州の役(芸州口の戦い)古戦場跡
-幕府軍使 竹原七郎平の戦死-
慶応二年(一八六六)六月十四日未明、開戦直前の緊迫状態の中、幕府軍使 竹原七郎平盛員(もりかず。彦根井伊藩先鋒隊 木俣土佐守 第一軍使番 百二十石武士 三十九歳)は、従者二人(うち一人は曽根佐十郎正儀 五十三歳)を従え川霧の立ちこめる小瀬川に馬を進めた。
その時の出で立ちは、赤い陣羽織に身をかため、軍扇を開き、封書を高く掲げて軍使であることを表示していたという。
一行が川の半ばに達したとき、対岸の竹薮に身を潜めていた岩国藩民兵諸団の一つ、しゅう翼団(百七名)の小銃隊が一斉に発砲し、竹原七郎平と曽根佐十郎は、ともに壮烈な戦死を遂げた。
七郎平が携えていたのは、征討の勅允(ちょくいん)文(朝廷が認め許可した文書)と幕府の降伏勧告文だったといわれ、和戦両様の重要な使命を帯びての渡河であったと思われる。
七郎平の一行が川に乗り入れた場所は、大龍寺の南側に当たる川岸(大竹市元町二丁目)で、当時の絵図を見るとこの辺りは船着場であったらしく、かなり広くなだらかな石畳が川の中へと続いていた。
この斜面を下りた一行は、対岸(和木小学校裏)の竹薮の中にあった願掛地蔵の東側小道を目指していた。和木町の安禅寺境内には、今なお彦根藩士の墓として七郎平ら三人が祀られている。
大竹市教育委員会
(案内板より)
長州の役(芸州口の戦い)古戦場跡案内板
(大竹市元町2丁目 小瀬川沿い)
大竹駅前の碑より
(左:使番斥候 竹原七郎平、右:使番斥候 曽根佐十郎)
「この案内板によると、竹原七郎平は幕府軍の使いとして、書類を持って小瀬川を渡りよったということじゃ」
「うーん…。どっちが本当なんかね?」
「わしには、分からん。とにかく、これを合図に戦闘が始まったんじゃ」
「で、どうなったん?」
「数は幕府軍が圧倒的に多かったんじゃが、長州軍は地の利に長けとる」
「ということは、長州軍は奇襲戦に持ち込んだほうが有利というわけじゃね」
「長州軍が持っとったんは最新鋭のミニエー銃で、これを使いこなせるように訓練をしとったんじゃ」
「坂本龍馬が薩摩藩から買い入れよったね」
「これを山の上から打ちおろしたいうんじゃけぇ、幕府軍も逃げ場がないよのう。対する幕府軍が持っとったのは、旧式の火縄銃。それに重い甲冑を身にまとった、文字どおり時代遅れの装備じゃったんよ」
竹原七郎平の人形
品川清兵衛の人形
(どちらも和木町歴史資料館)
「なるほど、この写真を見たらよう分かるよ。長州軍は身軽そうじゃね」
「というわけで、芸州口の緒戦は長州軍の圧勝。幕府軍は鎧兜(よろいかぶと)を脱ぎ捨てて敗走したというわけじゃ。結局、幕府軍はこの川を渡って、長州藩に攻め入ることはできんかったんよ」
「第二次長州征討自体が、幕府にとっては負け戦じゃったよね」
竹原七郎平徒渉地点
(和木小学校裏手 小瀬川沿い)
↓「さかのぼり日本史」については、こちら↓
「さかのぼり日本史」NHK
↓和木町歴史資料館については、こちら↓
和木町ホームページ
↓第二次長州征討(四境戦争)についての関連記事は、こちら↓
広島県立歴史博物館で開催されている秋の企画展は?
↓小瀬川についての関連記事は、こちら↓
大竹市を流れる小瀬川流域で行われる、ひな祭りの行事は何?
「今日は、芸州口の戦いで犠牲になった竹原七郎平を弔った彦根戦死士之墓について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」