晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(3) 8/15

2013-08-16 | 上林地名考

2013.8.15(木)晴れ 八木町日置-2

 日置を訪れるに当たって期待していたことは、大送神社から西光寺あるいは飯盛山やそのコルが見えること、できれば神社そのものが西を向いていないかと言うことである。ではなぜ大送神社かということだが、やはり古代の日置の地理的にも精神的にも中心であろうと思うからであって、西光寺と大送神社が東西の一直線上にあるということもその理由になっている。
 では大送神社とはどのような神社なのだろうか。
 住所は南丹市八木町日置東中里17にあり、府道408号線沿いの日置公民館から数分のところで日置の集落の中心部と思われる。
 祭神は高皇産霊(たかみむすび)命で、摂末社に厳島神社、八幡宮、平野神社、天満宮、熊野神社とある。創祀時期は定かではないが言い伝えでは和銅元年(708年)といわれており、古社であることには違いない。P1060806

 


大送神社本殿
 
 

 1月17日の綱引き神事は京都府の無形民俗文化財に登録されており、大蛇退治の伝説にちなむもののようだ。綱引きの前に大蛇の目に見立てた的を弓で射る神事が行われる。
 また、10月21日には氷所の幡日佐神社との間で夫婦神事が行われている。神事の後に流鏑馬が行われているという。
 これらが大送神社の概要であるが、祭神や神事からどのような神社であるか判断する能力はわたしには無い。
 ただ期待していた神社の向きは残念ながら西ではなく南向きで、出雲大社のように祭神が社殿の向きの真横に向いているということもなさそうだ。
 ただ主祭神の高皇産霊命という神様は高木神と言う風に言われているが、古代神社などの建築に当たって山と山を結んだラインの交錯する位置が弥盛地(いやしろち)とされ、山の高みと高みを結ぶという意味だという説も見かけた。測量や観測に関連する神社などに祀られていることが多いとあったので、少し頭に入れておこう。
 さて神社が西を向いていないとなると、西光寺の上に落ちる落日はどこから見られるのだろう。もし大送神社が古代からの神社だとしたら、創建当時はもちろん社殿など無かったろうし、どこからでも落日を見ることは出来ただろう。
 社殿の建て替えは嘉永3年(1850年)、鳥居には安政の銘があるのでいずれも近世のものであるが、元々神社というのは南向きが基本だそうだ。
 境内を巡っていると、本殿右手に気になる二つの末社を見つけた。一つは池の島の中にある厳島神社であり、もう一つは鳥居があって祠の無い、正二位大送大明神の灯籠のあるものである。この二社は西を向いているのである。
P1060802P1060803


 

厳島神社と大送大明神は西向きである。

 大送大明神というのは石段の上に鳥居があって、その奥つまり境内の東の端に一抱えほどの磐座があり、その表面は真っ平らになっている。その磐座の後ろに1mあまりの棒が立っており、その先端部にちいさな祠が取り付けられている。御神体は一体何だろう、もちろんちいさな祠の中のものが御神体と考えるのが妥当ではあるが、元々祀られているものは磐座かもしれないし、祠の付いている棒かもしれない。
P1060805

 


一体何が御神体だろう。

 現在では周囲の木が茂っているので、日が差すことはないが、周囲に何も無ければ、春分秋分の朝日が作る棒の影は、磐座の平らな表面の上に東西の線を描き出すはずだ。これは少し想像を膨らましすぎだろうか。つづく

【今日のじょん】訃報 昨日13時頃、じょんの兄弟であるマーブルが亡くなった。5年と5ヶ月近く、短い命だった。今月の初めに急に容態が悪くなり、3日に入院している。自己免疫性溶血性貧血という驚くような病気である。緊急入院して輸血や投薬治療を行って、お盆前に退院していたのだが、急にまた発症したのだろうか遂に帰らぬ犬となってしまった。火葬場に行く前にじょんも一緒に見送ったのだが、いつものようにはしゃがないのは、別れということがわかっていたのだろうか。P1050041



この日が、じょんとマーブルの今生の別れであった。(8月3日)



  

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日置のこと(2) 8/14

2013-08-16 | 上林地名考

2013.8.14(水)快晴  八木町日置-1

 南丹市八木町の南丹病院に歯科治療で通うようになって、せっかく時間と労力を費やして通うのだから、この辺の歴史でも探ろうと周辺の神社などを訪れた。一番最初に訪れたのは日置である。と言っても公民館の前に車を止めて、「ここが日置か」と確かめただけである。若い頃、自転車の練習コースであり、何度も走っているのだが、日置があるということは気がつかなかった。というより気が無かったのだ。知らない土地を訪問するとき、闇雲に行くわけでは無い。今回の当初の目的は八木町船枝にロクロヶ谷という地名があって、元木地屋が住まいしていたと思われるのでどんなところか確かめたかったというものである。
 府道沿いで気になった京都帝釈天に登る。予想以上に古くて立派な帝釈天に驚くが、その参道入り口の灯籠に盃状穴を見つける。随分立派な盃状穴にもかかわらず、帝釈天本堂や他の地域に見つからないことに不審を感じる。盃状穴を穿つ風習があったなら、他にも必ず穿つだろうという思いだ。船井神社、久留守神社、岡神社、荒井神社には無かったが、鳥羽の八幡神社の石段と手水鉢に強烈な盃状穴を見つける。そうこうしているうちに、この地に飯盛山があることがわかる。美里の西光寺は飯盛山西光寺で、その上にあるのが飯盛山ということだ。
P1040790

 



飯盛山西光寺阿弥陀堂

「飯の山の秘密」(岩田朱美)に京都御所との鏡通信の伝承がある旨書かれている。西光寺に通って調べたところ、これは本堂の横の尾根上にある明治記念碑という西南戦争の慰霊塔にはめられた鏡が遠く老の坂辺りから反射して見えたというもので、鏡通信云々という伝承は無いようだ。しかし慰霊塔に鏡をはめ込むというのはあまり見たことがなく、明治24年記念碑が建てられた頃に何らかの伝承があったのかもしれない。意味も無く鏡をはめ込むというのは考えられない。
P1040940




明治記念碑、6mほどあるだろうか上部に丸い鏡がはめ込まれている。(現在はステンレスに取り替えられている)

 飯盛山西光寺に通っている間に、飯盛山が神奈備形をしていないことに気づく。その頃読み始めた「大和の原像」(小川光三著)に磯城の瑞籬の宮と二上山の関係が書かれていたのに気づく。瑞籬の宮から真西に当たる二上山のコルには春分、秋分に落日が落ちるのだ。
 同様に、西光寺の上にある飯森山のコルに落ちる夕日は、真東の可視上の地点となる。おそるおそる地図を見るとなんとそこが日置になるのだ、しかも西光寺と日置の大送(おおくり)神社は緯度が同一なのである。大送神社の真西に西光寺があるということになる。P1060801

 


大送神社本殿は南を向いているが、この地で太陽観測をしたのだろうか。

 「大和の原像」では二上山の更に西は黄泉の国とされ多くの古墳や墓地があると書かれている。飯盛山を越えた西には少し北に振れるが向河原の遺跡があり、古代からの葬地であるという。このことは同時に調査している小山別所の件で知ることとなった。
 八木町周辺には住吉神社が多く、住吉三神が祀られている。古代海人族の影響が強いところだろう。桂川の船運、船井、船岡、船枝などの船地名もこれらに基づくものだろう。
海人族→太陽信仰→太陽観測→日置氏といった構図が証明できれば、日置の謎も解明できるかもと、日置を訪れることになったのである。

【今日のじょん】今夜は地域の納涼祭、例年のように出店を出しているのだが、今年はじょんはお留守番。豪勢な花火が上がるので心配したが、どうも知らん顔して寝ていたようだ。
 
 

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日置のこと(1) 8/13

2013-08-15 | 上林地名考

2013.8.13(火)

