通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

戦争やったらあかん 喜味こいし

2011年01月26日 | 日記
「1月23日(日)に、漫才のいとし・こいしの喜味(きみ)こいしさんが亡くなられたのう」

「お兄さんの夢路(ゆめじ)いとしさんも、2003(平成15)年に亡くなっとってんじゃね」

「で、昨日の中国新聞の「天風録」を読んどったら、こんなことが書いてあったんじゃ」



広島城近くにあった陸軍の兵舎で被爆したこいしさん。
はりの下敷きになって助けられた体験を晩年になって語り始めた。
「戦争は絶対にせんといてほしい。地球をいじめるようなことはせんといてほしい」。
助かった者の使命、と心に決めていたのだろうか。

(中国新聞 2011年1月25日)
http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201101250091.html




「ありゃ、広島で被爆されとってんじゃね」

「知らんかったのう。広島城といえば、爆心地からの距離が約1キロメートルじゃ」

「無事に生きて帰っちゃったんじゃね」



「今日は、「被爆の様子」「体験を語る」「中国軍管区司令部」について調べてみようかの」





【被爆の様子】

「こいしさんは、志願兵として入隊されたんじゃね」



こいしさんは、18歳のときに二等兵として広島に配属されました。
8月6日、こいしさんが上等兵と朝食をとっていたときのことでした。
「ピカッ」。
空が光り、本能的に茶わんを放り出して逃げようとしました。

「それから3、4秒だったでしょうか。音とともに兵舎の下敷きになり、気絶。黒い雨の冷たさで目が覚めました」

運ばれた川の土手で最初に助けられたのは兵隊だったといいます。
一般市民はたくさん亡くなりました。
こいしさんが、のどの渇きを癒やそうと川まで下りると、川は死体でいっぱい。
とても飲めませんでした。

「衛生兵からもらった冷凍みかんを食べたときのおいしさは忘れられません」

こいしさんが大阪に帰る汽車を待っていたとき、足の無い軍人がいいました。
「たばこ吸うか」

「苦しいときに人の情けがわかった」と話すこいしさん。
「ごめんなさいね。この話をすると当時を思い出してしまうんです」と声をつまらせました。

(「漫才師 喜味こいしさん初めて発言 原水爆禁止世界大会」しんぶん赤旗 2004年8月7日)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-08-07/14_02.html




「冷凍みかんって、戦時中にもあったんじゃね」

「つらい、苦しいときじゃけぇ、人の情けが余計にありがたかったんじゃろうの」

「あの時代じゃったら、自分のことしか考えられんじゃろうけぇね」





【体験を語る】

「「被爆の語り部」いうて、自分の被爆体験を語っての人がおってじゃね」

「わしの親父は、原爆については、なーんにも話してくれんのじゃ。さっき、こいしさんが言われとったが「当時を思い出してしまう」けぇ、つらいんじゃろう」

「うちのお母ちゃんも、小学校の校長先生に「子どもたちに、原爆のことを話してもらえませんか」と頼まれたんじゃけど、断ったんよね」



戦後、被爆体験を語ることのなかったこいしさん。
2000年から取材した中国放送の三村千鶴プロデューサー(48)は当初、マネージャーから「笑いを取る仕事。被爆体験を語る活動はしたくない」と断られたが、粘り強く説得。
重い口を開いたこいしさんの証言が手掛かりとなり、ともに被爆した戦友が宇部市にいると分かった。
再会などの様子をラジオのドキュメンタリー番組で放送した。

いつもの軽妙な口は、あの日のことになると消えた。
とつとつと、多くは語らなかった。
「亡くなりはった人がぎょうさんいてんのに、死んだ人に悪うてな」
「なぜ自分が生きているのか。恥ずかしい…」

2000(平成12)年と2004(平成16)年の夏。
こいしさんは自身が救護を受けた似島(にのしま)へ渡り三村さんの取材を受ける予定だった。
広島港で似島を目の前にすると、しばし涙を流し、手を合わせた。
島での取材は2回とも取りやめになった。

49歳の時、ぼうこうがんを患ったが、被爆者健康手帳は取得しなかった。
三村さんが理由を尋ねても「ええがな」と笑い流した。

「忍び寄る恐怖はあったと思う。それをみじんも感じさせなかった」と三村さん。
「戦争はやったらあかんなあ。二度と」。
こいしさんの口癖が今も耳に残るという。

(「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」中国新聞 2011年1月26日)




広島港から見た似島


「こいしさんが似島に渡れんかったいうのは、ようわかるのう。わしの親父も、5年くらい前まで、平和公園へ行くことができんかったんじゃけぇ」

「娘さんと原爆資料館へ行かれたときも、こいしさんは中に入られんかったんじゃと」

「それだけ、体だけじゃのうて、心に負った傷も深かったんじゃろうの」





【中国軍管区司令部】

「今までにも話したことがあるんじゃが、明治から戦前までの広島市は軍都じゃったんよ。広島城周辺だけでも、北側に広島陸軍幼年学校、南側には西練兵場。東側には歩兵第11連隊、西側には野砲兵第5連隊など、たくさんの軍事施設があったんじゃ」

「こいしさんは、中国軍管区教育隊におった言うちゃったよね」

「広島城の中、今の広島護国神社があるあたりに、中国軍管区司令部(旧・第五師団)があったんじゃ」

「広島に原爆が落とされたと第一報を知らせたのが人がおっちゃったのが、ここじゃったよね」

「司令部の地下通信室があって、そこから発信されたんじゃ」

「護国神社は、そのころはどこにあったん?」

「旧広島市民球場の西側、青少年センターがあるあたりじゃの」

「それじゃ、跡形もなくなったんじゃろうね」

「ところが大鳥居は残っとったんよ。今は、中国放送(RCC)の南側、広島城裏御門に移されとるんじゃ」

「ああ、あの鳥居がそうなんじゃね」





↓原爆についての関連記事は、こちら↓

張本勲 幸せへ切磋琢磨を
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20110105

原爆による広島城の崩壊の状況について、開催されている企画展の名称は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100727

「広島に新型爆弾(原爆)が投下された」との第一報を発信したのはどこ?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100222






「今日は、「被爆の様子」「体験を語る」「中国軍管区司令部」について勉強をさせてもらいました」

「今日もひとつ勉強になったでがんす」

「喜味こいしさんのご冥福をお祈りいたします」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
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