「今日は、元プロ野球選手の張本勲(はりもと いさお)さんの話じゃね」
「あっぱれ! 喝(かつ)!!」
「それしかないんかいね…。申し訳ないけど、うちは張本さんが広島の出身いうのは知らんかったんよ」
「わしも、つい最近まで知らんかったんじゃ」
張本勲さん(70)は韓国名を張勲(チャン フン)という。
広島市生まれの在日2世であり、被爆者でもある。
いわれなき民族差別や放射能後障害の不安と闘い、首位打者7回、通算3085安打などのプロ野球記録を打ち立てた。
古里広島への愛着は深く、核兵器の廃絶と分断が続く朝鮮半島の平和を願う思いは強い。
(『人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~』中国新聞 2011年1月4日)
「今日は、「右手のやけど」「在日韓国人」「被爆」「平和へ」について調べてみようかの」
【右手のやけど】
「張本さんは1940(昭和15)年6月、大洲町(おおずまち。現・広島市南区大州)で生まれたんよ。ほいで、4歳のとき右手に大やけどを負われて、薬指と小指がくっついてしもうたんじゃと」
「ありゃ、まあ」
「野球は小学5年生から始め、段原(だんばら)中学校ではエースで4番として活躍し、県大会で優勝されたそうじゃ」
右手は手術しても指の自由が利かずボールを遠くに投げられない。
壁に向かって練習し、完全に左投げ左打ちにした。
(同上)
「すごいね。やけどした手で、3000本ものヒットを打っとられるんじゃもんね」
「もちろん、陰では並大抵でない努力をされとったんじゃ」
右手のハンディはプロでは致命的です。
ゲームが終わってもバットを振らないと気がすまない。
プロ生活23年間、引退の前日まで振り続けましたね。
(同上)
「右手のやけどのことは今まで聞いたことがなかったんじゃけど、何でかね?」
プロ入り後、ある日母親と談笑している時に「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟(つぶや)いた所、母親が号泣してしまった。
まずいことを言ってしまったと反省した張本は、以降、その右手を誰の目にも晒(さら)さなくなった。
唯一、打撃人として最も尊敬する川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたことがある。
その時川上は「よくもそんな手で」と涙を流しながら絶句していたという。
(『張本勲』ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%9C%AC%E5%8B%B2
【在日韓国人】
「右手のやけどは、トラックにはねられたときのものなんじゃそうな」
運転手は逃げ、みかねた叔父さんが警察へ訴えたが「朝鮮人じゃないか」と追い返されたそうです。
(『人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~』中国新聞 2011年1月4日)
「差別があったんじゃね」
「まだ、日本が韓国を植民地にしとった時代じゃけぇの」
「『はだしのゲン』にも、朴(ぼく)さんという人が差別される話が出てきとったよね」
「張本は中学卒業後、松本商業高校(現・瀬戸内高校)から、大阪の浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高校)へ転校されたそうじゃ」
3年生のときチームは夏の甲子園へ出場をしたが、その前に起きた不祥事(ふしょうじ)の責任を私は押しつけられ、休部が続いていた。
野球部長が韓国人を嫌った。
差別だと思った。
正直荒れました。
(同上)
「そりゃ、荒れるわいね。でも、どうやって立ち直っちゃったんかね?」
その1958(昭和33)年夏です。
韓国を初めて訪れた。
在日高校生選抜チームの4番としてソウルに降り立ち、「アリラン」「トラジ」の演奏で出迎えられた。
胸がきゅーんとなりました。
おふくろの生まれた国だ、俺は韓国人なんだと認識しました。
私にとって韓国は生みの親、日本は育ての親です。
そして生粋(きっすい)の広島県人だと思っています。
(同上)
【被爆】
「1940(昭和15)年の生まれじゃけぇ、5歳で被爆されとってんじゃね」
原爆は段原新町(だんばらしんまち。現・南区段原。爆心地から約2.3キロ)の長屋で遭(あ)いました。
ピカーッと光りドーンとものすごい音がして気がつくと、おふくろが私の3つ上の姉さんに覆(おお)いかぶさり、背中はガラス片で血まみれ。
「逃げろ」と朝鮮語で言われ、ブドウ畑へ走った。
人のうめき声、異様な臭いは65年たってもはっきり覚えています。
(同上)
「上のお姉さんは、広島市中区の鶴見町(つるみちょう)あたりで被爆されて亡くなられたそうじゃ」
「鶴見町は比治山(ひじやま。爆心地から約2キロ)の西側にあって、段原新町は比治山の東側にあるんよ。ほいで、爆心地は比治山の西側にあるんよね」
「張本さんは、比治山の陰におったんで助かったということじゃ」
「被爆者手帳は持っとってんかね?」
「1966(昭和41)年に取得されたそうじゃ。「安打製造器」として、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)として活躍されとったころじゃ」
手帳を兄貴に勧(すす)められ取った。
原爆症はいつ出るか分からない。
シーズン中は必死ですから気にしなかったがオフの健診は嫌でした。
ひょっとしたら…その恐怖心は今も頭をよぎります。
私ら被爆者は「終戦」になっていないと思いますよ。
(同上)
「プロ野球で被爆者健康手帳を交付されたのは、張本さんと濃人渉(のうにん わたる。1915年、広島市生まれ)さんの2人だけじゃそうな」
【平和へ】
「張本さんが、自身が被爆者であることを話すようになったのは、65歳のころからじゃそうな」
「5年くらい前のことじゃね」
若い人がテレビで「戦争は知らない、関係ない」と答えているのを見て、とんでもないと腹が立ちましたね。
原爆で多くの人が犠牲になったことを忘れてはいけません。
原爆の体験者として話せる最後の世代だし、メッセージを残す務めがあると思いました。
(同上)
「韓国といえば、昨年の北朝鮮からの砲撃にはびっくりしたね」
「昨年の広島平和記念式典には、韓国人の潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が、総長として初めて参加されたんじゃ」
同じ民族が大国の思惑(おもわく)で引き裂かれ、いがみ合う。
北朝鮮は核開発をやめるべきです。
それには大国が核を捨てないと説得力に欠ける。
人間は、殺し合いではなく幸せに向かって切磋琢磨(せっさたくま)するべきですよ。
(同上)
↓原爆についての関連記事は、こちら↓
原爆をテーマにした漫画「星はみている」の原画が公開されるのはどこ?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100106
『はだしのゲン』の原画を原爆資料館に寄贈した漫画家は誰?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20091225
那須正幹って人、知ってるかい?(原爆の話)
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20091122
「今日は、「右手のやけど」「在日韓国人」「被爆」「平和へ」について勉強をさせてもらいました」
「今日もひとつ勉強になったでがんす。ほいじゃあ、またの」
「あっぱれ! 喝(かつ)!!」
「それしかないんかいね…。申し訳ないけど、うちは張本さんが広島の出身いうのは知らんかったんよ」
「わしも、つい最近まで知らんかったんじゃ」
張本勲さん(70)は韓国名を張勲(チャン フン)という。
広島市生まれの在日2世であり、被爆者でもある。
いわれなき民族差別や放射能後障害の不安と闘い、首位打者7回、通算3085安打などのプロ野球記録を打ち立てた。
古里広島への愛着は深く、核兵器の廃絶と分断が続く朝鮮半島の平和を願う思いは強い。
(『人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~』中国新聞 2011年1月4日)
「今日は、「右手のやけど」「在日韓国人」「被爆」「平和へ」について調べてみようかの」
【右手のやけど】
「張本さんは1940(昭和15)年6月、大洲町(おおずまち。現・広島市南区大州)で生まれたんよ。ほいで、4歳のとき右手に大やけどを負われて、薬指と小指がくっついてしもうたんじゃと」
「ありゃ、まあ」
「野球は小学5年生から始め、段原(だんばら)中学校ではエースで4番として活躍し、県大会で優勝されたそうじゃ」
右手は手術しても指の自由が利かずボールを遠くに投げられない。
壁に向かって練習し、完全に左投げ左打ちにした。
(同上)
「すごいね。やけどした手で、3000本ものヒットを打っとられるんじゃもんね」
「もちろん、陰では並大抵でない努力をされとったんじゃ」
右手のハンディはプロでは致命的です。
ゲームが終わってもバットを振らないと気がすまない。
プロ生活23年間、引退の前日まで振り続けましたね。
(同上)
「右手のやけどのことは今まで聞いたことがなかったんじゃけど、何でかね?」
プロ入り後、ある日母親と談笑している時に「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟(つぶや)いた所、母親が号泣してしまった。
まずいことを言ってしまったと反省した張本は、以降、その右手を誰の目にも晒(さら)さなくなった。
唯一、打撃人として最も尊敬する川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたことがある。
その時川上は「よくもそんな手で」と涙を流しながら絶句していたという。
(『張本勲』ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%9C%AC%E5%8B%B2
【在日韓国人】
「右手のやけどは、トラックにはねられたときのものなんじゃそうな」
運転手は逃げ、みかねた叔父さんが警察へ訴えたが「朝鮮人じゃないか」と追い返されたそうです。
(『人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~』中国新聞 2011年1月4日)
「差別があったんじゃね」
「まだ、日本が韓国を植民地にしとった時代じゃけぇの」
「『はだしのゲン』にも、朴(ぼく)さんという人が差別される話が出てきとったよね」
「張本は中学卒業後、松本商業高校(現・瀬戸内高校)から、大阪の浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高校)へ転校されたそうじゃ」
3年生のときチームは夏の甲子園へ出場をしたが、その前に起きた不祥事(ふしょうじ)の責任を私は押しつけられ、休部が続いていた。
野球部長が韓国人を嫌った。
差別だと思った。
正直荒れました。
(同上)
「そりゃ、荒れるわいね。でも、どうやって立ち直っちゃったんかね?」
その1958(昭和33)年夏です。
韓国を初めて訪れた。
在日高校生選抜チームの4番としてソウルに降り立ち、「アリラン」「トラジ」の演奏で出迎えられた。
胸がきゅーんとなりました。
おふくろの生まれた国だ、俺は韓国人なんだと認識しました。
私にとって韓国は生みの親、日本は育ての親です。
そして生粋(きっすい)の広島県人だと思っています。
(同上)
【被爆】
「1940(昭和15)年の生まれじゃけぇ、5歳で被爆されとってんじゃね」
原爆は段原新町(だんばらしんまち。現・南区段原。爆心地から約2.3キロ)の長屋で遭(あ)いました。
ピカーッと光りドーンとものすごい音がして気がつくと、おふくろが私の3つ上の姉さんに覆(おお)いかぶさり、背中はガラス片で血まみれ。
「逃げろ」と朝鮮語で言われ、ブドウ畑へ走った。
人のうめき声、異様な臭いは65年たってもはっきり覚えています。
(同上)
「上のお姉さんは、広島市中区の鶴見町(つるみちょう)あたりで被爆されて亡くなられたそうじゃ」
「鶴見町は比治山(ひじやま。爆心地から約2キロ)の西側にあって、段原新町は比治山の東側にあるんよ。ほいで、爆心地は比治山の西側にあるんよね」
「張本さんは、比治山の陰におったんで助かったということじゃ」
「被爆者手帳は持っとってんかね?」
「1966(昭和41)年に取得されたそうじゃ。「安打製造器」として、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)として活躍されとったころじゃ」
手帳を兄貴に勧(すす)められ取った。
原爆症はいつ出るか分からない。
シーズン中は必死ですから気にしなかったがオフの健診は嫌でした。
ひょっとしたら…その恐怖心は今も頭をよぎります。
私ら被爆者は「終戦」になっていないと思いますよ。
(同上)
「プロ野球で被爆者健康手帳を交付されたのは、張本さんと濃人渉(のうにん わたる。1915年、広島市生まれ)さんの2人だけじゃそうな」
【平和へ】
「張本さんが、自身が被爆者であることを話すようになったのは、65歳のころからじゃそうな」
「5年くらい前のことじゃね」
若い人がテレビで「戦争は知らない、関係ない」と答えているのを見て、とんでもないと腹が立ちましたね。
原爆で多くの人が犠牲になったことを忘れてはいけません。
原爆の体験者として話せる最後の世代だし、メッセージを残す務めがあると思いました。
(同上)
「韓国といえば、昨年の北朝鮮からの砲撃にはびっくりしたね」
「昨年の広島平和記念式典には、韓国人の潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が、総長として初めて参加されたんじゃ」
同じ民族が大国の思惑(おもわく)で引き裂かれ、いがみ合う。
北朝鮮は核開発をやめるべきです。
それには大国が核を捨てないと説得力に欠ける。
人間は、殺し合いではなく幸せに向かって切磋琢磨(せっさたくま)するべきですよ。
(同上)
↓原爆についての関連記事は、こちら↓
原爆をテーマにした漫画「星はみている」の原画が公開されるのはどこ?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100106
『はだしのゲン』の原画を原爆資料館に寄贈した漫画家は誰?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20091225
那須正幹って人、知ってるかい?(原爆の話)
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20091122
「今日は、「右手のやけど」「在日韓国人」「被爆」「平和へ」について勉強をさせてもらいました」
「今日もひとつ勉強になったでがんす。ほいじゃあ、またの」
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