通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

うさぎ年生まれの人物~お江編

2011年01月09日 | まんが・テレビ・映画
「今日から、NHK大河ドラマ「江(ごう)」が始まるね」

「ほうじゃのう。本屋に行ったら「江」関係の本が、ぶちようけ出とったで」

「ほんまじゃね」





淀(よど)・初(はつ)、そして江。

信長の妹・市(いち)を母とし、日本史上最も有名な三姉妹(浅井三姉妹)の末っ子に生まれた江は、徳川2代将軍・秀忠(ひでただ)の正室となり、娘は天皇家に嫁ぎ、息子は第3代将軍となります。

しかし、そこにたどりつくまでの江の人生は、波乱と苦難の連続でした。2度の落城により父と母を失った江は、時の権力者たちに人生を翻弄(ほんろう)され、3度の結婚を重ねます。さらには、姉・淀と敵味方に分かれて天下を争うことに──。

戦国の世の苦しみを知りぬいた江は、天下太平を願い、江戸城に大奥をつくりあげます。それは、以後二百数十年にも及ぶ、平和と繁栄の時代を築く礎となったのです…。

「大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」」NHK
http://www9.nhk.or.jp/go/top.html






「余談じゃが、「浅井」と書いて「あざい」と読むそうじゃ」

「で、今回は何をしらべるん? 江は広島とは関係ないじゃろ?」

「うさぎ年生まれで調べてみたら、江に関係ある人がうさぎ年生まれじゃったんよ」

「江がうさぎ年生まれなん?」

「いんにゃ。江は天正元年(1573年)の癸酉(みずのととり)生まれなんじゃ」

「ほいじゃあ、誰?」

「茶々(ちゃちゃ。淀)、徳川秀忠(ひでただ)、春日局(かすがのつぼね)の3人じゃ。今日はうさぎ年生まれの3人について調べてみようかの」





【茶々】

「茶々(ちゃちゃ。淀)いうたら三姉妹の長女、宮沢りえちゃんじゃね」

「茶々は、永禄10(1567)年の丁卯(ひのとう)生まれ。戦国大名・浅井長政(ながまさ)と市(いち)の間に生まれたんじゃ。もっとも最近では、永禄12(1569)年に生まれたとされる説が有力になっとるそうじゃがの」

「この人は、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の側室になっちゃったんよね」

「秀吉は子宝に恵まれとらんかったんで、茶々が懐妊(かいにん)したときは大喜びしたんじゃ。この時に、茶々は秀吉から山城国の淀城を賜(たまわ)ったんで「淀(淀殿、淀の方)」と呼ばれるようになったんよ。茶々は秀吉の子を産むことで、ほかの側室たちより抜きん出ることができたわけじゃ」

「なんで茶々は、秀吉の側室になったかね?」

「茶々の父・長政は、織田信長(おだ のぶなが)に小谷(おだに)攻めで敗れ、母の市は、再婚相手の柴田勝家(しばた かついえ)が賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れたため自害することになったんじゃ。そのどちらにもかかわっとるのが、秀吉」

「文字通り、「親の仇」じゃん」

「女性は、子どもを産み、血を残すことができるじゃろ。秀吉の子を産むことで浅井の血を残すことができると、茶々は考えたんじゃないんかの」





【徳川秀忠】

「秀忠(ひでただ)は第2代将軍、向井理(むかい おさむ)さんじゃ。また「お父ちゃん」に会えるんじゃね」

「まだ『ゲゲゲの女房』を引きずっとるんかいの。江は誰と結婚したか、知っとる?」

「秀忠の正室になったんじゃろ?」

「江が最初に嫁(とつ)いだのが、佐治一成(さじ かずなり)という武将。2番目が秀吉の甥(おい)で養子の豊臣秀勝(ひでかつ)。ほいで、3人目が秀忠なんじゃ。秀忠自身も再婚じゃったそうな」

「へぇ、そうなんじゃ」

「結婚したのは文禄4(1595)年9月で、江が23歳、秀忠は17歳の時じゃ。その秀忠が、天正7(1579)年の己卯(つちのとう)の生まれなんよ。言うまでもないが、徳川家康の三男じゃ」

「子どもは何人おっちゃったんかね?」

「7人で、2男5女。ちなみに、長女の千姫(せんひめ)は7歳の時に、秀吉の次男・秀頼(ひでより)と結婚しとるんじゃ」

「千姫は江が産んだ子で、秀頼は茶々が産んだ子よね。ということは、2人は従兄妹になるんじゃね」

「ほうじゃの。仲睦(なかむつ)まじい夫婦じゃったそうな。ちょっとややこしい話をすると、茶々と江の母親の市は、織田信長の妹になるんよ。ほいじゃけぇ、秀吉の血を継ぐ秀頼と、家康の血を継ぐ千姫の間に子ができとったら、信長・秀吉・家康の血を継いだ子ということになっとったんじゃ」

「秀忠いうたら、武家諸法度(ぶけしょはっと)や公家諸法度(くげしょはっと)なんかを作っとってよね」

「広島関連でいうと、安芸広島城主じゃった福島正則(ふくしま まさのり)が信濃国川中島(現・長野県)に改易(かいえき)させられたのも、秀忠のときなんじゃ」

「どういう理由で?」

「広島城を幕府に無断で修理したことが、武家諸法度に違反したと咎(とが)められたんじゃ。関ヶ原の合戦は東軍について先陣も務めたりしたんじゃが、もともとは秀吉の家来じゃけぇの。そのへんの事情もあるんじゃないんかの」





【春日局】

「春日局は、明智光秀(あけち みつひで)の家臣・斎藤利三(さいとう としみつ)の子で、秀忠と同じ天正7(1579)年の己卯(つちのとう)の生まれなんじゃ。本名は斎藤福(ふく)で、「春日局」は朝廷から賜った称号じゃそうな」

「あぁ、そういういわれがあるんじゃね」

「春日局は乳母として徳川家に入ったんよ。で、育てたのが秀忠の長男・竹千代。後の第3代将軍・徳川家光(いえみつ)じゃ」

「うちが見た昼の再放送のドラマじゃ、春日局は将軍の後継者争いで対立しとったはずなんじゃけど…」

「そのとおり。江と春日局が対立しとったんよ。江がかわいがったのが、次男の国松(後の忠長(ただなが))なんじゃ」

「長男が跡継ぎになるんじゃないんかいね?」

「それをいうと、秀忠自身も家康(いえやす)の三男じゃったんよ。長男の信康(のぶやす)が自害させられ、次男の秀康(ひでやす)は養子に出されとった、という事情もあるじゃろうがの」

「それじゃあ、春日局も心中おだやかじゃなかったんじゃね」

「春日局は家康に、竹千代を秀忠の跡継ぎに決めて欲しい、と嘆願(たんがん)したそうじゃ」

「そこまでされたんじゃね…」

「ほいで、駿府(すんぷ。現在の静岡県)に隠居していた家康が江戸城にやってきて、「竹千代を世継ぎとせよ。国松は成人すれば竹千代の家来にせよ」と秀忠に命じたそうじゃ」





ちなみに、近年では江与との対立は春日局の一方的なものであり、江与に対抗意識を燃やして家康に訴えた事、そのために駿府まで走っていった事は江戸時代の創作であると考えるのが通説である。

(「春日局」ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80






「というわけで、今日ははうさぎ年生まれの「「茶々」「徳川秀忠」「春日局」について勉強をさせてもらいました」

「今日もひとつ勉強になったでがんす」

「予告編で見る「江」は、うちゃには「のだめ」に見えてしょうがないんよね。千秋さんは出てこんのかね?」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする