彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

桶狭間古戦場訪問7 巻山(井伊直盛の動向を考える)

2016年05月19日 | 井伊家千年紀
トップの写真は、浜松市北区引佐町龍潭寺の井伊直盛の像です。

5月19日は桶狭間の戦い当日。
桶狭間の戦いについては以前に書いていますので(今の考察とは多少違うところがありかすが)、下記のアドレスを参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/2beb5195b93daac8f408497b3a4ae9f9
彦根市民として、井伊家の歴史を調べるとき桶狭間の戦いも重要なポイントになると思っています。この戦いで当主直盛を失った井伊家は、この後に養子・直親の暗殺、直平の死を経て女地頭井伊直虎そして徳川四天王井伊直政へと続いてゆきます。
この繋がりは、たぶん直盛がここで亡くならなければ起る可能性は低く、場合によっては今川家滅亡と共に井伊家も無くなるか小さな領主にしかなれなかった可能性もあったのです
当時の井伊家にとっては不幸でしたが、のちの井伊家にとっては大きな分岐点の一つであった桶狭間の戦いで井伊直盛がどのように動いたのかは大きな疑問であり、今回の桶狭間古戦場訪問はそれを調べるのが目的でした。

歴史を見てみると、
永禄3年(1560)5月
11日、井伊直盛らが井伊谷を出発し先発隊として西へ軍を進める
12日、今川義元、駿府から出陣
15日、先発隊、池鯉鮒(知立)到着
17日、先発隊、鳴海城・大高城辺りにて戦う(直盛は朝比奈泰朝と鷲津砦攻め)
18日、義元本隊、沓掛城到着、直盛・松平元康が呼び戻される
同日夜、元康大高城へ兵糧を入れる
19日、桶狭間の戦い
…となります。
井伊直盛は先発として出陣し、鷲津砦攻略のために戦っている途中で本体に合流して桶狭間の戦いで義元と共に亡くなったのでした。
『井伊家伝記』によれば、奥山孫市郎に遺言を残し、介錯させて切腹したとのことで、孫市郎が遺体を井伊谷まで持ち帰っています。

では、直盛は戦い当日にどこに居たのか?
豊明市の古戦場でガイドさんに訊ねたときは「わからない」とのお返事でした。
名古屋市緑区の古戦場公園には戦いの進路予想図をモニュメントにしておいてありました

これによると、おけはざま山から田楽坪を挟んだ向かいにある巻山を井伊軍陣としています

あの辺りの小山かな?

近くの長福寺の御住職に訊ねますと桶狭間小学校の辺りではないか…とのことでした。

桶狭間小学校の辺りは、確かに小山になっていてここが戦場とするならばなにがしかの陣が置かれても不思議ではない場所でした。


桶狭間の戦いでは、当主井伊直盛を始め、直親に仕えていた小野玄蕃や奥山一族、上野一族などの親戚を含めて主だった家臣16名が討死したと言われています。
・井伊直盛の墓(以下、墓は龍潭寺)

・小野玄蕃の墓

・桶狭間戦死者の墓

このような大きな悲しみがあった翌年、井伊家を救う直政が産声をあげたのです。

余談ですが、2016年5月19日、井伊谷の龍潭寺において井伊直盛公の法要が営まれ井伊直虎市民応援隊からも隊長(『どんつき瓦版』編集長)が参列。


所在地
 ・名古屋市緑区桶狭間
 ・浜松市北区引佐町 龍潭寺
コメント
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