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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「地名随想」・続編 2/13

2015-02-13 | 雨読

2015.2.13(金)雪

 三和町岼(ゆり)の渋谷神社は我が家の氏神なのだが、ここに土佐坊を祀るという伝説があるそうだ。土佐坊とは源平時代の有名な僧兵で、源氏につかえた土佐坊昌俊のこととされる。手持ちの日本史辞典にはそれらしい名は出てこないが、河出書房版には「土佐坊昌俊-1185 鎌倉時代の武士・僧。もと渋谷の金王丸といい、源義朝に従ったが義朝が殺されてのと出家した」とあるそうだ。後頼朝に従い、京都堀川に義経を襲った、とある。
 また、下川合の宇麻谷神社は土佐坊の馬を祀るという。

三和町岼の渋谷神社と下川合の宇麻谷神社
 「丹波志」に渋谷大明神、祭神渋谷土佐坊、馬谷大明神 祭神渋谷土佐坊の馬というふうに書かれているのが根拠なのだろうが、「天田郡志資料」には渋谷神社は饒速日命(にぎはやひ)、宇麻谷神社、祭神宇麻志麻遲(うましまで)とあるとも書いている。
 渋谷神社は上川合と岼が氏子圏であり、川合でこの地域にのみ土佐という姓がある。土佐坊と渋谷神社を繋ぐものと言えばそのくらいで、思うに渋谷神社という名称があって、渋谷金王丸土佐坊を結びつけたのではないかと思う。宇麻谷神社についても単に宇麻志麻遲命の宇麻(馬)を土佐坊に結びつけたというものではないだろうか。天野氏も、「たとえ土佐坊が川合村に何等かのかかわりがあるとしても、常識的に彼が神として祀られるほどの人物とは考えられない。云々」と書いているが、宇麻谷神社については「馬谷神社を宇麻谷神社とし祭神を宇麻志麻遲命としたのは、後になって神社の権威のため適当に当て字したものではないだろうか。」というふうに土佐坊の馬にこだわっておられるようだ。
 また、地名について上川合に午(うま)サシ口・馬頸、下川合に馬刺という小字があるとして土佐坊の馬を想像させるが、これらは地形地名で馬とは無関係だと思う。
 次に義経(よしつね)であるが、三和町菟原中にあり、歴史の道百選に選ばれている細野峠をに向かう京街道(山陰道)の旧道沿いにある。細野峠を下って福知山方面に向かうには細野峠ー宿ーバンド坂から土師川を渡り、柳瀬でまた土師川を左岸に戻っているのである。ところが旧道は、細野峠ー宿ー馬船口(ここで友渕川を渡る)ー別所ー清水坂ー淵脇ー猪ノ倉ー柏田という風に土師川左岸のみを通過しているのである。この別所の尾根(現在養鶏場がある)の下りの清水坂のあたりが義経である。

菟原中の義経、向こうの尾根を登ると別所となる。
 義経が平氏追討の際、あるいは頼朝に追われるようになった際に丹波を通過したのではないかと様々な資料から推測をされている。しかし仮にこの地を義経が通過したとして地名が残るだろうか。確かに義経ならずとも歴史的な人物が遠征、凱旋した道々には数多くの伝説がその地名にちなんでつくられているものだ。本書でも多くが紹介されているが、それは後日地名を元に作り上げられた伝説であることは明白である。
 では義経というのはなにかというと、これが難しい。街道沿いであることから地形の様子を表すのではないかと想像したのだが、義経←悪しツネ←悪しツエというのはどうだろう。ツエは杖立温泉やサッカーWCで有名になった中津江村などのツエで、これは崖をあらわす地形地名である。ツエがツネに転訛することはよくあり、アシがヨシと読みかえられることも同様である。別所の尾根に登る清水坂は短いが急な場所であり、アシツエと呼ばれても不思議ではない場所だと思うのだが。つづく

【今日のじょん】久々におおいのプールに行こうと家を出る。大町から市ノ瀬あたりに来ると吹雪になってきた。菅坂峠は真っ白で、舞に降りて雪が無かったらおおい町に向かうことにしたが、舞は余計吹雪だった。じょんを待たせておいて買い物をし、尻尾まいて綾部に帰る。綾部は嘘のように雪は無かったが、夕方になると吹雪いてきた。

朝はまずまず、舞は猛吹雪、綾部に帰ると嘘のよう

でも夕方になると雪中行軍となった。 

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雨読 「地名随想」 2/12

2015-02-12 | 雨読

2015.2.12(木)曇り

 「地名随想」天野 主著 1985年12月発行 福知山市立図書館借本

天野氏は福天地方の地名について深く広く研究されている方で、「地名随想」(正・続)「福知山地域の地名」「天田郡の地名」「天田地方の地名考」など関連の図書を発行されている。2年前、三和分室でそのどれかを見つけ夢中になって読んだことを憶えている。何しろわたしの生まれ育った地域の極限られた者しか知らない地名について詳しく書いてあるのだから嬉しい。その中に「川合村の土佐坊と源義経について」「川合村の一村断絶について」の論文があり随分気になっていた。というのはその時には福知山図書館の利用カードを持っておらず借りることが出来なかったのでその場で流し読みをするだけだったからだ。今回借りてゆっくり読めるようになったので後ほど少し紹介しておこう。
 さて本書は、天野地名学の入門書という感じで、地名に関する考え方や学び方、分類などが前段に書かれておりやや退屈かもしれないが、地元の方には慣れ親しんだ地名や苗字が出てくるので興味深く読めるかもしれない。続いての「城下町福知山の地名」は沢山の地図を載せ、城下町の変遷がよく解る力作だ。続いて「由良川に関する地名」「山陰道丹後別路について」「鉱山と地名」という力作が並ぶ。福天のみならず丹波の歴史や文化を学ぼうという人にとっては水運、陸運の大動脈に関する本論文は大変貴重なものであり、鉱山に関しては古文書などを解読して、地元の鉱山を紹介している。特に近世以前の鉱山については人々の脳裏から消え去る運命にあるのでこの論文は重要である。
 それに続く、動植物名地名についてのその語源が解かれているが、実に多くの種類が述べられていて地名語源辞典として利用できそうだ。その他多くの地名に関する論文があるのだが、前述土佐坊と義経、川合村一村断絶の件について紹介しておこう。つづく

【作業日誌 2/12】店先バリアフリー

【今日のじょん】いかる現る。
昨日のことである、じょんの散歩のためにドアを開けたら、榎木の下から数十羽の鳥が一斉に飛び立った。ムクドリかなんかと思い気にもしなかった。ところが開店準備の掃除をしているとかみさんが二階から「おとーさん、いかるがいるで」っと大声を出す。慌ててカメラを構えて窓を開けた途端またしてもバーっと飛び立った。2,30羽は居ただろうか、大群だ。残っているのを写真に収めると、やっぱりくちばしが黄色い。いかるに間違いない。実に五年ぶりの登場だ、しかも今度は大群で。
 じょんはカンケーなく、その辺の倉庫を嗅いでいた。

  

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上林の地名随想・続編 2/11

2015-02-11 | 上林地名考

2015.2.11(水・祝)曇り

 先日「上林家の先人たち」ー丹波から宇治へという冊子が発行されたというニュースが市民新聞に載っていた。機会があれば読んでみたいと思っているのだが、上林春松本店の綾鷹の人気と相まって上林家に興味を持たれる人も多いだろうと察する。さて上林家といえば古城山の上林城址を思い浮かべるが、歴史通の方なら市志(いちし)の上林殿塚、茶園をご存じだろう。上林家の塚がなぜ山深い市志にあるのか不思議に思ったのだが、「領地の堺、勢力範囲を示すためのものだろう」と川端先生の言である。また茶園というのは市志の小字で市志に入って最初の家がある当たり、右岸である。上林氏が宇治に移住し、幕府御用茶師となり茶業で成功したのも上林における茶の栽培、製茶技術の習得があったものだろうとされている。古文書にも井根の大半が茶畑であった様子も出ており、上林での茶の栽培が相当盛んであったようだ。


 府立高校の校長も務められた天野主先生の著書に近隣4市1町の昭和45年、50年の経営耕地面積が載っている。例えば昭和45年の茶園では綾部市59㏊、福知山市17㏊、大江町6㏊、舞鶴市25㏊、宮津市0㏊となっている。このデータで中世、近世の茶栽培の様子を計り知ることは出来ないが、古文書などで見る限り盛んであったと考えられる。そういう意味で市志の茶園も上林氏にちなんだ茶園があったのだろうという説が多く見られ、定着してきたようだ。
 上林氏と上林殿塚、茶園という地名など将にロマンを感じさせる取り合わせだが、わたしはこの茶園という地名に疑問を感じている。詳しく調査しているわけではないので単なる思いつきのようなものであるが、地名を調べるために連日各地の小字地名を眺めていると、チャエンという小字がいくつも出てくるのだ。しかも茶エン、茶円、茶縁なんてのがある。試しに昭和45年データで茶園がゼロという宮津市で茶地名を拾ってみよう。茶エン×2、茶園、茶ノ木×3、茶堂下、茶ヤヶ鼻、茶畑、茶屋谷、御茶ヶ鼻、シキ浜茶水、茶ノ下、茶山、茶場、中茶ヤ、中ノ茶ヤと多彩である。茶ノ下、御茶ヶ鼻、茶ヤヶ鼻、茶ノ木などを見ると茶というのがなにか地形を表すように思える。
 さていたずらに、茶所宇治の小字地名を調べると茶の付く地名は1件も見当たらない。これはどういうことだろう。
 
市志の茶園は川の蛇行する内側、尾根末端の小さな平地という地形である。山間地で日照時間は短いが南向きで日当たりはいいところである。お茶の栽培にどのような地が適しているのか、市志の茶園が果たしてお茶栽培に適しているのか、現地にそのような言い伝えが残っているのか、お茶の株が残っているとか栽培の跡があるのかなど色々調べないと地名については語れないと思うのだが、今までに見た諸先輩方の文書にはそのような形跡が見られない。
 と言ってチャにお茶以外の意味が見つからないのも現実である。
 穴虫考の目処がついたら茶園について調べてみたいと思うのだが、当分先になりそうである。それよりも他のことを調べている際に何かヒントが出てくるかもしれない。

【作業日誌 2/11】店先バリアフリー

【今日のじょん】夕べも鹿が大暴れしたみたいだ。じょんは吠えることが無かったんだが、雪のために足音が聞こえなかったんだろうか。大体の通路が確認出来たので、いずれネットを張ることにする。

ネット張り候補地


 

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上林の地名随想 2/10

2015-02-10 | 上林地名考

2015.2.10(火)

 以前読者の方から、「他所のことばかりじゃなく、上林のことを書いてよ」と言われた。また別の方から「最近遠いところのことばかりで上林のことがないからつまらない」と言われた。
 穴虫考が153回も続いているので、どうしても他所のことばかりと思われるのだろう。穴虫は上林には無くて、最も近いのが上杉である。もうその次といえば亀岡だから、何となく身近には感じられないのだろう。そういう意味では上林の地名についても時々書いていきたいと考えている。色々他所の地名について研究しているように見えるのだが、やがて上林の地元の地名に跳ね返ってくということも理解していただきたい。例えば穴虫は他所の地域の地名という風に書いたが、実は穴虫研究の発端は五津合町の睦志(むし)、かつての虫村の探究であったことを思い出して欲しい。穴虫考も1~6までは「日置のこと」、7~32までは「睦志のこと」のタイトルで書いてきている。日置も睦志も上林の地名である。穴虫を極めるまでまだまだかかると思うけれど、その時には睦志(虫)についても明らかになって来ると考えている。
 虫地名については大虫神社、小虫神社(与謝野町や越前市など)、大虫谷、小虫谷(益田市匹見町)、虫鹿野、虫野、虫谷(おおい町)など枚挙にいとまが無い。金属の精錬や水銀の精製に関する説、昆虫害虫の虫説、無所、墓所(むしょ)が訛って虫になったなど色々あるのだが、どれも単純に納得できるものは無い。
 上林の睦志(虫)についても若宮神社に害虫退治の言い伝えがあるがこれは虫の地名から後からつくられた話だろう。祭神となっている鎌倉権五郎影政がいかに弓の名人でも害虫退治にはそぐわない。むしろ景政が各地で鍛冶師、鋳物師など金属関連の人々に祀られていることに注目したい。近世の何鹿郡鋳物師清水の井関氏がこの地に来たときに、まず虫村に居住したことが最近解った。なぜ上林の地を選んだかというのも謎であるが、虫村に来たというのも何か委細があってのことではないだろうか。

井関氏たたら場跡(清水)
 穴虫の穴については解ってきたが、虫についてはまだ始まったばかりである。それでもやがて睦志に戻ってくることを楽しみにしていただきたい。
 上林の地名で最も難解なのは引地だろう。この地名は全国各地に沢山あって、地形的にも歴史的にもまちまちで見当がつかない。引地のオンパレードは愛知県豊田市だ。ここの引地をしらみつぶしに訪問したら、アイデアが浮かんでくるかもしれない。まあ十日間はかかるだろう。と言うわけで本稿「引地のこと」は2010年2月で行き詰まっている。もちろんこの間アイデアはめぐっているのだけれど、これっというものが出てこない。
 念道だってそうだ。いろいろこねくり回して模索を続けたが、どうも怪しい。念道については他の地には和束町の一箇所しか見つかっていないのだ。念道の本当の意味は永久に見つからないような気もする。

念道は難解地名だワン

【作業日誌 2/10】店先バリアフリー着手

【今日のじょん】各地では大雪が報道されている。じょんのび村は積雪15cm、楽勝。今年は上林は少雪とよんでいたのだが、いよいよ平年並みという感じになってきた。これ以上降り積もったら平年以上の降雪ということになるだろう。でも根雪になって積もらないから苦労は少なくて済む。

こんな感じ

 

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穴虫考(153) 穴虫ファイル-5 2/9 

2015-02-09 | 地名・山名考

2015.2.9(月)雪 穴虫ファイル-5 草津市馬場町穴虫

 多くの穴虫が山間地、あるいは山間地から平地に出る地点にあるのだが、前回の河原尻穴虫とここは平地に存在する。山間の三方を山に囲まれた狭隘な地形という地形説はどうも怪しくなる。ここの穴虫は探すのに苦労した。市役所の字配図は既に新住居表示になっていて、地元で聞くしか無い。願信寺を訪ねて地元の年配の方を紹介してもらう。そして作業中の奥村さんに穴虫の位置を聞いた。予想していたのは東側の山間部、あるいは北部の墓地周辺なので意外な場所に当惑する。穴虫地名が古代に由来するとばかり思っていたので、馬場町に古代遺跡が存在せず、穴虫遺跡が中世のものと知って落胆した。
 しかし、穴虫地名が中世以降の地名ではないか、火葬に関係する地名ではないかと思いついて、思い起こしたのが願信寺である。炎天下フラフラになりながら何のあてもなくたどり着いたのが願信寺である。ご住職は不在で、穴虫がどこにあるのかは解らなかったが、檀家さんの奥村さんを紹介して下さった。

願信寺、浄土真宗大谷派、その時は知らなかった。
その奥村さんの家は解らなかったのだが、田圃で道を聞いたのが当人だった。こんな偶然があるだろうか。穴虫の現場からは何も解らなかったが、後日穴虫火葬場説を思い立ったとき、願信寺の宗派が何であったか調べて納得した。浄土真宗だったのだ。琵琶湖周辺が火葬地域だというのは書物で知っていたが、それは浄土真宗の盛んな地域でもあると言うことだ。

馬場町のお墓、おそらくここ一箇所かと思うのだが。
 穴虫火葬場説の出発点はこの馬場町穴虫でもある。もっと偶然は永年の友人山崎君の父方のお墓があの馬場町のお墓だということだ。
 しかしもしかつて火葬が行われていたとして、火葬場はお墓の近くが順当ではないだろうか。願信寺、穴虫、お墓は東西北の三角形の頂点という位置になっている。
 穴虫遺跡もそうだ、中世遺跡というので気にもしなかったのだが、穴虫が中世以降の地名だと考えるとこの遺跡が大きくクローズアップされる。それが何処にあったのか、堤防ならそれはいつできたのか、堤防は自然のものなのか、遺物は表面から出てきたのか地中から出てきたのか、いろんなことが想像される。穴虫に中世以降の火葬場遺跡があったならこれは大変。まさに楽しみの多いところなのである。

穴虫、草津川沿いの薮地

No.5 草津市馬場町穴虫 
①住所(旧住所)
  草津市馬場町穴虫

 

②大字小字、川、谷、橋、池等地名
  小字、草津川

 

③地形
  草津川右岸の堤防上、この堤防は人為的なものと思われるので本来は平地だろうか。堤防がいつの時代にどのようにして出来たか不明。
④近隣の地名
  墓尻、墓前、菖蒲谷、馬場
  穴虫の小分け地名は穴虫、植カケ田、馬場