 【晴徨雨読】の読者の方に「他所のことばかり書かないで上林地元のことを書いてください」と言われた。記事の内容を見てそのように感じられるのはもっともなことなのだが、実は上林の地名のことを解明するために他所の地域を調べているのである。
 例えば猪鼻(京丹波町)や胡麻(南丹市)は老富町の猪鼻峠や胡麻峠を意識して探究しているわけだし、飯盛山の研究も老富町の丸山(生守ヶ嶽)の探究のためになされていることである。
Img_1816

 


2010.11.23、弥仙山から日置谷に下山してきた。

わたしの最終的な目標は上林の地名と歴史を探ることである。そのために各地の同じ地名や関連する事項を調べるために訪問しているのである。いくつかの上林の地名について考察していたが、どれ一つとして確信出来るものはない。逆に引地(ひきじ)など、混迷に陥ってしまって頓挫しているものもある。
 日置地名は各地にあり、研究者も取り扱っている地名なのですぐに由来がわかると思っていたが、実はなかなか困難である。鏡味完二氏の地名の語源には、 「ヒキ  (1)ヒオキ(2)低い(3)ひきがえる」、とある。
「ヒオキ 日置部の居住地。西南日本に分布。ヒキ・ヘキとも。〔日置〕一説にキ族という低地の南方人<松岡静雄>」とあり、余計なんだかわからない。
 つまり地名なんてのは辞書で簡単に意味がわかるものではないのだ。
(3)のヒキガエルは無関係のようだし、(2)の低いというのは例えば引地(ひきじ)のヒキを言っているのだろう。一般に引地は低いところという風にどこかの学者が言ったのだろうか一般的になっているが、わたしの調べた引地の大部分は山の高いところにあった。結果(1)のヒオキということになり、日置部の居住地となるのだが、この日置部たるや謎の氏族で一筋縄では解明できない。
 上林の日置の解明は相当長くかかりそうだ。
 とっかかりとして南丹市八木町の日置を訪れた。つづくP1060822



筏森山の山稜から八木町日置を望む。


【今日のじょん】カメラが壊れたので休みます。元気しております。
 

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雨読 大和の原像(3) 8/12

2013-08-14 | 雨読

2013.8.12(月) 快晴

 柿本人麿の歌に「大穴道(おおなむち) 少御神(すくなみかみ)の作らしし
 妹勢の山を 見らくもよしも」と言うのがあって、大己貴(おおなむち)命、少彦名(すくなひこな)命の二神が登場するのだが、大己貴命とは出雲の大国主命のことである。日本書紀ではオオアナムチと読まれており、人麿が大穴道と書いても不思議ではないとしている。
 古代の人々の考え方は西海に大穴があり、東から出た太陽は天空を横断して、やがてこの大穴に入り、翌日再び東から昇るというものである。本州の最西端は長門国であるが書紀では「穴門の国」と書かれているそうだ。
 こういった考え方は日本だけで無く、太陽信仰の国では多いようで、エジプトにもそのようなレリーフがあったように記憶している。
 テレビ「不思議発見」を見ていたら、スフインクスは両側のピラミッドの影の間に沈む夕日を表しているという。大和の二上山のコルに沈む夕日とのあまりの一致に驚く。
 大穴道とは太陽の沈む大穴に至る道と解して、穴道が穴虫と呼ばれるようになったというのが小川氏の発想である。
 三輪山の麓、檜原神社からは春分秋分に穴虫峠の落日が見られるのである。
 穴虫という地名は珍しい地名である。綾部市中探しても見当たらなかった。ところが丹波国分寺(亀岡市千歳町)を探していて、河原林町、千代川町に穴虫の小字を見つけた。これは是非訪ねてみたい、どこかから落日が見られるというようなところなのだろうか。そして亀岡は出雲と縁の深いと思われる地域だからなおさらである。おわり
P1060784



代川町穴虫は手前の尾根が両側から下りてきたところだが、この位置からは落日は向こうの山に落ちて、穴虫には落ちない。大穴に至る道と解すれば理屈は合うが。(千歳町千歳付近から)


【今日のじょん】休みます。元気です。

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雨読 大和の原像(2) 8/11

2013-08-12 | 雨読

2013.8.11(日)晴れ

 昨日で本書についての記事は終了しようと思っていたのだが、本書からヒントを得た事項がいくつかあるので紹介しておきたい。
 一つは飯盛山シリーズの一環で最近通い続けている八木町美里の飯盛山西光寺についてである。飯盛山については古代測量の基準点、観測点という観点で調査を続けているところである。ところが他の飯盛山と違い、この山は神奈備形、飯盛形をしていないのだ。西方面からの景色のみ見ていないのだが、その他からの形状は、三角形の山というより、M字形の双耳峰なのだ。不思議に思っていたところに出会ったのが本書の「二上山の落陽」である。磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)跡(注1)から春分、秋分の日の落日が二上山の雄岳、雌岳の間のコルに落ちるのである。
P1040959



飯盛山はピークよりコルが目立つ(東南から望む)
 
 つまりこのコルに日が沈む日が春分、秋分と確定できるわけである。そして八十八夜のように、春分から何日目に種をまくとかいった農事暦が出来上がるわけである。また日の出は山頂が観測しやすいが、日没はコル、峠が観測しやすい、と言うのも理にかなっている。

 と言うわけで春分、秋分に日に飯森山のコルに落ちる陽を見ることが出来る地はとその真東を辿ってゆく。そこに日置の地名を見つけてびっくり、日置が古代の測量や観測の地であるということは聞いていたが、確たる証拠を見たわけでは無かった。しかも日置の大送神社(おおくりじんじゃ)と西光寺は緯度が秒単位まで同じなのだ。これは何かあると思うのが当然であるし、次回の訪問が待ち遠しく思われるのである。大送神社から飯盛山のコルはどう見えるだろうか、西光寺は見えるのだろうか、夏至、冬至の落日はどこに落ちるのだろうか、などと夢は膨らむのである。
 もう一つは穴虫(あなむし)の地名である。地名の研究を始めた当初から”穴””虫”については興味の湧くところであった。古代史を金属を媒体として解こうとする学者にとって穴は鉱山を表す恰好の対象物である。黒鍬で知られる滋賀県の穴太(あのう)も亀岡市の穴太も金属の香りがする。
 また、虫も与謝野町温江(あつえ)虫本や越前市大虫町にある大虫神社(注2)なども金属に関連するだろう地域だし、上林の睦志(かつての虫村)やおおい町の虫鹿野なども金属に縁がありそうだ。
 ところが本書では古代に大変重要な位置にあった穴虫峠について画期的な説を提唱しておられるのだ。つづく

【今日のじょん】昨日マーブルが退院してきた。おそらく最高の治療をされたことだろうが、後はマーブルの持つ生命力如何となるのだろう。わたしたちとしてはガンバレヨと祈るしか無い。

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雨読 大和の原像(1) 8/10

2013-08-11 | 雨読

2013.8.10(土)晴れ

 「知られざる古代 太陽の道」の序文に出てくるM氏というのは松本清張氏だというのはすぐにわかるが、O氏というのは誰だかわからなかった。この本を読み始めて初めてO氏というのが著者の小川光三氏であることがわかる。NHKの取材番組ともなった「謎の北緯三四度三二分をゆく」の原点ともなったのが小川光三氏の檜原神社箸墓、菅原神社などをむすび穴虫峠を結ぶ太陽の道の発見であろう。つまり「知られざる古代」は「大和の原像」あってのものだろうと思う。
 しかし本書を読むきっかけとなったのは前回雨読で紹介した「古代史を解く三角形」によってである。この本をあまり評価をしているわけでは無いが、大谷幸市氏が研究を始められるきっかけもどうやら「大和の原像」のようである。そんなときいつも注文をしているリーズナブルな古本屋さんにこの本が出されたのである。偶然と言えば偶然だが、手にして3日間ぐらいで読んでしまった。
 「大和の原像 古代祭祀と崇神王朝」小川光三著 大和書房 1973年1月初版 古書
P1050024

