彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:弥千代離縁(4月9日)

2013年04月09日 | 何の日?
文久3年(1863)4月9日、井伊直弼の次女弥千代が、離縁されて高松藩から彦根藩の藩邸に戻りました。

井伊直弼が大老に就任する2日前の安政5年(1858)4月21日に婚礼を行い、高松藩世子・松平頼聡に嫁いだ弥千代は、当時では珍しい恋愛結婚だったこともあり、12歳の年の差を超えて幸福な結婚生活を送っていました。
しかし、桜田門外の変が起こり弥千代の実家である彦根藩の立場が悪くなり、文久2年には彦根の中での政変が起こって、直弼に近かった宇津木六之丞や長野主膳そして桜田門外の生き残りなどが処刑されてしまったのです。それでも幕府は彦根藩に十万石減封との処分を下しました。

高松藩重臣・松崎渋右衛門はこの事態を受けて頼聡に「これから朝廷と友好を結ぼうとするなら奥方様の存在ははばかられます」と詰め寄ります。
頼聡は「自分は大老のした事も正しいと思う、ましてや夫婦の絆を切る事は人倫に劣る、離縁はしない」と言い返したのですが、ついには渋右衛門に押し切られる形で離縁せざるを得なくなったのです。

弥千代は静かにこれに従って彦根藩邸に戻ったのでした。

明治2年になり松崎渋右衛門は高松藩士たち14名に「お若く仲睦まじい夫婦を、まるで生木を裂くように離縁させ、己は水戸藩より褒美を受けて私服を肥やした」との理由で暗殺されます。
そして明治5年には頼聡がもう一度弥千代を妻に迎えるのです。