通でがんす

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頼山陽史跡資料館 広島市中区袋町

2011年09月19日 | 広島の話題
「9月17日(土)の中国新聞の天風録に書いてあったんじゃが、頼聿庵(らい いつあん)という方が「振り返れば鯉魚(りぎょ)の城」と詠んだことが、広島城とコイの2つを結びつけた最初とされるそうじゃ」



↓「振り返れば鯉魚の城」については、こちら↓

「カープの名付け親」中国新聞 2011年9月17日



「頼聿庵って、誰?」

「頼山陽(らい さんよう)の長男で、能筆家(のうしょか。書道に優れた人)じゃったそうじゃ。山陽は『日本外史』という本を書かれた方じゃの」

「あぁ、旧日本銀行広島支店の東側に資料館があったね」

「その頼山陽史跡資料館で、『頼聿庵の書~迸(ほとばし)る情念~』という企画展を10月23日(日)までやっとってんじゃ」

「あの資料館は最近できたんじゃろ?」

「今の頼山陽史跡資料館は1995年(平成7)に開館したんじゃが、その前身となる山陽記念館は、頼家が暮らしとった旧居を整備して1935年(昭和10)に建てられたんじゃ」

「へぇ~、歴史があるんじゃね」

「その6年前の1929年(昭和4)に頼山陽先生遺蹟顕彰会が設立されて、1931年(昭和6)には山陽没後100年祭が開かれたんよ。その後、1936年(昭和11)には山陽記念館が国の史跡に指定されたそうじゃ」

「ということは、この建物は原爆の被害を受けとってんじゃね」

「旧日本銀行広島支店の陰になるような形じゃったんじゃが、建物の内部や居室は焼けてしもうたそうじゃ」

「爆心地にかなり近いよね」

「爆心地から400メートルじゃけんの。1949年(昭和24)に顕彰会が部分的に補修して、翌1950年(昭和25)に広島県に寄贈されたそうじゃ。ほいで、1994年(平成6)に建物の老朽化に伴い、旧居室と被爆遺構を残して解体し、翌1995年に頼山陽史跡資料館として再開館したというわけじゃ」





頼山陽史跡資料館 正門





頼山陽史跡資料館 正門横の石柱
(正面)頼山陽先生日本外史著述宅趾



「この石柱は1927年(昭和2)に建てられたんじゃが、原爆の被爆で折れ、戦後復元されたそうじゃ」




国の史跡「頼山陽居室」

頼山陽は、安永9年(1780)に大阪で、春水(しゅんすい)を父に、梅■(=風思。ばいし)を母として生まれた。
春水は当時家塾青山社を開いていたが、広島藩の学問所創設にあたり、新進の朱子学者として迎えられたので、広島に移った。
この敷地にあった屋敷に住むようになったのは寛政2年(1790)からである。
山陽は、ここで育ち、漢学を修めた。
寛政9年、18歳の時に江戸に遊学し、1年後に帰藩したが、同12年には志を立てて脱藩し、京都で福井新九郎方に身をよせた。
頼家では山陽をつれもどし、邸内の離れの一室に幽閉し、その期間は5年にも及んだ。
この離れが現在の頼山陽居室にあたる。
この間、山陽は著述に専念し、晩年に完成する「日本外史(にほんがいし)」の草稿を仕上げたといわれる。
この書は、幕末から維新にかけての転換期に大きな思想的影響を与えた。
その後、廃嫡となった山陽は、神辺の廉塾(れんじゅく)を経て京都に上り、半生を送った。
天保3年(1832)53歳で没したが、いっさい禄仕せず、もっぱら著述に従事した。
詩文と書をとおして山陽の名は天下にきこえた。
居室は原子爆弾で焼失したが、昭和33年 広島県が復元した。
居室を含む30坪余の地域は史跡に指定されている

(案内板より)



頼山陽居室



「ここで、注意をひとつ。「■(=風思)」という字は、「風」偏(へん)に「思」と書いて、「し」と読む文字なんじゃ」

「「旭」という字でたとえると、「九」の部分が「風」で、「日」の部分が「思」になるんじゃね」

「パソコンにない文字なんで、こうやって表現させてもろうとります」



被爆樹木 クロガネモチ

この木は、古くから庭内にあったが、1945年8月6日、被爆によって根株だけを残して焼けた。
しかし、5年目の1949年に不思議にもその株から芽を吹き、以来、成長を続け、現在、約5メートルの高さに茂っている。

(案内板より)



被爆樹木 クロガネモチ





頼山陽史跡資料館 入口






↓頼山陽史跡資料館については、こちら↓

頼山陽史跡資料館ホームページ





「今日は、広島市中区袋町にある頼山陽史跡資料館について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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