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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「墓と埋葬と江戸時代」 2/4

2015-02-04 | 雨読

2015.2.4(水)曇り

 これまで沢山の本を読んできたかが、表紙絵に惹かれて読んだ本は初めてである。「安政午秋頃痢流行記」と記されたこの絵は、安政五年(1858年)に全国に大流行した頃痢(コロリ、コレラのこと)による死者を処理する江戸の葬送関係者の様子を示したものだろう。江戸での死者は10万とも26万人ともいわれている。安政年間前期の江戸の人口が56,7万人の様子だから、この死者の数は多く見積もった場合は半数近くが亡くなったという結果となる。
 となるとこの絵のように棺に収められて埋葬された人は極限られた上層部の人間で、一般の町民はもっと悲惨な状況で葬られたと考えるべきだろう。ただこの本はその内容を伝える目的のものではないので、その実態はわからない。
 「墓と埋葬と江戸時代」江戸遺跡研究会編 吉川弘文館 2004年8月第一刷発行 府立図書館借本

表紙と裏表紙に安政五年のコロリによる葬送の絵が載っている。

 表紙の絵に惹かれたという事もあるが、中世以降の葬送ということについて考古学的に著述してある書物は非常に少ないので本書を選んだわけである。過去に多くの葬送、墓制に関する本を読んだが、考古学的に解明している本は「墓と葬送の中世」狭川真一著と「穴の考古学」赤星直忠著(2014.7.5参照)のみである。他はほとんどが古文書の解読から葬送墓制に迫っていると言うものである。
 近世の江戸での葬送形態が上方と随分違っていることに気付く。上方では幾つかの火葬場が設置され、大部分が火葬に処されていた。墓地域内に火葬場があるというかたち、あるいは火葬場の近隣に墓地が存在するという形態で、火葬骨が埋葬されるという状態がほとんどであった。ところが江戸では逆の状態で土葬がほとんどで、基本的に寺院内墓地に埋葬されたようである。寛永寺護国院他4寺の墓所の埋葬施設数を見ても、総計1,110施設の内、火葬蔵骨器とその他火葬墓を足した数は91施設で、8.2%となり、畿内の状況と正反対であることが解る。都市部においては火葬という図式は成り立たないということが解った。
 おんぼう(、三昧聖)は畿内においては火葬でも土葬でも扱っていたが、江戸においてはもっぱら火葬を担当していたようだ。畿内のように、煙亡などと賤視される度合いは低いようで、公的文書にもおんぼうと記されず、僧侶として扱われ、「おんぼう」という身分は江戸には存在しなかったとしている。ただ教団内では火葬扱い者は一般僧侶とは別に扱われ、差別観念が存在していたとされている。
 「江戸時代人の身長と棺の大きさ」という論文があり、発掘される墓坑や方形木棺、早桶(桶形の棺)が人間の大きさに対し異常に小さいという報告がある。日本人の体格を縄文時代から近代まで比較すると、江戸時代前期が最も小さく女性143cm、男性155cmあたりだという。それでも棺の大きさは早桶で口径50~60cm、深さが45~60cmとなっている。方形の場合は25×45×25cm、50×79×27cmの報告がある。これはどう見ても無理矢理遺体を折りたたんで縄で縛るなどの方策が必要で、埋葬場所の困難性が原因かと結論づけている。
 火葬を主体とした畿内都市部でも遺骨や灰の処理に難渋したぐらいだから、江戸の町で土葬をしかも限られた寺院の墓所で行ったがために江戸時代の後半では悲惨な状況となっていたらしい。そのことが明治になって郊外に広大な霊園墓地をつくるきっかけとなったようだ。「お骨のゆくえ」(横田睦著 2014.10.28参照)に詳しい。
 もう一つ、鍋被り葬という奇妙な葬法について書かれている論文がある。頭部に鍋をかぶせて埋葬しているものだが、東日本に多い。病気死亡、盆期間中の死亡の伝承が残っている。埋葬場所の関係などから、ハンセン病、結核などで死亡した場合にこういう葬法があったのではないかと書かれている。

【今日のじょん】

夕べは鹿が鳴いていたので探索。左から
倉庫の裏、隣地の畑で足跡発見
梅の木の横から府道に降りている
出所を探すとやっぱり山

府道を渡り空き地に続いている
そして竹藪に消えている
その近所には小動物の足跡も、、、

 

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