 

⑤寺院、神社等
 願信寺(浄土真宗大谷派)馬場町で唯一の寺院

 

⑥金属関連、国分寺国府関連、宗教関連、その他
 周囲は製鉄遺跡多いが、この地には無さそうである。

 

⑦その他特記事項
  穴虫遺跡は土師器、須恵器、中世陶器の散布地とある。
  古代遺跡が存在しない。

 

⑧訪問記録
第一回 2014.5.30 市役所に字配図無く地元で聞いて位置を知る。その前に立ち寄ったのが願信寺で、ここでは穴虫の位置は解らなかった。穴虫の位置としては特異な位置である。無理矢理穴虫地形をこじつけたが無理。
次回訪問課題:穴虫遺跡の位置、状況等調べること。奥村さん、願信寺において火葬の歴史がないか聞くこと。寺と墓と穴虫の位置関係は何を表すか?
穴虫に遺物はないかなど

【今日のじょん】

おい、なに向こう向いてんねん
おとーに取られんように食べてんや
取るか、そんなもん
てなわけでよほど気に入ったか、やった途端に向こう向いて食べている。かぼちゃジャーキー

 

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穴虫考(152) 穴虫ファイル-4 2/8 

2015-02-08 | 地名・山名考

2015.2.8(日)曇り 穴虫ファイル-4 亀岡市河原林町河原尻穴虫
 穴虫考(151)は2015.1.26

 千代川町穴虫と同様に最初に訪れた穴虫である。穴虫のなんたるかもわからず、雲を掴むような状況だったが、山本光三氏の穴道説にはぴったりの二箇所だったのでときめくものがあった。千代川の穴虫は丹波国府跡候補地の真西にあり、河原尻穴虫は丹波国分寺の真西にあるわけだ。ところが前者は春秋分の夕日が穴虫に沈むだろうが、後者の場合は夕日が沈むような地形ではない。その後の多くの穴虫を訪れて穴道説が当てはまらないことがわかった。
 しかし始めて河原尻穴虫を訪れたときは、丹波国分寺跡の大きな礎石を見、その西に国分尼寺跡もあることを知って、古代の重要な地域であるということに気付いた。
 その後穴虫火葬場説を唱えるようになって、重要な近世の文書に出会う。河原尻村(かわらじむら)庄屋の遠山家の葬式帳である。遠山家の檀那寺は禅宗で土葬となっていたが、河原尻村の隠墓(三昧聖のこと、丹波ではこのように呼ばれていた)に依頼している。隠墓が居たということは火葬も扱われていたと思われる。隠墓の専門はやはり火葬なのである。そうすると近隣に火葬場が必ず存在するはずである。これが穴虫であったら、穴虫考も大団円というところなんだがそう簡単にはいかないだろう。次の訪問が楽しみである。

丹波国分寺跡の礎石、国分寺跡から府道に出るところ。小さな地蔵など目につく。

No.4 河原尻穴虫
①住所(旧住所)
  亀岡市河原林町河原尻穴虫

②大字小字、川、谷、橋、池等地名
  小字

③地形
 平地、大堰川から東に500m、七谷川から南に500m

④近隣の地名
野本、妙珍原、越シ記、菖蒲、蛇穴 

⑤寺院、神社等
延命寺 浄土宗西山禅林寺派(才ノ本31)超願寺 西山浄土宗(東垣内57)
宝光寺 臨済宗妙心寺派(河原尻29)  地持庵 曹洞宗(北垣内14-1)
妙円寺 日蓮宗(綾垣内23)  日吉神社(才ノ本22)

⑥金属関連、国分寺国府関連、宗教関連、その他
丹波国国分寺跡から200m、国分尼寺は穴虫の西南端付近、古代には相当賑やかなところと想像できる。

⑦その他特記事項
近世の隠墓が河原尻村田中に住居。庄屋遠山家の土葬葬儀を請け負っている。檀那寺は大日寺(禅宗)とある。火葬の例は記録に無いが、隠墓が火葬を得意としている点では河原尻に火葬場があったと想像できる。

⑧訪問記録
第一回2013.8.13 国分寺を中心的に見る。穴虫遺跡があるのだが、どのようなものか未調査。
今後の課題:穴虫に火葬場が存在していないか、寺院を中心に調査。国分尼寺、穴虫遺跡も調査必要

【作業日誌 2/8】薪割り

【今日のじょん】先日お知らせの散らかったジャガイモ、よ~くみればサツマイモが混じっている。どうやら人為的に捨てられたものらしい。一番獣が多い場所なのですぐに喰われると思ったのだが、まるっきり手がつけられていない。ということは、、、、ひょっとすると毒物でもなどと勘ぐってしまう。

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ヒビあかぎれ 2/7

2015-02-07 | 日記・エッセイ・コラム

2015.2.7(土)晴れ

 晴れって書いたの何日ぶりだろう。あわてて薪割りをする、今やんなきゃ腐っちまう。あと4,5日晴天が続けば割終えるんだが、もう明日には崩れるそうだ。作業が終わると手を洗って保湿クリームを塗る。どういうわけだか手袋はめて作業すると手指が乾燥する。別に土仕事じゃなくても乾燥し、水仕事の後よりケアが大切。
 思えば一昨年の今頃は手指のヒビあかぎれと足の痒疹に悩んでいた。つっけんどんな皮膚科の医者と効きそうに無い怪しげな薬にもはや諦め気味で、一生皮膚の病とつきあわんなあと腹くくっていた。(2013.2.24参照)
 昨年の正月には「あかぎれの詩」なんてやけっぱちな詩を書いたりして(2014.1.4参照)絶望的だった。
 それがどうだ、優秀な先生とよく効く薬(???)+わたしの根気のおかげで随分よくなってきたのだ。皮膚科の門をくぐって2年になろうか、よくぞ治ってくれた。足の猛烈なかゆみと手指の上皮が無くなってひびが割れる痛さがすっかり無くなった。特にひどかった右手の薬指はすっかりもとのつるつるに戻って、水仕事でも指サックは要らない。
 ちなみに痒疹にはデルモベート軟膏(外用性副腎皮質ホルモン)、ヒビあかぎれにはヒルドイドソフト軟膏を使った。前者は痒いときのみ使用、後者は手洗いの後とか日に何度か使用で100gの瓶で1年分ぐらいか。痒疹はいつ出るかわからないのでその都度塗布すればいいし、ヒルドイドはなくなるまで使って、その後は市販の保湿剤でもいいかと思っている。

