晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「地名随想」・続編 2/13

2015-02-13 | 雨読

2015.2.13(金)雪

 三和町岼(ゆり)の渋谷神社は我が家の氏神なのだが、ここに土佐坊を祀るという伝説があるそうだ。土佐坊とは源平時代の有名な僧兵で、源氏につかえた土佐坊昌俊のこととされる。手持ちの日本史辞典にはそれらしい名は出てこないが、河出書房版には「土佐坊昌俊-1185 鎌倉時代の武士・僧。もと渋谷の金王丸といい、源義朝に従ったが義朝が殺されてのと出家した」とあるそうだ。後頼朝に従い、京都堀川に義経を襲った、とある。
 また、下川合の宇麻谷神社は土佐坊の馬を祀るという。

三和町岼の渋谷神社と下川合の宇麻谷神社
 「丹波志」に渋谷大明神、祭神渋谷土佐坊、馬谷大明神 祭神渋谷土佐坊の馬というふうに書かれているのが根拠なのだろうが、「天田郡志資料」には渋谷神社は饒速日命(にぎはやひ)、宇麻谷神社、祭神宇麻志麻遲(うましまで)とあるとも書いている。
 渋谷神社は上川合と岼が氏子圏であり、川合でこの地域にのみ土佐という姓がある。土佐坊と渋谷神社を繋ぐものと言えばそのくらいで、思うに渋谷神社という名称があって、渋谷金王丸土佐坊を結びつけたのではないかと思う。宇麻谷神社についても単に宇麻志麻遲命の宇麻(馬)を土佐坊に結びつけたというものではないだろうか。天野氏も、「たとえ土佐坊が川合村に何等かのかかわりがあるとしても、常識的に彼が神として祀られるほどの人物とは考えられない。云々」と書いているが、宇麻谷神社については「馬谷神社を宇麻谷神社とし祭神を宇麻志麻遲命としたのは、後になって神社の権威のため適当に当て字したものではないだろうか。」というふうに土佐坊の馬にこだわっておられるようだ。
 また、地名について上川合に午(うま)サシ口・馬頸、下川合に馬刺という小字があるとして土佐坊の馬を想像させるが、これらは地形地名で馬とは無関係だと思う。
 次に義経(よしつね)であるが、三和町菟原中にあり、歴史の道百選に選ばれている細野峠をに向かう京街道(山陰道)の旧道沿いにある。細野峠を下って福知山方面に向かうには細野峠ー宿ーバンド坂から土師川を渡り、柳瀬でまた土師川を左岸に戻っているのである。ところが旧道は、細野峠ー宿ー馬船口(ここで友渕川を渡る)ー別所ー清水坂ー淵脇ー猪ノ倉ー柏田という風に土師川左岸のみを通過しているのである。この別所の尾根(現在養鶏場がある)の下りの清水坂のあたりが義経である。

菟原中の義経、向こうの尾根を登ると別所となる。
 義経が平氏追討の際、あるいは頼朝に追われるようになった際に丹波を通過したのではないかと様々な資料から推測をされている。しかし仮にこの地を義経が通過したとして地名が残るだろうか。確かに義経ならずとも歴史的な人物が遠征、凱旋した道々には数多くの伝説がその地名にちなんでつくられているものだ。本書でも多くが紹介されているが、それは後日地名を元に作り上げられた伝説であることは明白である。
 では義経というのはなにかというと、これが難しい。街道沿いであることから地形の様子を表すのではないかと想像したのだが、義経←悪しツネ←悪しツエというのはどうだろう。ツエは杖立温泉やサッカーWCで有名になった中津江村などのツエで、これは崖をあらわす地形地名である。ツエがツネに転訛することはよくあり、アシがヨシと読みかえられることも同様である。別所の尾根に登る清水坂は短いが急な場所であり、アシツエと呼ばれても不思議ではない場所だと思うのだが。つづく

【今日のじょん】久々におおいのプールに行こうと家を出る。大町から市ノ瀬あたりに来ると吹雪になってきた。菅坂峠は真っ白で、舞に降りて雪が無かったらおおい町に向かうことにしたが、舞は余計吹雪だった。じょんを待たせておいて買い物をし、尻尾まいて綾部に帰る。綾部は嘘のように雪は無かったが、夕方になると吹雪いてきた。

朝はまずまず、舞は猛吹雪、綾部に帰ると嘘のよう

でも夕方になると雪中行軍となった。 

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