通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

軍縮の人 加藤友三郎 広島市出身の総理大臣

2011年09月13日 | 広島の話題
「広島県出身の総理大臣、言うたら誰が思い浮かぶかいの?」

「宮澤喜一(みやざわ きいち)さん!」

「実はの、宮澤さんは東京生まれなんじゃ」

「ほんま!? 広島県出身というイメージがあるけど…?」

「本籍が広島県福山市で、1953年(昭和28)の参議院選挙に広島選挙区から出馬して、当選されとってんじゃ。2003年(平成15)には福山市名誉市民を受けとられとってんよ」

「うーん、知らんかったね…」

「ほかには?」

「えぇっと…、広島城のお堀の東側、RCC(あーるしーしー。中国放送)の南側に銅像が建ってとる人がおってじゃん。えーっと、誰じゃったっけ?」

「池田勇人(いけだ はやと)氏じゃの。大蔵大臣を務めとった1950年(昭和25)に、「貧乏人は麦を食え」と発言された方じゃ」

「それ、知っとるよ。池田さんはどこの出身?」

「竹原市じゃ」

「広島市内に銅像が建っとるけぇ、広島市の人かと思うとったよ」

「もう1人、広島県出身の総理大臣がおるんじゃが、わかるかの?」

「うーん、分からん…」

「加藤友三郎(かとう ともさぶろう)という方じゃ」

「誰、それ?」



軍縮の人、加藤友三郎に学ぶ

広島市出身として初めて内閣総理大臣となった加藤友三郎は軍人でありながら軍縮を断行した。今年、生誕150年を迎えた加藤友三郎の足跡をご紹介します。

■開催日:2011年9月1日から9月28日

■場所:二葉公民館 5階交流ラウンジ

■共催:NPO法人加藤友三郎顕彰会、(財)広島市未来都市創造財団二葉公民館




「軍縮を行った軍人…?」

「海軍大臣じゃった時、ワシントン海軍軍縮条約を締結した方じゃ。先日、「軍縮の人、加藤友三郎に学ぶ」という展示を見に行ってきたんよ」

「生誕150年ということは、えーっと…、1861年生まれじゃけぇ、幕末じゃね」

「加藤は文久元年2月、現在の広島市中区大手町で生まれちゃったんよ。ほいで、1873年(明治6)の10月に、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学されたんじゃ。以後、海軍一筋」

「海軍兵学校といえば、『坂の上の雲』に出てくる秋山真之(あきやま さねゆき)もそうじゃね」

「秋山は1886年(明治19)に17期生として入学されたんじゃ。ちなみに加藤は7期生」

「加藤の同期で有名な人って、誰かおってん?」

「島村速雄(しまむら はやお)じゃの。卒業時の成績で言うと、島村が主席で、加藤が次席じゃったそうな」

「NHKドラマ『坂の上の雲』で、島村を舘(たち)ひろし、加藤を草刈正雄(くさかり まさお)が、それぞれ演じとられとったね」

「加藤は、1880年(明治13)4月から10月まで、北アメリカへ遠洋航海に行かれたんよ。サンフランシスコで写した写真が飾ってあって、写真の右側にこう書いてあったんじゃ」



明治十三年軍艦航海ニテ遠洋航海ノ際米国桑港ニ於テ之ヲ写ス
(明治13年、軍艦航海で遠洋航海をした時、アメリカのサンフランシスコで写す)



「あぁ、「桑港」と書いて「サンフランシスコ」と読むんじゃね」

「加藤は若いころに海外の様子を見聞したことで、物事を広い視野で捉えるようになったそうじゃ」

「日清・日露の2つの戦争にも参加しとってんじゃろ?」

「日清戦争では、巡洋艦「吉野」の砲術長として参加、黄海海戦(こうかいかいせん)で活躍されたんよ。日露戦争では、有名な絵があるんじゃ」




日露戦争・日本海海戦時の戦艦三笠艦橋の図


「なんか、見たことがある絵じゃね。真ん中で杖をついた人が、東郷平八郎(とうごう へいはちろう)じゃなかったっけ?」

「ピンポン! 正解じゃ」

「NHKドラマ『坂の上の雲』では、渡哲也(わたり てつや)が演じられとったね」

「東郷の向かって右側でメモを取っている(?)のが秋山で、東郷の向かって左側で双眼鏡を手にしているのが加藤じゃそうな」

「この日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破ったんよね」

「この後、呉鎮守府司令長官や、第一艦隊司令長官などを務められたんじゃ。加藤は、軍人としての活躍もそうじゃが、海軍大臣、総理大臣としての仕事も評価されとるんよ」

「タイトルに「軍縮の人」ってあるけど、どういうことじゃろ? 軍人が軍縮をするとは言いづらいよね」

「明治政府のスローガンを覚えとるかいの?」

「富国強兵(ふこくきょうへい)、殖産興業(しょくさんこうぎょう)じゃね」

「ほうじゃの。日本は富国強兵、つまり欧米列強に対抗できるような力、つまり軍備を充実させるために、国家予算に対する軍事費の割合が多かったんよ」

「うん」

「日清・日露戦争に勝った後も大陸へ勢力を拡大して、1910年(明治43)には日韓併合を行い、第一次世界大戦(1914年~1918年)にも参加しとるんじゃ」

「軍事費の割合が、どんどん増えていったわけじゃね」

「ほいで、第一次世界大戦が終わった後の1921年(大正10)には、国家予算に対する軍事費の割合が約50パーセントにまで増えとったんじゃ」

「うわー、そんなにあったん!? 日本の財政が破綻してしまうじゃん!!」



世界の主要国は、第一次世界大戦後の軍備拡大で財政的な負担に耐えかねていた。
大正10年10月、アメリカの提唱で主要9カ国による海軍軍縮会議がワシントンで開催されることになった。
わが国の首席全権として海軍大将で海軍大臣であった加藤友三郎が選ばれて行くことになった。

(「ワシントンの海軍軍縮会議首席全権として出席」軍縮の人、加藤友三郎に学ぶ)



「財政的なこともあったんじゃが、第一次世界大戦の直後で、世界的に平和と軍縮を求める雰囲気もあったんよの」

「国際連盟も設立されたしね」

「ところが、加藤は戦艦と巡洋戦艦各8隻からなる「八八(はちはち)艦隊計画」の推進者でもあったんじゃ」

「海軍大臣じゃけぇね」

「このワシントン海軍軍縮会議は、海軍の軍縮問題について話し合われて、米英日の主力艦比率を5対5対3にすると提案があったんよ。これに対して日本海軍は、「対米7割(=3.5)は日本防衛のために絶対に譲れぬ」と強硬に反対しとったんじゃ」

「なんで、海軍大臣の加藤がこの条約の日本首席全権に任命されたんかね?」

「この時の総理大臣は原敬(はら たかし)じゃったんじゃが、海軍以外の者を任命するより、海軍の内のしっかりした人物を派遣することで、海軍を抑えることができると考えられたそうじゃ」

「結局、加藤はこの条約を締結されたんじゃね」

「ひとつは、加藤が軍部ににらみが利くということもあったんじゃ。ほいがじゃ、日本が対米7割を主張して譲らないと国際的に孤立してしまう。それと、当時の日本が頼りにできるのがアメリカで、そのアメリカを敵に回してしまうのは良くない、という判断があったそうじゃ」

「それで、軍縮の人なんじゃね。ところで、加藤が総理大臣になった時の話が出てこんのじゃけど?」

「ワシントン海軍軍縮条約を締結した後の1922年(大正11)の6月、加藤は第21代総理大臣に選ばれたんじゃ」

「条約を締結したら、それを実行せんにゃいけんよね」

「ほいじゃけぇ、現存する艦を沈めたり、スクラップにしたりしたんじゃ。ほかには、出兵していたシベリアからの撤兵を行ったり、協調外交を推進したりしたんよ。ほかにも、軍事費を減らして、教育や福祉への支出を増やして、財政の立て直しをはかられたんじゃ」

「やれやれじゃね…」

「ところが、総理大臣に就任して1年2ヶ月後の1923年(大正12)8月24日に、大腸ガンで亡くなられたんよ」

「残念ながら、志半ばで亡くなられたんじゃね」

「加藤は酒豪で知られとって、飲み過ぎで大腸ガンにかかったのでは、と言われとるそうじゃ」





↓NPO法人加藤友三郎顕彰会については、こちら↓

加藤友三郎顕彰会





↓二葉公民館については、こちら↓

公民館だより ふたば





↓坂の上の雲については、こちら↓

スペシャルドラマ 坂の上の雲





「今日は、広島市出身の総理大臣にして軍縮の人、加藤友三郎について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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