通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

未知に挑む―南極観測展

2011年01月06日 | 広島の話題
「今日は小寒(しょうかん)じゃね」

「おう、寒の入りじゃ。1年で寒さが一番厳しい時期になるのう」

「まだ年賀状を書いとる人は、今日から「寒中見舞い」と書かんにゃいけんのよ」

「ところで、2011年はいろんな出来事があるんじゃが、そのひとつに、南極の観測を始めて55周年というのがあるんじゃ」

「ありゃまぁ、もっと長いことやっとってんかと思うたよ」

「人類初が初めて南極点に到達したのは誰か、知っとるかいの?」

「えーと、アムンセン(ノルウェー)じゃろ」

「アムンセンが南極点に到達したのが1911年12月14日じゃけぇ、ちょうど100年前になるんじゃの」

「そういや、同じころに日本の白瀬(しらせ)いう人も南極点を目指しとっちゃったよね?」

「おお、よう知っとるのう。白瀬隊は途中で南極点到達をあきらめて、到達できた場所を「大和雪原」と名付けて帰国されたんじゃ」

「イギリスのスコット隊は、南極点に到達したあとに遭難しちゃったね」

「結局、全員死んでしもうたんじゃ。当時、白瀬は「負け犬」といわれたらしいんじゃが、「引き返す勇気」があったと評価されとるんよ」





1956(昭和31)年11月8日、第1次南極観測船「宗谷」は日本中の大人と子どもの大きな夢と希望を乗せて出航しました。
未知に挑んだ第1次南極観測隊と越冬隊の壮挙は、忘れていた何かを思い出させ、私たちの胸に熱く迫るものがあります。
また、南極大陸は、人類が理想としている唯一の「国境のない世界」で、南極条約の下、国際協力による観測が進められています。

本展では、未知に挑んだ第1次南極観測から、半世紀にわたる南極観測により解明された地球の謎などについて、説明パネルや南極関連図書とともに、南極の氷、隕石、岩石などの展示により紹介します。
あわせて防寒服の試着やペンギンとのふれあいなども企画しています。

この冬は図書館で南極を熱く語ってみましょう。

(「企画展「未知に挑む―南極観測展」中央図書館」広島市立図書館)
http://www.library.city.hiroshima.jp/news/2010/12/14000543.html









「図書館でこんな企画をやってんじゃね」

「土日と祝日は南極の氷に触ることもできるし、1月30日(日)には宮島水族館からペンギンが来るそうじゃ」

「こりゃ、行ってみんにゃいけんね」





「今日は、「国際地球観測年」「南極観測船「宗谷」」「昭和基地」について調べてみようかの」





【国際地球観測年】

「南極と北極って、どっちが寒いんかね?」

「どっちじゃと思う?」

「うーん、南極!?」

「ピンポン。正解!」





南極のほうが、平均20℃くらい寒い。地球上で測定された一番低い気温はマイナス89.2℃で、南極のボストーク基地で記録されている。

(「南極と北極の気温比較」国立極地研究所)
http://www.nipr.ac.jp/school/tairiku/03.html






「ええーっ!! マイナス89.2℃って、どんな寒さなんかね?」

「わしも分からんが、むかしテレビのコマーシャルで『零下20度になると、バナナでクギが打てます』というのがあったよのう」

「なんで、南極へ行こうと思われたんかね?」

「1957(昭和32)年~1958(昭和33)年にかけて、「国際地球観測年(IGY)」というのがあったんじゃ。東京大学の永田教授のもとに、IGYへ参加しませんかという手紙が届いたんよ」

「もちろん、参加することにしたんよね?」





日本はこれに参加し、国際的地位を認めてもらおうと考えた。当初、赤道観測を行う予定であったが、観測予定地の領有権を持つアメリカは、自国で観測を行うという理由で丁重にこれを断った。

そこで日本は南極観測を行うことにした。

(「国際地球観測年」ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%9C%B0%E7%90%83%E8%A6%B3%E6%B8%AC%E5%B9%B4





【南極観測船「宗谷」】

「日本が南極観測に参加することに決めたのが、1955(昭和30)年の2月じゃったんよ」

「ちょっと待って。1956(昭和31)年11月には南極に向けて出航されたんじゃろ? ということは、準備期間が2年もなかったんじゃね」

「それをやってしまうところが、日本人のすごいところじゃ」

「お金はどうしちゃったんかね?」

「新聞社からの支援や、国民からの寄付があったそうじゃ」





そこに舞い込んだのが、「南極観測に日本も参加できるなら社の全力を挙げて応援する」という朝日新聞社の申し出だった。
朝日新聞社の編集局長、広岡知男、48歳。30代で社説を任され、名物記者として知られていた男が、ある日、永田を呼んで言った。
「日本人の気持ちは、敗戦で萎縮(いしゅく)してしまっている。日本は南極に行くべきだ」

(「プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦『宗谷』発進・第一次南極観測隊/日本人が一つになった880日」でじじ)
http://www.digigi.jp/bin/showprod?c=2041015833199






「白瀬隊が南極探検を行ったのも、朝日新聞社の後援によるものじゃったそうな。そのほかにも、一般の企業から観測機器などの無償開発や寄付があったんじゃ」

「お金がなんとかなったら、あとは南極まで行く船がいるよね。船って1年くらいで造れるもんなん?」

「期間的にも、予算的にも無理じゃったんよ。ほいで、今ある船を改造することにしたんじゃ」

「ということは、宗谷って南極観測船として造られたんじゃなかったいういこと?」

「ほうなんじゃ。実はこの船、1938年(昭和13年)にソ連から発注を受けて造られた船なんよ。太平洋戦争に参加した後、引楊船や灯台補給船として使われとったんじゃ」

「うわ、そりゃすごい経歴の船なんじゃね」

「もともとソ連向けの船じゃったけぇ、砕氷能力はあったんじゃろうの。7カ月かけて大幅に船体の補強をして、耐氷能力を向上させたんじゃ」

「ふぅん…」

「第1次観測隊を乗せた宗谷は、1956(昭和31)年11月8日に晴海(はるみ)ふ頭を出発して、1957(昭和32)年1月24日に南極大陸に接岸したんじゃ」





↓宗谷については、こちら↓

「南極観測船「宗谷」」船の科学館
http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/soya.html






【昭和基地】

「それから昭和基地が造られたんじゃね」

「今では、みずほ基地、あすか基地、ドームふじ基地と、全部で4つの基地があるんじゃ」

「へぇ、基地が4つもあるんじゃ」

「南極に着いた第1次観測隊員のうち西堀栄三郎(にしぼり えいざぶろう)副隊長ら11人が越冬、つまり冬を越したんじゃの。一方、日本に帰る途中の宗谷は、分厚い氷に閉じ込められて、旧ソ連のオビ号に救出されとるんじゃ」

「そういや、タロとジロの話はいつのことなんかいね?」

「第2次観測隊は氷に阻まれて、南極への接岸を断念したんじゃ。で、第1次隊越冬隊の全隊員を、飛行機とヘリコプターで助け出したんよ。ところが、15頭の犬が置き去りにされてしもうたんじゃ」

「で、次の年に助けに行ったんよね」

「1959(昭和34)年の1月14日、第3次観測隊が昭和基地に到着し、タロとジロの2頭の生存を確認したんよ。ここから、1月14日が「タロとジロの日」になったんじゃ」

「うちゃ、映画『南極物語』(1983年)で見たよ」

「キャッチコピーが、『どうして見捨てたのですか なぜ犬たちを連れて帰ってくれなかったのですか』じゃったのう」

「ところで、日本人が南極点へ到達したのは、いつなんかね?」

「1968(昭和43)年のことなんじゃ。9月28日に昭和基地を出発して、12月19日に南極点に着いた。走破した距離、およそ2500キロメートル!」

「すごいね」

「雪上車を使って、気象や地形、氷の厚さ、地磁気などの観測も同時に行われたんじゃ」





↓昭和基地については、こちら↓

「昭和基地」国立極地研究所
http://www.nipr.ac.jp/school/kiti/01.html

「昭和基地NOW!!」国立極地研究所
http://www.nipr.ac.jp/jare/now/index.html






「今日は、「国際地球観測年」「南極観測船「宗谷」」「昭和基地」について勉強をさせてもらいました」





「今日もひとつ勉強になったでがんす。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする