晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「地名随想」・続々編 2/14

2015-02-14 | 雨読

2015.2.14(水)曇り

 「川合村一村断絶について」という驚くべき記事がある。自分の生まれた村に断絶の歴史があるとしたら何とも気になる話だ。この話の元も「丹波志」である。
 「河合村ハ天正年中惣村断絶ス 後岼村(本村ナリ)始ル寺モ同シ 領主帳面ニ河合一村ナリ 後岼村ヨリ出戸シ六箇ト成 岼村ニ村長アリ樋口氏一人ナリ 寺モ當楽寺斗也、、、」と続く。
 天正年間に何らかの事情で断絶し村がつぶれたので村内六か村がひとつとなり、河合村と呼ばれ、村長(むらおさと読むのだろう)も一人、寺も一か寺(當楽寺は常楽寺のことか)とされた。

村で唯一の食料品店だった土佐商店は閉まっていた。(2012.10)土佐坊と縁が有りや無しや。
 本書では、明智光秀、小野木縫殿介による断絶、豊臣秀吉の検地、刀狩りによる断絶など候補に挙げられているが、河合村断絶と関係すると見られる資料は無い。三和町史にも光秀、小野木氏や秀吉の検地についての記述はあるが、河合村断絶に関する記述は見当たらない。
 三和町史は近隣の地方史の中でも編集年度が浅く大変よくできた地方史だと思っている。その中で「丹波志」の記述は多く利用されているが、河合村断絶の記事は無い。嘘か誠かは別として、一村の断絶に関する記事が見られないのは、そのことに関してあまりにも資料が乏しいということだろうか。
 歴史を探っていると各村の微妙な差異が感じられる事があり、川合について思うことは二つある。一つは川合の地名に準拠した姓が見当たらないことだ。上林の場合、もちろん他所からこの地に入ってきた人々の姓が多いのだが、よく観察すると地元の地名と同じ、あるいは関連のある姓が見受けられる。ところが川合にはそれが見受けられない。かといって地名は新しいものばかりではない。

加用から上川合に出てきたところ、向こうに見える坂が岼との堺。その先を遡ると綾部市の田野町に出る。
 もう一つは岼と上川合の関係で、実はこの二つの村に寺、神社が一つなのであり、どちらも岼に在る。これは川合のどの村をみても無いことで、そのことによって様々な論争がおこっており、三和町史に詳しい。神社は渋谷神社、寺は常楽寺である。「丹波志」にある河合村断絶中の村は河合村で本来の村は大原、台頭(だいと)、岼、下川合、加用(かよ)の地域で呼ばれており、上川合は無い。
 これらのことを考えると、かつて断絶があったが為の現象かなと思わないでもないが、なにしろそれを示す証拠、資料が何も無いので軽々に判断を下すわけにはいかない。
 しかし普通の歴史家や郷土史家が取り上げない面白い話をよくぞ研究されたものだ、わたしごのみの本である。おわり

【今日のじょん】予想はしていたがやはり積雪はあった。除雪車が入っていたので20cmはあるかなと思ったが、果たして19cmの積雪だった。これで今年の雪は例年以上のお墨付きが出そうだ。ただ降り方が一気であったり継続的でないため根雪にならない。だから積もっては消え、消えては積もりしている。ある意味では助かっているのだが、正月以降天候が悪いのははっきりしている。いくら山陰といえども晴れの暖かい日は何日かあるのだが、それが無い。ただ気温は驚くような低温は無く、最低でも-2℃だった。まあいいのか悪いのか知らないが、春に憧れて暮らすというのもそれはそれで風情がある。

じょんは喜んでいるのダ。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする