晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

続・老いるということ 2/1

2015-02-01 | 日記・エッセイ・コラム

2015.2.1(日)雪

 先日オグシオの小椋さんだか潮田さんだかがテレビで「小さくてもいいから目標を持つこと、目標以上の結果がやってくることはない」とおっしゃっていた。実にいいことを言われるなあと感心していたのだが、そういえばマラソンランナーの君原賢二さんが「あの街角まで、あの電柱まで、、、」と言っておられたことを思い出す。
 トライアスロンをやっていたわたしにはよく解る。練習しているときはゴールしている光景だけを思い浮かべて頑張るのだけど、実際のレースになり、特に最後のフルマラソンとなると、「あの街角まで、あの電柱まで、、」ということになる。大きな目標のゴールではなく、目の前の小さな目標を目指すことになるのだ。人生も同じことだと思う、ゴールは満足した往生ということになるのだろうが、日々生きていくぶんにはそんな目標は持てない。目に見える小さな目標を次々と持っていくことだろう。その積み重ねが最後の目標に繋がる。
 心身共に衰えの来る老境を目的もなくだらだらと生きるのは、一見楽に見えて実はとても危険な状況だと思う。老化の促進は加速度的になるだろう。
 そしてもう一つ大切なポリシーは、「生老病死をコントロールする」ということである。このことこそ人間らしい生き方であると思うのだ。かつての人間には生はともかく老病死はあるがままに受け入れざるを得ないものだった。ところが今日ではこれらのことが自らの意志である程度コントロールできる状況となっている。それはひとえに科学の進歩に支えられている。ひらたくいえば、地獄は恐ろしいところで閻魔大王や鬼どもにされるがままといった世界が、地獄のそうべいのように生きる世界もあるということだ。
 自分でコントロールするったって、治らない病気を無理矢理治すと言うことではないし、限られた命を無理矢理延ばすことではない。自分の納得のいくところまでコントロールするということである。例え死がおとずれようとそれが自分の納得できる死ならばそれはそれでいいことだし、納得できなければ生きようと努力することである。もちろんそれがかなえられるか否かは判らないことだけど、生きようと努力することは価値のあることだ。おわり

 さて今日は心配していた雪もさほどでもなく、ありがたいことだ。じょんのび坂だけ申し訳程度に雪をかいておしまい。それにしてもじょんは雪が好きだなあ。

 

 

 

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