晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(91) 大唐内地名考-6 2/25

2015-02-25 | 大唐内のこと

2015.2.25(水)曇り 大唐内のこと(89)は2015.2.23

 古い記事を繰っていたら、「大唐内のこと」の号数が重複しているのが見つかった、従って今回(91)が正当とする。
 大唐内=河内=小路という構図がにわかに信じられないという方も多いだろう。しかし河内(かわち)=河内ヶ野(こうじがの)なら誰でも信じるだろう。字面のマジックとでも言おうか、これは同じものだと感じるわけだ。小路から直線距離にしたら4Kmあたりのところに河内ヶ野はある。ところがこの地は小路のように河内地形をしているわけではない。つまり河内ヶ野は土師川の湾曲と細見川に囲まれた段丘状の地で、水を得るには両河川ともかなり遠い状況にあると思われる。地理院地図で見ると河内ヶ野の南西部に大きな溜池が見られ、おそらく西部の山水に頼っていたと思われる。つまり同じ河内でも、小路や大唐内とは性格を異にしており、多くの地名研究者がこの二つの河内を同一に扱ったがたために矛盾と混乱が起きていると考える。
 河川の中上流域において土砂が堆積し耕作居住に適した平地が出来上がった河内(河縁)と主に下流域で川と山脈、川と川に囲まれた豊かな土壌の平地である河内を分けて考えることを提唱する。
 三和町の河内ヶ野は京街道が辻から柏田に至る道中にあり、菟原中の別所、柏田から細野峠に至る新旧京街道の探査のために通った道である。(2012.11.8~参照)
このことで、河内がこーじと転訛することが理解できると思う。

三和町辻の京街道は国道九号線の西、細見川を渡り旧街道の街並みを南進、愛宕社の前をとおり、柏田に至る。この部分が河内ヶ野(こうじがの)である。
愛宕社の幟に河内ヶ野中の文字が見える。柏田の道わけ地蔵、右ささ山道、左京と見える。
 大唐内が大河内だとすると、上林周辺に河内地名が他に存在していいものだと思うが、実にこれが見つからない。航空写真で見ると明らかな河内地形は幾つかあるのだが、その地が河内地名とはなっていない。ところが口上林から奥上林まで、荒神、神子という地名が幾つかある。コージン、ミコと読みならしているようだが、どちらもコージと読んでもおかしくない。特に荒神の場合荒神さんが祀ってあればそれにちなむものと思えるが、神子の場合は巫女にちなむと考えるのは違和感がある。つまり荒神、神子地名のところが如何なる地形か調べる必要があるようだ。
 地名の分布は都道府県など行政の境界というよりも、その文化圏に分布するものと考えられる。大唐内であれば、若狭の文化が大きく作用していると考えられるが、実は大唐内のとなりの高浜町の地名を見ても河内地名は見当たらないのが残念である。地名というのは一筋縄でいかないものだ。

【作業日誌 2/25】店先バリアフリー、とにかく出来上がったが、実際に現地にもっていくとサイズは合わないわ、ドアは開かないわで大変。削ったりはつったりでおおわらわ。

【今日のじょん】久々にどんべえに会ったらえらい毛が抜けて、ぼろぼろになっていたぞ。春ですなー。

 
 

 


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