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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「日本の聖と賤 中世篇」-1 2/2

2015-02-02 | 雨読

2015.2.2(月)曇り、雪

 日本の歴史を探ると常にとされた人々に突き当たる。例えばこれまでに書いてきた、隼人、蝦夷、渡来人、古代製鉄、古代の測量や建築、街道、古代から近世に至る葬送、中世近世の鍛冶師・鋳物師・鉱山師、山民・海人・サンカ、木地師、芸能、習俗とまあありとあらゆる分野を調べていくと、あるいは制度に突き当たるのである。つまり日本の文化や技術といったものは歴史的に見ると、豪族や貴族や武士といった身分制度の上層にいたものによって発展したのではなく、底辺にいた者達によって育まれたものだと考えられる。ところがそのことは歴史の教科書にはついぞ現れず、むしろタブー視さえされているように見える。
 先日テレビのクイズ番組で、「徳川家康が病気になった際にかかりつけの医者は身体に触ることが許されていないので、どのようにして脈を測ったでしょうか」というのがあった。答えは聴診器だったか忘れたけれど、問題はなぜ将軍に触れなかったかということである。普通は将軍が位が高いので尊いものとされ、恐れ多くて触れないものと思うだろう。それもあるだろうが、触って脈を取らなければ診断も出来ないわけで、理由は他にもあるだろう。医師(くすし)が賤視されていたことをどこかの本で読んだことがある。現在では尊敬され信頼される医師がかつては賤視されており、鍛冶師、鋳物師、藍染め屋、庭師など当時重要な仕事をする職人も賤視され、差別されていたのである。
 の発生は遠く古代に遡るのだが、その発生の要因であるとか、近世との脈絡などとかいう問題については学校や職場で永年受けてきた人権教育では語られなかったかもしくは研究がすすむにつれて学説が変わってきているかの感を受ける。今一度その辺のところを学習し直そうと読み始めたのが、「日本の聖と賤」中世篇および近世篇である。
 「日本の聖と賤 中世篇」野間宏・沖浦和光 人文書院 1985年7月初版 古書

 全巻両氏の対談形式で書かれている。「狭山裁判」を岩波新書で読んだことがあるが、野間宏氏がその著者であったことは今気付いた。沖浦氏は憶えのある名前だなあと思いつつ書庫を見ると実に多くの本を所持していたので驚いている。「幻の漂流民サンカ」(雨読で紹介済み2013.6.20)「瀬戸内の民俗史」「竹の民俗史」「日本民衆文化の原郷」「天皇の国の国」などである。
 本書を読んで、納得する点がいくつかあったので、アトランダムに紹介してみよう。
 の発生というと、自然発生的に聞こえるがもちろん自然に発生するものではなく、時代時代の支配者、為政者、権力者といったところの都合でつくられたものだが、それらにとりいれられた仏教に起因するものが多くある。それは弾圧というかたちで現れるもので、古代においては祭祀の主役であった巫女や呪術者である。そして陰陽師、修験道、聖(ひじり)なども弾圧され賤視されるようになる。これは一体どういうことなのだろう。つづく

【今日のじょん】今朝も降雪、でも降雪量はしれているのだ。正月以来かくほどの雪も降らず、ありがたいと言えばありがたいのだが、とにかく晴天日は無い。雨、曇り、雪のどれかである。困っているのが獣たちで、連日民家の周囲をうろついている。いそがしいのがじょん君で、朝の仕事は嗅ぎ廻ること。今日も玄関周りをひとしきり嗅いでいたら、なにやら怪しい糞らしきものが有り、掃除する。写真は河原に続く道の足跡、これは犬みたい。

 
雪の中にも梅の芽がほころんでいるのが嬉しい。


 
 

コメント
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