通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島電鉄千田町変電所 広島市中区東千田町

2011年09月15日 | 広島の話題
「6月に広電の路面電車まつりに行ったんじゃが、その時、レンガ造りの建物が気になったんじゃ」




白(左側)と茶色(右側)のレンガ造りの建物


「うーん、こりゃ何じゃろか?」

「調べてみたら、火力発電所じゃったんよ」

「発電所? 電車に電気を送るための?」

「ほうじゃの。1912年(大正元)、広島電気軌道(現:広島電鉄)が広島市内に電車を開業させたんじゃ。そこで、電車に必要な発電所と電車の車庫を、今の広電本社ビルが建っとる場所に作ったんよ」



電力関係では自社の火力発電所としてレンガ造りの建物が2棟建てられ、南側がボイラー棟で石炭焚きのボイラーが2基、北側が発電棟でタービン式発電機2基が設置され、両建物の前の中間には市内で最も高いとされる煙突が建てられていた。

(長船友則『広電が走る街 今昔』JTBパブリッシング 2005年)



「この時、広電電車は広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋までの間で開通したんよね」

「ほうじゃの。ここは今「広電本社前」電停じゃが、そのころは「発電所前」と呼ばれとったそうじゃ」

「そういや、タイトルが「変電所」になっとるけど、いつから変電所に変わったん?」

「1934(昭和9)じゃ。建物が老巧化して発電所の能力が低下したんよ。ほいで、電力を広島電気(現:中国電力)から供給してもらうことにして、ここを変電所にしたそうじゃ」

「原爆が投下されたときは?」



広島電鉄株式会社(爆心地から約1.9キロメートル)

1945(昭和20)年8月6日、人類史上最初の原爆投下により、一瞬にして木造の本社屋は半壊し、修理工場や車庫では多くの職員が倒壊した建物の下敷きになって押しつぶされました。
ラッシュアワーで混雑する乗客を乗せて走っていた電車やバスの中でも、多数の犠牲者が出ました。このように交通機関も壊滅的な状態でしたが、関係者の懸命な努力により、その3日後には早くも西天満町~己斐(こい)間の電車の運行が再開されました。動き始めた電車の姿は、うちひしがれた市民の気持を大いに力づけました。

(説明板より)




広島電鉄株式会社 原爆被災説明板




「そうそう。原爆投下の3日後から広電の電車が動いたんよね」

「ここの変電所の建物が倒れんかったことが、電車の早い復旧につながったということじゃ」




手前の茶色の建物が旧ボイラー棟、奥の白い建物が変電所
(南東側から見る)



「今、旧ボイラー棟は事務所として使われとるんじゃと」

「変電所は、なんで白色なんかね?」

「防水塗料を塗っとるけぇじゃそうな。ここから北西の方向が爆心地の方向になるけぇ、北側にある変電所の方が損傷がひどかったそうじゃ」

「旧ボイラー棟は、発電棟の陰に隠れるような位置にあったんじゃね」

「この方向から見た建物の間に、煙突が建てられとったそうじゃ」

「市内で一番高い煙突じゃいうけぇ、遠くからでも見えたんじゃろうね」




旧ボイラー棟
(南側から見る)




広電本社ビル






↓広島電鉄については、こちら↓

広電 電車カンパニー





↓広島電鉄についての関連記事は、こちら↓

第16回路面電車まつり 広島電鉄

路面電車の一日の乗車人数は何万人?






「今日は、広島市中区東千田町にある広島電鉄千田町変電所について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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