彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

紫式部の見た近江(2)

2024年05月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
『紫式部集』に残された和歌のうちで大きな議論を交わされるものが何首か存在する。前稿で紹介した三尾が崎の次に記されている和歌も激しく論争される一首である。「又、磯の浜に、鶴の声々鳴くを」との詞書と

 磯がくれ おなじ心に 鶴(たづ)ぞ鳴く なに(汝が)思ひ出づる 人や誰ぞも

「磯の浜で私の心と同じような気持ちで鶴が(次々に)鳴いている。お前たちは誰を思い出して鳴いているのだろう」との解釈になるであろうか。
 滋賀県民が磯と聞けば米原市と彦根市の市境付近にある地名が頭を過る。しかし紫式部が越前に向かうために湖西に近い航路を使って近江を旅し、季節は夏であることは確定していると考えられているため、現在の高島市と大津市の市境付近にある三尾から、米原市の磯まで船が琵琶湖を横切ったことは不自然である。また鶴が詠まれるのは冬に多いため、磯の歌は往路ではなく帰路に詠まれたものではないか? とも言われている。しかしこの和歌は三尾が崎で「都恋しも」と詠んだ寂しさをより深くするように都で出会った人を思い出してそっと涙する様子を鶴の鳴き声に重ねていて、京に向かっている帰路よりは京から離れる往路にこそ味わい深いのではないだろうか? 磯という言葉は特定の地名ではなく磯という漠然とした雰囲気で使われた可能性は否めない、鶴と冬との季節の関りについては今後の課題にしたい。
 続いては「夕立しぬべしとて、空の曇りて、ひらめくに」と、夕立が起りそうで空が曇り稲妻が光る様子を伝え、

 かき曇り 夕立つ浪の 荒ければ 浮きたる舟ぞ 静心なき

「空が曇ってきて、夕立になるとのことで波が荒くなってきた。浮いている舟は(激しく)揺れて心穏やかではいられない」と解釈するならば紫式部たちは舟に乗って湖上を進んでいるときに夕立に遭った様子が浮かんでくる。当時の舟は小さく安定感は悪かった。小さい舟だということは体感するスピードも牛車になれた平安貴族には驚きしかなかったのでないだろうか? また風の影響も考慮しなければならない。この和歌に「夕立」という言葉が含まれているため前述したように紫式部たちが越前に向かった季節が夏であると確定されているのである。琵琶湖の状態を考えても冬に湖上を渡るより夏のほうが湖面も穏やかであった。しかし突然の豪雨と強風そして稲妻が襲い、逃げる場所のない湖の上でひたすら神仏に願うしかなかったであろう。一行がどのあたりで夕立に遭ったのかを詳しく知ることはできないが、この日の内に竹生島を眺め塩津港まで上陸したと考えられている。紫式部の琵琶湖横断は期待感よりも哀愁と恐怖が強かったのかもしれない。


塩津港遺跡(2015年12月 撮影)
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