晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(86) 大唐内地名考-2

2015-02-20 | 大唐内のこと

2015.2.20(金)曇り

 大唐内(おがらち)とは変わった地名である。上林の三大不思議地名は大唐内、睦志(虫)、念道かなと思っている。上林の歴史や民俗、地名の研究を始めたのは、亡くなられた土井さんに「大唐内というところに唐(から)という字が使われているのは唐(とう)、中国と関係があるのかなあ、調べてくれいや」といって奥上林村誌をいただいたことに始まる。光明寺と聖徳太子、穴穂部間人皇女の関係、仏谷や骨谷などという地名は姨捨があったのか、こんなことも調べてくれと言われたのが遺言となった。それから5年あまり随分いろんなことを調べたが、本当のことはなかなか解らない。特に地名のことはその地名が一体何を表すかについて例え答えを出したとしても、その証拠はあり得ない。だからなにを言ってもいいのだと思う。現実に様々な説が飛び交っている、問題はそれが多くの人に納得と共感を得られるかどうかと言うことだと思う。そういう意味では地名の由来とか語源というものは永久に仮説であって、極一部近年の合成地名や実在の人物の所有を表す地名などを除いて確証できるものは少ない。だから多くの地名について各論併記となるのは当然である。あとはその土地の地形や環境、そこに住まいする人々の歴史や民俗あるいは生活などを考慮して、納得のいく説を選び出すということだろう。
 前置きが随分長くなったが、大唐内を始め老富の幾つかの地名について考察していきたい。
1.大唐内
 カラ(加羅、韓、唐)の付く地名は多く、渡来人にちなむものであれば朝鮮を示すのが一般的。唐津や唐古など古代の諸外国と関係があったような地域もあるが、地形説もあって一概には言えないようだ。大唐内に最初に居住したのは誰かと想像すると、若狭湾青郷に定着した海人族が関屋川、黒部谷などを経由して峠を越えて入ってきたなどと考えるとロマンではあるが、そうだとしても地名として残るとは考えにくい。唐(から)であったり狛、高麗(こま)であったりする地名でもよほど歴史的にはっきりした状況が無い限り外国や渡来人にちなむ地名とは言えないだろう。まして、大唐内が中国、唐にちなむ地名だとはとうてい考えられない。つづく

最初の文化はあの峠を越えて入ってきた。(胡麻峠方面)
【今日のじょん】じょんの散歩に出ようとしたら、事件が起きた。リュックを担いだ迷彩服の何者かが府道を歩いてきて、隣家との堺を山の方に入っていったのだ。手に銃らしき物を持っていたので猟師かと思った。かみさんも二階から見ていて、「おとーさん怪しい人が登っていったで」と言う。「大丈夫、猟師さんだろう」なんて言っていたが、よく考えると猟師はオレンジ色の服を着ているはずだ。じょんを連れて追っていく、山菜泥棒かな、、なんて考えながら。すると木小屋裏の桧林の中に迷彩色のテントが張ってある。
「なにやってんですか」
「わあびっくりした」
「びっくりするのはこっちやわ、一体何してんですか?」
「府の依頼で猿の調査をしています。捕まえて首輪をつけるんです。麻酔銃を使うんですが、射程距離が短いのでこうして隠れて待ってます」
顔を出すと女性であることが解って余計びっくり。
「昨日なら群れが来ていましたが、たぶんもう来ませんよ、追ったから」
「そうですか、下の方からもう一人入ってますのでもう少し待っています」
てなわけで、猿情報を伝えて、散歩に行く。それにしても、空き家ならともかく人が居る家には一言あってもいいんじゃないか、普通巡査呼ぶで、、、。

確かここ登っていったよね。
府道にこんな車が駐めてあった。
この林にテント張っていたんだけど、1時間ぐらいでいなくなった。

【今日のトレーニング】SWIM3,000m 74分

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする