晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

太郎の屋根に雪ふりつむ 2/6

2015-02-06 | Poem

2015.2.6(金)曇り

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 たった二行の三好達治の「雪」という詩だが、丹波の山奥でも雪の夜には必ず思い浮かぶ誌である。夜の間に降る雪は実に静かだ。屋根や庭の雪が周囲の音をすべて吸収するらしい。
怖いほど静かな雪の夜が明けると、眩しい朝日の積雪の朝が来るのが相場なんだけど、最近は朝もずるずると陰気にくずれていて面白くない。
 それにしてもこの誌の情景は信州か飛騨か越中か越後かはたまた東北の田舎を思い浮かべるのである。ふわふわ、ふわふわと一晩中降り積もる軽い新雪を思うのである。わたし自身もいつも白川郷の雪の夜の情景を思い浮かべていた。
 ところがだ、これがどうも舞の情景であるらしい。確かに舞にも雪は降る。二年前などいきなり6,70cmの積雪があってパニックになったぐらいだ。でも丹波や丹後に降る雪は太郎次郎の雪とは異質なような気がして、意外な感を受けるのだ。舞に降る雪は、海の真近くで、気温が高いせいもあり湿った雪が多い。いわゆるボタン雪というやつである。そして記録的な積雪になるときは、前も見えないくらいの降雪で、情緒も何もあったもんじゃない。服も帽子もびしょ濡れになる雪だ。太郎次郎の屋根に静かに降り積もる雪ではないのだ。

2月1日日曜版名言巡礼、「幼き日の別離 誌の源泉」として掲載
 それでも太郎を眠らせ、太郎の屋根に降り積んだ雪は舞の雪だったようだ。達治がまだ小学校に上がるまえに、舞の家具商に養子に行くことになったそうだ。大阪にいる弟と舞にいる自分の上に雪が降り積もったのだろう。遠く離れていても同じ雪が降ったのだろうと思ったのかもしれない。結局この養子縁談はまとまらなかったのだが、このときの情景を詠んだのだろうという説があるそうだ。1927年の作である。
 わたしはなぜか凄く嬉しい、この二行の誌の雪がわたしの上に降る雪と同じ雪であったことが。
 丹波、丹後の雪は中途半端である。雪が中途半端というより雪に対する人間の態度が中途半端なのかもしれない。北国のように何ヶ月も雪に閉ざされるわけでない。だから雪の季節の過ごし方というのがあるわけでない。根雪になるわけでないから、春の喜びもさほどでない。さりとて雪の無い国のようなわけにはいかないのだ。
 宮沢賢治の「永訣の朝」だけはつらい。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」これだけのことばでどれだけ涙したことだろう。だけどあめゆじゅがわからなければ何も感ずることは無い。
 丹波には太郎の屋根に降りつむ雪もとし子がもとめたあめゆじゅもあるんだ。苦労なくして雪を感じ楽しめるのは、これ程有り難いところは無いのかなとも思う。

【作業日誌 2/6】薪割り、早く割らないと腐ってしまう。

【今日のじょん】夜中の2時頃に吠えまくって、今朝は徹底追跡する。

小屋の横から入った動物が(ここでセンサライト点灯)
ガーデンシェッドの前をとおり
ゴミ箱のところから
スロープ前を通り、ドッグランどの柵を往復
店の玄関から隣家へ向かう 


小動物と鹿の足跡がある
小動物は左へ
鹿は右から
鹿は龍のヒゲを囓り
家の横の雑草を囓り

カナメの外を走り
畑下の斜面を横切り
出どこは山、つまり二頭別々のようだ。

コメント
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