金鯱城とか
金城
とも呼ばれた城
それが名古屋城
この地に砦が築かれたのは
尾張の地がまだ奪い奪われだった頃
今川氏親が柳ノ丸という砦を築いた事に始まるとされる
丁度、応仁の乱から戦国時代へと移る混沌期の事である
ほどなく
織田信秀がこの砦を奪い
那古野城と名付けている
信秀とはあの信長の父である
那古野城は嫡男(実は三男)の信長の居城となったが
後に居城を清州城(当時は清須と書くのが正しいそうだ)
へと移ったことから廃城となっている
名古屋城として今日知られる城が築かれたのは
それから随分と後の事
尾張の地の中心的な城は
清州城が担っていた訳である
名古屋城の建築は
清州の地が水害に弱かった事と
徳川家康の開府の地が関東にあったことから
再び、那古野城跡地へと
九男義直の尾張藩の居城として造営されたのが
名古屋城である
1610年に
築城は始まったとされる
2年後
天守が完成
残念ながら建造当時の天守は現存していない
太平洋戦争末期、昭和20年5月14日の名古屋空襲で
降注ぐ焼夷弾により天守は焼失している
今日見る天守は
昭和34年に再建されたもの
残念ながら天守内にエレベーターという
近代建築ではあるが
今でも名古屋のシンボルとなっている
天下の名城
今でもその面影は残っている
金城
とも呼ばれた城
それが名古屋城
この地に砦が築かれたのは
尾張の地がまだ奪い奪われだった頃
今川氏親が柳ノ丸という砦を築いた事に始まるとされる
丁度、応仁の乱から戦国時代へと移る混沌期の事である
ほどなく
織田信秀がこの砦を奪い
那古野城と名付けている
信秀とはあの信長の父である
那古野城は嫡男(実は三男)の信長の居城となったが
後に居城を清州城(当時は清須と書くのが正しいそうだ)
へと移ったことから廃城となっている
名古屋城として今日知られる城が築かれたのは
それから随分と後の事
尾張の地の中心的な城は
清州城が担っていた訳である
名古屋城の建築は
清州の地が水害に弱かった事と
徳川家康の開府の地が関東にあったことから
再び、那古野城跡地へと
九男義直の尾張藩の居城として造営されたのが
名古屋城である
1610年に
築城は始まったとされる
2年後
天守が完成
残念ながら建造当時の天守は現存していない
太平洋戦争末期、昭和20年5月14日の名古屋空襲で
降注ぐ焼夷弾により天守は焼失している
今日見る天守は
昭和34年に再建されたもの
残念ながら天守内にエレベーターという
近代建築ではあるが
今でも名古屋のシンボルとなっている
天下の名城
今でもその面影は残っている