彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

紫式部の見た近江(5)

2024年08月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 長徳2年(996)、紫式部は父・藤原為時の越前守任官を受けて越前まで同行したが紫式部のみが翌年に都に戻っている。この理由について定説では紫式部が藤原宣孝の求婚を受け入れたためであるとされている。しかし、地方に下向すればその任期である4年は戻れないことは事前に知られていることであり、それを覚悟して越前に向かった筈の紫式部がどの段階で宣孝に求婚され、父親よりも歳上の男性の妻ではなく妾になる道を選んだのかもわからないが、史実として紫式部は家族とわかれて帰路についた。

 これまで記してきた通り、往路では打出浜から湖西沿いに琵琶湖を北上したと考えられている。そして帰路は湖東沿いではないか? との説になっている、その説を押すのが「磯の歌」と「老津島の歌」であり、米原市や近江八幡市(もしくは野洲市)を通ったとも言われているのだ、そして確実に帰路の歌とされている唯一の和歌もこの考えを後押ししている。その和歌は「水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを」との詞書がある。この一文から紫式部が湖上で伊吹山が雪で白くなっている様子を見ていたことがわかり、帰路は冬に琵琶湖を渡ったことも証明されていて、湖東経由で伊吹山を見たのだろうと予想されているのだ。そんな伊吹山を見て

 名に高き 越の白山 ゆき馴れて 伊吹の岳を なにとこそ見ね

 との和歌を記した。「天下に知られた越前から望む白山の雪を見慣れてしまうと、伊吹山の雪景色はそれほどのことはない」と訳せばいいのか、伊吹山の雪景色の美しさを知る私たちにとっては紫式部に宣戦布告されたような気持ちにもなる。結婚のために帰京する道中だからこそ高揚した気分で美しい景色すら目に入らなかったのかもしれない。などの解釈ができる。同時に白山の雪景色を知っているために越前で冬を過ごしたあとの和歌であることも証明される紫式部が帰路に琵琶湖上で読んだ和歌と特定できることも貴重なのだ。
 しかし、この和歌が詠まれたことと紫式部が湖東航路を通過したとこは同じ土俵では語れない。伊吹山の雪景色は湖西からも望め、塩津港から湖東経由で都に向かうと考えると朝妻港や沖島辺りを通らねばならず、遠回りである。物見遊山ではない旅なのだ。また湖西からの伊吹山は少し遠くに感じてしまうために白山より見劣りしたことも認めざるを得ない面もある。一部研究者のなかでは、紫式部は帰路も湖西を南下したのではないだろうか? との考えもあり、残念ながら私もその説を推している。

 こうして紫式部の琵琶湖を渡る旅は終わった。『源氏物語』にはこれを活かすかのように近江の景色が登場する場面もある。物語に触れながら平安時代の近江に出会ってみてはいかがだろうか。


高島市から見た伊吹山(2024年8月 撮影)
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