何年たってもタプソール。
 さて皮膚はこうやって落ち着いたのだが、最近困っているのがお尻の冷えである。昼間はどうって事無いのだが、寝ていて布団の中で暖かいはずなのにお尻の一部が妙に冷たいのである。布団の隙間から外気が入っているのかと思うがそうでも無い。神経が冷たく感じているらしい、熱感と逆の症状だ。目下調査中なんだが、どうやら座骨神経痛ではないかと思っている。とりあえずお風呂でしっかり温めること、風呂上がりのせんねん灸、そしてタプソール8を塗布して布団に入っている。
 マラソンやってる方なら誰でも知っていると思う、タプソール8はわかもと製薬製で温湿布効果のある塗布剤である。今はどうか知らないが、数十年前のマラソンスタート地点ではこの薬の臭いが充満して窒息しそうだった。手元にあるタプソール8はもう20数年前に買ったものである。極寒のマラソンにはこれが最適だった、今日のように高性能のウェアはまだ無い時代だった。問題はレースの終わったその夜の入浴だった、朝タプソール8を塗ったことを忘れてドボンと浸かると熱湯に浸かったような刺激が走る。慌てて水を掛ける、そんな経験あるでしょう、ランナーなら。
 そんな何十年前の失敗がまたぞろ起こった。昨日の歯の掃除である。歯医者にかかった人なら誰でも憶えがあると思うのだが、あの椅子に座ってキンキンやられたら
お尻から背中まで汗びっしょりになるってことを。それかなーと思っていたのだがそうじゃない、夕べ塗ったタプソール8の効果が残っていたのだ。お尻から腰から熱いこと熱いこと、結局掃除だけなのに汗びっしょり。
 もし座骨神経痛なら、せんねん灸とタプソール8で完治することは難しいだろう、でも皮膚と同様に治すための努力をしようと思っている。

【今日のじょん】放射冷却なんて忘れかけていた現象が起きて、寒い朝が来た。それでも-1℃でたいしたことは無いのだが、じょんの水入れもかちんかちんに凍って、夜は相当寒かったみたい。やっぱり太陽が嬉しくて気分がいいのだが、人も犬もこれは同じみたい。

さてこれは1月の写真だが、今年になってレインコートの写真が多いこと。お腹の半分が赤くただれて、アレルギーのせいだろうか、うどんやパンのやり過ぎだろうかと悩んでいたのだが、このレインコートのお腹部分にマジックテープがあって、それが擦れているのではと思われる。かみさんが発見したんだけど、お腹の半分だけが赤いのは、、、とよく気がついたことだ。

 

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太郎の屋根に雪ふりつむ 2/6

2015-02-06 | Poem

2015.2.6(金)曇り

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 たった二行の三好達治の「雪」という詩だが、丹波の山奥でも雪の夜には必ず思い浮かぶ誌である。夜の間に降る雪は実に静かだ。屋根や庭の雪が周囲の音をすべて吸収するらしい。
怖いほど静かな雪の夜が明けると、眩しい朝日の積雪の朝が来るのが相場なんだけど、最近は朝もずるずると陰気にくずれていて面白くない。
 それにしてもこの誌の情景は信州か飛騨か越中か越後かはたまた東北の田舎を思い浮かべるのである。ふわふわ、ふわふわと一晩中降り積もる軽い新雪を思うのである。わたし自身もいつも白川郷の雪の夜の情景を思い浮かべていた。
 ところがだ、これがどうも舞の情景であるらしい。確かに舞にも雪は降る。二年前などいきなり6,70cmの積雪があってパニックになったぐらいだ。でも丹波や丹後に降る雪は太郎次郎の雪とは異質なような気がして、意外な感を受けるのだ。舞に降る雪は、海の真近くで、気温が高いせいもあり湿った雪が多い。いわゆるボタン雪というやつである。そして記録的な積雪になるときは、前も見えないくらいの降雪で、情緒も何もあったもんじゃない。服も帽子もびしょ濡れになる雪だ。太郎次郎の屋根に静かに降り積もる雪ではないのだ。

2月1日日曜版名言巡礼、「幼き日の別離 誌の源泉」として掲載
 それでも太郎を眠らせ、太郎の屋根に降り積んだ雪は舞の雪だったようだ。達治がまだ小学校に上がるまえに、舞の家具商に養子に行くことになったそうだ。大阪にいる弟と舞にいる自分の上に雪が降り積もったのだろう。遠く離れていても同じ雪が降ったのだろうと思ったのかもしれない。結局この養子縁談はまとまらなかったのだが、このときの情景を詠んだのだろうという説があるそうだ。1927年の作である。
 わたしはなぜか凄く嬉しい、この二行の誌の雪がわたしの上に降る雪と同じ雪であったことが。
 丹波、丹後の雪は中途半端である。雪が中途半端というより雪に対する人間の態度が中途半端なのかもしれない。北国のように何ヶ月も雪に閉ざされるわけでない。だから雪の季節の過ごし方というのがあるわけでない。根雪になるわけでないから、春の喜びもさほどでない。さりとて雪の無い国のようなわけにはいかないのだ。
 宮沢賢治の「永訣の朝」だけはつらい。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」これだけのことばでどれだけ涙したことだろう。だけどあめゆじゅがわからなければ何も感ずることは無い。
 丹波には太郎の屋根に降りつむ雪もとし子がもとめたあめゆじゅもあるんだ。苦労なくして雪を感じ楽しめるのは、これ程有り難いところは無いのかなとも思う。

【作業日誌 2/6】薪割り、早く割らないと腐ってしまう。

【今日のじょん】夜中の2時頃に吠えまくって、今朝は徹底追跡する。

小屋の横から入った動物が(ここでセンサライト点灯)
ガーデンシェッドの前をとおり
ゴミ箱のところから
スロープ前を通り、ドッグランどの柵を往復
店の玄関から隣家へ向かう 


小動物と鹿の足跡がある
小動物は左へ
鹿は右から
鹿は龍のヒゲを囓り
家の横の雑草を囓り

カナメの外を走り
畑下の斜面を横切り
出どこは山、つまり二頭別々のようだ。

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歯医者復活戦 2/5

2015-02-05 | 日記・エッセイ・コラム

2015.2.5(木)曇り

 2年ぶりに歯医者に行く。元々行っていた歯医者さんなんだが、2年前痛みは続くがあまり治療がすすまないので、南丹病院を紹介してもらって治療してもらった経緯がある。それ以来歯の掃除や点検の案内もなく疎遠になっていたところである。そんなことなら新たな歯医者さんを探そうと情報を集めたが、歯科医の噂ほど多様なものはなく、どこに行ったらいいか判断がつかない。それなら以前の歯医者さんに行く方が無難だろうと、もとの歯医者に行く。歯医者復活戦とは将にこのことだ。
 さて問題の歯は左の下の奥から二番目の歯なんだが、南丹病院では「虫歯が進んでいますから治療した方がいいですね」と言われていたものである。シミも痛みもないので治療をことわって1年以上たったのだが、どうも舌で触るとザラザラガタガタしている。治療やむなしなら致し方ないなと覚悟していたところ、詰め物が一部欠けているだけだからと10分程度の治療で終わった。大病院だとあっさり削ってかぶせてという古来の治療を進めるのだが、個人病院はそうでもない。どちらがいいのかといえば、ケースバイケースで患者が判断するしかない。

しまむらったって安い服屋じゃねえぞ。
 その後1時間程度を歯の掃除に費やすが、これは重要なことだと思う。ここ数年は日に三度の歯磨きが出来るようになったが、それでも汚れや歯石はしっかりたまるものだ。コーヒーカップのようにキッチンハイターに浸けるわけにはいかないので、年に一度の掃除と点検は必要である。またこうやってきれいにした後はなぜか歯磨きも丁寧になる。しっかり磨いて血だらけになってしまった。

【今日のじょん】散歩時に妙なものを見つけた。ジャガイモの小芋である。これって油で揚げても、まるのまま炊いても美味しいものだし、種芋として使うことも出来るし、我が家ではじょんの夕飯にすべてを消費している。ところが一般家庭では面倒なものなので捨てられることも多い。捨てられたものか、はたまた保存してあったのを動物が持ち出してばらまいたのか?いずれにしてもこれって猪などの獣を呼んでるようなものだから困るわけだ。

おや~んなんだこりゃ?
ジャガイモじゃねえか
あちこちにあるぞ。

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雨読 「墓と埋葬と江戸時代」 2/4

2015-02-04 | 雨読

2015.2.4(水)曇り

 これまで沢山の本を読んできたかが、表紙絵に惹かれて読んだ本は初めてである。「安政午秋頃痢流行記」と記されたこの絵は、安政五年(1858年)に全国に大流行した頃痢(コロリ、コレラのこと)による死者を処理する江戸の葬送関係者の様子を示したものだろう。江戸での死者は10万とも26万人ともいわれている。安政年間前期の江戸の人口が56,7万人の様子だから、この死者の数は多く見積もった場合は半数近くが亡くなったという結果となる。
 となるとこの絵のように棺に収められて埋葬された人は極限られた上層部の人間で、一般の町民はもっと悲惨な状況で葬られたと考えるべきだろう。ただこの本はその内容を伝える目的のものではないので、その実態はわからない。
 「墓と埋葬と江戸時代」江戸遺跡研究会編 吉川弘文館 2004年8月第一刷発行 府立図書館借本

表紙と裏表紙に安政五年のコロリによる葬送の絵が載っている。

 表紙の絵に惹かれたという事もあるが、中世以降の葬送ということについて考古学的に著述してある書物は非常に少ないので本書を選んだわけである。過去に多くの葬送、墓制に関する本を読んだが、考古学的に解明している本は「墓と葬送の中世」狭川真一著と「穴の考古学」赤星直忠著(2014.7.5参照)のみである。他はほとんどが古文書の解読から葬送墓制に迫っていると言うものである。
 近世の江戸での葬送形態が上方と随分違っていることに気付く。上方では幾つかの火葬場が設置され、大部分が火葬に処されていた。墓地域内に火葬場があるというかたち、あるいは火葬場の近隣に墓地が存在するという形態で、火葬骨が埋葬されるという状態がほとんどであった。ところが江戸では逆の状態で土葬がほとんどで、基本的に寺院内墓地に埋葬されたようである。寛永寺護国院他4寺の墓所の埋葬施設数を見ても、総計1,110施設の内、火葬蔵骨器とその他火葬墓を足した数は91施設で、8.2%となり、畿内の状況と正反対であることが解る。都市部においては火葬という図式は成り立たないということが解った。
 おんぼう(隠亡、三昧聖)は畿内においては火葬でも土葬でも扱っていたが、江戸においてはもっぱら火葬を担当していたようだ。畿内のように隠亡、煙亡などと賤視される度合いは低いようで、公的文書にもおんぼうと記されず、僧侶として扱われ、「おんぼう」という身分は江戸には存在しなかったとしている。ただ教団内では火葬扱い者は一般僧侶とは別に扱われ、差別観念が存在していたとされている。
 「江戸時代人の身長と棺の大きさ」という論文があり、発掘される墓坑や方形木棺、早桶(桶形の棺)が人間の大きさに対し異常に小さいという報告がある。日本人の体格を縄文時代から近代まで比較すると、江戸時代前期が最も小さく女性143cm、男性155cmあたりだという。それでも棺の大きさは早桶で口径50~60cm、深さが45~60cmとなっている。方形の場合は25×45×25cm、50×79×27cmの報告がある。これはどう見ても無理矢理遺体を折りたたんで縄で縛るなどの方策が必要で、埋葬場所の困難性が原因かと結論づけている。
 火葬を主体とした畿内都市部でも遺骨や灰の処理に難渋したぐらいだから、江戸の町で土葬をしかも限られた寺院の墓所で行ったがために江戸時代の後半では悲惨な状況となっていたらしい。そのことが明治になって郊外に広大な霊園墓地をつくるきっかけとなったようだ。「お骨のゆくえ」(横田睦著 2014.10.28参照)に詳しい。
 もう一つ、鍋被り葬という奇妙な葬法について書かれている論文がある。頭部に鍋をかぶせて埋葬しているものだが、東日本に多い。病気死亡、盆期間中の死亡の伝承が残っている。埋葬場所の関係などから、ハンセン病、結核などで死亡した場合にこういう葬法があったのではないかと書かれている。

【今日のじょん】

夕べは鹿が鳴いていたので探索。左から
倉庫の裏、隣地の畑で足跡発見
梅の木の横から府道に降りている
出所を探すとやっぱり山

府道を渡り空き地に続いている
そして竹藪に消えている
その近所には小動物の足跡も、、、

 

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雨読「日本の聖と賤」中世篇-2 2/3

2015-02-03 | 雨読

2015.2.3(火)曇り

 本書を読む目的は、発生の理由、古代制との関連、近世との脈絡、中世の実情などを知りたいというものである。対談形式で書かれているのでこれらのことが実に判りやすい。
 呪術的性格のものが迫害され、賤視されるのは仏教が国家宗教となってくると軌を一にしてなされてくる、それは体制内宗教の国家的宗教が確立してくると中国でも朝鮮でも同様の事態となっている。
 野間 シャーマンのカリスマ的権威は、啓示、預言、幻術などに依拠したから、不平・不満を持った民衆を一挙に扇動し組織化する可能性がある。国家の権力者がそれを警戒したというわけですネ。
 行基、役小角(えんのおづぬ)、空也、法然、親鸞などが迫害され賤視されたのも同様に、支配者が一般民衆と彼らを分断することが目的であったと考えられる。
芸能に携わるものがとされるのはこういったところにその一端があるのかもしれない。つまり踊りや歌の発祥は巫女などのシャーマンであるからだ。
 
マキノ町西浜別所の尾根、右端下に印内川が流れている。別所は聖達の隠棲場所、印内(院内)は陰陽師の居住地という説があるが、よく同じ地域にあるのは彼らが住まわされた場所なのかもしれない。
 
 木地師や鋳物師、鍛冶師、山師などが賤視された経緯は近世篇に詳しそうである。本書では一向一揆に関する項の中で、彼らが宗教伝播力をもっていたのではないかとされている。支配者にとっては民衆間の情報伝達機能を持つ者は最も脅威なわけである。聖や芸能者もしかりである、民衆と情報伝達者を隔離する施策が中世を作り出したひとつの要因と考えていいのだろう。
 先日読んだ「実像の戦国城下町越前一乗谷」の中で、町屋遺跡に、鍛冶屋、鋳物師屋、染め屋が残っていたのを憶えている。(2015.1.10参照)遺物が残りやすい職種だからかも知れないが、これらが賤視された職業だというのが気になる。考えるとこれらの職業は武器を作るために必ず必要な職業である。皮革加工も武器には重要だが、城下町遺跡には確認されていなかった。遺物が残らないためだろう。戦国領主としては絶対に確保しておかなければならない職種であり、代々家業を固定し、隷属させておく必要があろう。このあたりに一般農民とは分離させておく状況が生まれてきたのかもしれないと想像している。
 穢(けがれ)や殺生戒の問題など多くの教示があったが、紹介はこのくらいにして、近世篇の読書をしたい。おわり

【今日のじょん】じょん君今年初のシャンプー日である。お金があったらペットショップで洗ってもらうんだけど、特に冬のシャンプーは辛い、ラシイ。というのはかみさんが洗って乾かすのだから。わたしの役目はよっこらじょんの体重測定とシャンプー台の搬入、あとのお風呂掃除、これも結構大変なんだけど。とりあえず体重は19.2Kg前回と変わらず。黄の点滅といったところ。
 今日の侵入者は鹿1頭と小動物、径路をよく見ておいて今後のネット作成の参考にする。

左から
小動物がここを降りて谷とネットの間を歩いている。
鹿が隣家の裏庭から芝生広場に来てるんだが、、、
途中で足跡が無くなっている。大ジャンプしたか?
先ほどの小動物、ドッグランどに入ってるぞ。
 
  

 

