彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:清河八郎暗殺事件(4月13日)

2013年04月13日 | 何の日?
文久3年(1863)4月13日、清河八郎が暗殺されました。享年34歳。

清河八郎は、幕末の早い時期から勤皇派として活動していた武士でした。一時期は幕府から命を狙われたこともあった当時の指名手配犯だったはずなのに、いつの間にか幕府の役人を通じて浪士隊を集め、今日に上洛させる離れ業をやってのけた人物です。
上洛してから清河に反発した芹沢鴨や近藤勇が新撰組の母体となるので、新撰組関連の歴史の中で早い段階で清河八郎の名が登場するために、名前がよく知れ渡っています。


幕府を騙すような形で上洛し、京で浪士隊の目的が幕府のために働くのではなく尊王のために働くことを宣言したために、幕府は慌てて清河たちを江戸に呼び戻します。
江戸に戻った清河は、常に幕府に監視され命を狙われますが、北辰一刀流の達人で、抜き差し際に町人の首を刎ね上げたという腕を持つ清河に、剣が強い警護役が5人ほど常に付き添っている状態で、なかなか幕府の思うようには行かなかったのです。
そこで、旗本の中でも特に腕が立つ佐々木只三郎が刺客に選ばれました。

文久3年4月13日、妻の兄である山岡鉄舟の屋敷を訪れた清河は、麻布一の橋を通ろうとしました。すると清河の少し前に立っていた武士が、「清河先生ではありませんか」と声をかけて被っていた笠を外して頭を下げたのです。
清河は、武士の礼儀として同じように笠を脱ごうとして笠の緒に手をかけた瞬間に背後からきた佐々木に斬られたのです。剣の達人でも刀から離れた場所に手を持って行けば反応が鈍くなると計算したうえでの行動でした。
こうして大きな抵抗もなく清河八郎は殺害されたのでした。


清河八郎の人生は、普通に考えれば意味がわからない行動に満ち溢れていますが、その行動が幕末史に大きな印を付けたことは間違いないのです。

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