「この間、図書館で『原爆の火』という絵本を読んだんじゃ」
『原爆の火』
岩崎京子/文、毛利まさみち/絵
新日本出版社 2000年8月
(amazon)
「原爆の火? 何かいね、それ?」
「広島に原爆が投下され、街を焼き尽くした時の残り火が、今も燃えつづけとるんじゃそうな」
「平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の北側に灯があるじゃん。あれとは違うん?」
「あれは「平和の灯(ともしび)」じゃ」
全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。
(「18 平和の灯」広島平和祈念資料館WebSite)
「これは、1964(昭和39)年8月1日に点火されたんよ」
「原爆の火…。うーん、分からんね」
「わしも、この本を読むまで知らんかったんじゃが、福岡県の星野村(ほしのむら)にあるそうじゃ。もっとも、星野村は八女市(やめし)に編入されて、今はなくなっとるそうじゃがの」
「どうして福岡県に原爆の火が残っとるんかね?」
「星野村の山本達雄さんという方が、持ち帰られたそうじゃ。山本さんは戦争中、広島の暁2940隊 大乗(おおのり)駐屯地に配属されとったんよ」
「大乗って、どこかいね?」
「豊田郡大乗村、今の竹原市になるそうじゃ」
「竹原じゃったら、原爆の直接の被害は受けとってんないね」
「それがの、山本さんは宇品にあった本隊に向かうために汽車に乗っとられて、あと4、5分で広島というあたりで被爆されたそうじゃ」
「それじゃあ、原爆が投下された広島で地獄絵を見ちゃったんじゃろうね」
「軍隊におられたけぇ、トラックで死体を集めて焼く作業なんかをされたんじゃないんかの。そのうち終戦になって、山本さんは星野村に帰ることになったんじゃが、まだおじさんを見つけとらんかったんよ」
「おじさん?」
「山本さんのおじさんが、広島で本屋をされとったんよ。早くに父を亡くした山本さんにとっては、親代わりじゃったそうな」
「あぁ、そのおじさんを探そうと思うちゃったんじゃね」
「山本さんは、本屋があったあたりを探しに行かれたんじゃ」
やっと入り口を探し、地下におりていくと本はそのまま灰になっていました。空気が動いたためか、ちいさなおき火がぱっと炎をあげました。
「これがおじさんを焼いた火だ」
-あつかよう、おお、助けに来てくれたんか。
おじさんの声が聞こえるようでした。
「無念だったろうなあ、おじさん」
山本さんはしばらくすわりこんだままでした。立てなかったのです。
「おじさん、おじさん。おじさんを焼いたんは新型の爆弾げな。兵隊たちがうわさしとっとよ。にくか兵器ばこさえて。ゆるせん」
「こん火ば持って村へ帰ろう。おじさんのうらみと怒りの形見ばい」
(岩崎京子『原爆の火』新日本出版社 2000年8月)
「で、この火を星野村に持って帰っちゃったんじゃね。どうやって?」
「懐炉(かいろ)に火を入れて持ち帰られたそうじゃ。ほいで、自分の家のいろりにこの火を移して、「こん火ば絶やさんでくれ」とだけ言われたそうじゃ」
山本さんはじっと火をにらみつけていました。きっとこわい顔をしていたのでしょう。家の人たちは遠まきにしていました。
(同上)
「この火を見とると、広島で見たことを思い出してんじゃろうね」
「こうして火を守っていた山本さんに、村の消防団長の役が回ってきたそうじゃ。火事のことを考えると、火を絶やさずに守ることは難しいかのうと思うとったとき…」
すると、子どもたちはいっせいに、
「こん火はお父さんの生命じゃなかの? 消さんでよか。父さん」
というではありませんか。山本さんの気持ちは伝わっているでようです。何もいわなかったのに…。
(同上)
「なるほどねぇ…」
「こういう経緯(いきさつ)で、星野村に原爆の火が残されたんよ。ほいで、1968年(昭和43)には当時の村役場前広場の「平和の塔」に火が移され、1995年(平成7)からは平和の広場の「平和の塔」で火を守っとられるそうじゃ」
↓平和の塔については、こちら↓
「平和の塔」福岡県観光情報 クロスロードふくおか
「星野村の「平和の火」全国に広がるが… ~原爆への悲憤の思いどう伝えるのか~」西日本新聞
↓原爆についての関連記事は、こちら↓
戦争やったらあかん 喜味こいし
張本勲 幸せへ切磋琢磨を
↓毛利まさみちについての関連記事は、こちら↓
広島市中区在住の切り絵作家は誰?
「今日は、福岡県星野村(現:八女市)に残されている原爆の火について話をさせてもらいました」
「最後になったが、この「原爆の火」は「平和の火」とも言われとるんじゃ。今回は本のタイトルに従って「原爆の火」で統一させてもらいました。ほいじゃあ、またの」
『原爆の火』
岩崎京子/文、毛利まさみち/絵
新日本出版社 2000年8月
(amazon)
「原爆の火? 何かいね、それ?」
「広島に原爆が投下され、街を焼き尽くした時の残り火が、今も燃えつづけとるんじゃそうな」
「平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の北側に灯があるじゃん。あれとは違うん?」
「あれは「平和の灯(ともしび)」じゃ」
全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。
(「18 平和の灯」広島平和祈念資料館WebSite)
「これは、1964(昭和39)年8月1日に点火されたんよ」
「原爆の火…。うーん、分からんね」
「わしも、この本を読むまで知らんかったんじゃが、福岡県の星野村(ほしのむら)にあるそうじゃ。もっとも、星野村は八女市(やめし)に編入されて、今はなくなっとるそうじゃがの」
「どうして福岡県に原爆の火が残っとるんかね?」
「星野村の山本達雄さんという方が、持ち帰られたそうじゃ。山本さんは戦争中、広島の暁2940隊 大乗(おおのり)駐屯地に配属されとったんよ」
「大乗って、どこかいね?」
「豊田郡大乗村、今の竹原市になるそうじゃ」
「竹原じゃったら、原爆の直接の被害は受けとってんないね」
「それがの、山本さんは宇品にあった本隊に向かうために汽車に乗っとられて、あと4、5分で広島というあたりで被爆されたそうじゃ」
「それじゃあ、原爆が投下された広島で地獄絵を見ちゃったんじゃろうね」
「軍隊におられたけぇ、トラックで死体を集めて焼く作業なんかをされたんじゃないんかの。そのうち終戦になって、山本さんは星野村に帰ることになったんじゃが、まだおじさんを見つけとらんかったんよ」
「おじさん?」
「山本さんのおじさんが、広島で本屋をされとったんよ。早くに父を亡くした山本さんにとっては、親代わりじゃったそうな」
「あぁ、そのおじさんを探そうと思うちゃったんじゃね」
「山本さんは、本屋があったあたりを探しに行かれたんじゃ」
やっと入り口を探し、地下におりていくと本はそのまま灰になっていました。空気が動いたためか、ちいさなおき火がぱっと炎をあげました。
「これがおじさんを焼いた火だ」
-あつかよう、おお、助けに来てくれたんか。
おじさんの声が聞こえるようでした。
「無念だったろうなあ、おじさん」
山本さんはしばらくすわりこんだままでした。立てなかったのです。
「おじさん、おじさん。おじさんを焼いたんは新型の爆弾げな。兵隊たちがうわさしとっとよ。にくか兵器ばこさえて。ゆるせん」
「こん火ば持って村へ帰ろう。おじさんのうらみと怒りの形見ばい」
(岩崎京子『原爆の火』新日本出版社 2000年8月)
「で、この火を星野村に持って帰っちゃったんじゃね。どうやって?」
「懐炉(かいろ)に火を入れて持ち帰られたそうじゃ。ほいで、自分の家のいろりにこの火を移して、「こん火ば絶やさんでくれ」とだけ言われたそうじゃ」
山本さんはじっと火をにらみつけていました。きっとこわい顔をしていたのでしょう。家の人たちは遠まきにしていました。
(同上)
「この火を見とると、広島で見たことを思い出してんじゃろうね」
「こうして火を守っていた山本さんに、村の消防団長の役が回ってきたそうじゃ。火事のことを考えると、火を絶やさずに守ることは難しいかのうと思うとったとき…」
すると、子どもたちはいっせいに、
「こん火はお父さんの生命じゃなかの? 消さんでよか。父さん」
というではありませんか。山本さんの気持ちは伝わっているでようです。何もいわなかったのに…。
(同上)
「なるほどねぇ…」
「こういう経緯(いきさつ)で、星野村に原爆の火が残されたんよ。ほいで、1968年(昭和43)には当時の村役場前広場の「平和の塔」に火が移され、1995年(平成7)からは平和の広場の「平和の塔」で火を守っとられるそうじゃ」
↓平和の塔については、こちら↓
「平和の塔」福岡県観光情報 クロスロードふくおか
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張本勲 幸せへ切磋琢磨を
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広島市中区在住の切り絵作家は誰?
「今日は、福岡県星野村(現:八女市)に残されている原爆の火について話をさせてもらいました」
「最後になったが、この「原爆の火」は「平和の火」とも言われとるんじゃ。今回は本のタイトルに従って「原爆の火」で統一させてもらいました。ほいじゃあ、またの」