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雨読 「日本の聖と賤 中世篇」-1 2/2

2015-02-02 | 雨読

2015.2.2(月)曇り、雪

 日本の歴史を探ると常にとされた人々に突き当たる。例えばこれまでに書いてきた、隼人、蝦夷、渡来人、古代製鉄、古代の測量や建築、街道、古代から近世に至る葬送、中世近世の鍛冶師・鋳物師・鉱山師、山民・海人・サンカ、木地師、芸能、習俗とまあありとあらゆる分野を調べていくと、あるいは制度に突き当たるのである。つまり日本の文化や技術といったものは歴史的に見ると、豪族や貴族や武士といった身分制度の上層にいたものによって発展したのではなく、底辺にいた者達によって育まれたものだと考えられる。ところがそのことは歴史の教科書にはついぞ現れず、むしろタブー視さえされているように見える。
 先日テレビのクイズ番組で、「徳川家康が病気になった際にかかりつけの医者は身体に触ることが許されていないので、どのようにして脈を測ったでしょうか」というのがあった。答えは聴診器だったか忘れたけれど、問題はなぜ将軍に触れなかったかということである。普通は将軍が位が高いので尊いものとされ、恐れ多くて触れないものと思うだろう。それもあるだろうが、触って脈を取らなければ診断も出来ないわけで、理由は他にもあるだろう。医師(くすし)が賤視されていたことをどこかの本で読んだことがある。現在では尊敬され信頼される医師がかつては賤視されており、鍛冶師、鋳物師、藍染め屋、庭師など当時重要な仕事をする職人も賤視され、差別されていたのである。
 の発生は遠く古代に遡るのだが、その発生の要因であるとか、近世との脈絡などとかいう問題については学校や職場で永年受けてきた人権教育では語られなかったかもしくは研究がすすむにつれて学説が変わってきているかの感を受ける。今一度その辺のところを学習し直そうと読み始めたのが、「日本の聖と賤」中世篇および近世篇である。
 「日本の聖と賤 中世篇」野間宏・沖浦和光 人文書院 1985年7月初版 古書

 全巻両氏の対談形式で書かれている。「狭山裁判」を岩波新書で読んだことがあるが、野間宏氏がその著者であったことは今気付いた。沖浦氏は憶えのある名前だなあと思いつつ書庫を見ると実に多くの本を所持していたので驚いている。「幻の漂流民サンカ」(雨読で紹介済み2013.6.20)「瀬戸内の民俗史」「竹の民俗史」「日本民衆文化の原郷」「天皇の国の国」などである。
 本書を読んで、納得する点がいくつかあったので、アトランダムに紹介してみよう。
 の発生というと、自然発生的に聞こえるがもちろん自然に発生するものではなく、時代時代の支配者、為政者、権力者といったところの都合でつくられたものだが、それらにとりいれられた仏教に起因するものが多くある。それは弾圧というかたちで現れるもので、古代においては祭祀の主役であった巫女や呪術者である。そして陰陽師、修験道、聖(ひじり)なども弾圧され賤視されるようになる。これは一体どういうことなのだろう。つづく

【今日のじょん】今朝も降雪、でも降雪量はしれているのだ。正月以来かくほどの雪も降らず、ありがたいと言えばありがたいのだが、とにかく晴天日は無い。雨、曇り、雪のどれかである。困っているのが獣たちで、連日民家の周囲をうろついている。いそがしいのがじょん君で、朝の仕事は嗅ぎ廻ること。今日も玄関周りをひとしきり嗅いでいたら、なにやら怪しい糞らしきものが有り、掃除する。写真は河原に続く道の足跡、これは犬みたい。

 
雪の中にも梅の芽がほころんでいるのが嬉しい。


 
 

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続・老いるということ 2/1

2015-02-01 | 日記・エッセイ・コラム

2015.2.1(日)雪

 先日オグシオの小椋さんだか潮田さんだかがテレビで「小さくてもいいから目標を持つこと、目標以上の結果がやってくることはない」とおっしゃっていた。実にいいことを言われるなあと感心していたのだが、そういえばマラソンランナーの君原賢二さんが「あの街角まで、あの電柱まで、、、」と言っておられたことを思い出す。
 トライアスロンをやっていたわたしにはよく解る。練習しているときはゴールしている光景だけを思い浮かべて頑張るのだけど、実際のレースになり、特に最後のフルマラソンとなると、「あの街角まで、あの電柱まで、、」ということになる。大きな目標のゴールではなく、目の前の小さな目標を目指すことになるのだ。人生も同じことだと思う、ゴールは満足した往生ということになるのだろうが、日々生きていくぶんにはそんな目標は持てない。目に見える小さな目標を次々と持っていくことだろう。その積み重ねが最後の目標に繋がる。
 心身共に衰えの来る老境を目的もなくだらだらと生きるのは、一見楽に見えて実はとても危険な状況だと思う。老化の促進は加速度的になるだろう。
 そしてもう一つ大切なポリシーは、「生老病死をコントロールする」ということである。このことこそ人間らしい生き方であると思うのだ。かつての人間には生はともかく老病死はあるがままに受け入れざるを得ないものだった。ところが今日ではこれらのことが自らの意志である程度コントロールできる状況となっている。それはひとえに科学の進歩に支えられている。ひらたくいえば、地獄は恐ろしいところで閻魔大王や鬼どもにされるがままといった世界が、地獄のそうべいのように生きる世界もあるということだ。
 自分でコントロールするったって、治らない病気を無理矢理治すと言うことではないし、限られた命を無理矢理延ばすことではない。自分の納得のいくところまでコントロールするということである。例え死がおとずれようとそれが自分の納得できる死ならばそれはそれでいいことだし、納得できなければ生きようと努力することである。もちろんそれがかなえられるか否かは判らないことだけど、生きようと努力することは価値のあることだ。おわり

 さて今日は心配していた雪もさほどでもなく、ありがたいことだ。じょんのび坂だけ申し訳程度に雪をかいておしまい。それにしてもじょんは雪が好きだなあ。

 

 

 

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