 


 小川光三(おがわこうぞう)氏は異色である。本職は写真家である、奈良国立博物館の向かいに(株)飛鳥園という会社があり、その取締役をされているという。奈良の仏像や寺社の風景を撮り続けファインダーを覗いてこられた眼が太陽の道を発見されたのだろう。太陽の道とは奈良の多くの神社を繋いで東は伊勢の斎宮に至り、西は淡路島の伊勢の森に至る長大な直線である。今日ではこういったレイラインの研究が進み、多くの論文があり、多くのラインが公表されている。しかしその原点がこの一冊なのではないだろうか。
 氏の様々な発見に至る経緯は科学者の原点である、「なぜだろう」という疑問から発している。なぜだろうを突き詰めて新たな発見をするというパターンが読者を魅了させる。推理小説を読んでいくような臨場感が湧いてくる。穴師兵主神社跡の発見などは代表的なものだ。
 そしてファインダーを覗く眼は芸術家としての眼であるから、学者が見つめるものとは視点が違う、ピントの合わせ所が違うのだ。従ってユニークな論が登場する。
都祁邪馬台国説や箸墓灌漑設備説である。わたしにはこれらを肯定も否定も出来ないが、一般の歴史学者はこのような発想を出来ないだろう。
 この本の価値を高めていることはこれらの他に、流ちょうで風格のある文章で綴られていることと氏自ら写されたであろう多くの素晴らしい写真が挿入されていることである。
 本書にヒントを得て丹波でもいくつかの発見をした。それらは日置や飯盛山の文の中でご紹介したい。わたしの最も大切な蔵書となった。

【今日のじょん】じょんは散歩時に明確な意思を持っている。何事も無いときはいつも通りのコースを行くが、妙なところへ行きたがるときがある。なぜか林道に入りたがったとき、思い出せば夕べ何者かがこの方向へ逃げて行ったのだ。P1050075


 

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百鬼夜行(4) 8/9

2013-08-10 | 日記・エッセイ・コラム

2013.8.9(金)晴れ

 事件が起きたのは8月6日の事なのだが、その前に小事があった。昨晩の吠えは3回、最も早いのは5日の午後9時過ぎ、風呂に入っている時なので確認は出来なかった。後の2回はいつものように深夜のことである。
 小事件は玄関前の糞である。先日の種子を含んだ獣の糞が発見された後だから気になるところだ。ところがこの糞は細くて種子などの混入物は無い。どうみても犬の糞のような気がする。混入物が何も無いところを見ると飼い犬のようだ。となると犯人はもう決まったようなものなのだが、証拠は無い。放って置くわけにいかないので、処分するが、最近では犬の糞の始末で殺人事件まで起こる時節だから要注意だ。
P1050060

 



これは野生動物の糞では無い。すぐ近くにたばこの吸い殻まであったのは気になるところ。

  さて事件は畑に起きた。仕掛けたネズミ取りにネズミがかかったのだ。ここまでは当たり前のことで事件ではないのだが、先ほどの犬らしき糞を処分しようとスコップを取りに畑の横の倉庫に行ったとき、倉庫と畑の間の小石の上にマムシがとぐろを巻いているのだ。その先でネズミはぴくぴく動いている。もう一度マムシか否か確認する、太さや紋はマムシそのものだ。とたんに殺意が芽生える、マムシはとにかく殺さねば。
P1050061P1050062




ネズミ取りにかかったネズミを狙ってか、マムシがこの小石のところにとぐろを巻いていた。


 ところがリードを外したじょんが後ろにいる。いっちょかみのじょんがちょっかい出して噛まれたら大変だ。まだ気づいてないじょんを家の中に入れて、殺すための道具を探しに行く。三角ホーがあったので持ち出すが、これはかみさんが草引きに使っている。これでマムシをたたき殺したら二度と草を引かないのではないか、妙に気を回して他のものを探す。手頃な棒きれがあったので、おっかなびっくり元居た場所に行くと、やつの姿はどこにも無い。ありゃあ取り逃がしてしまった。
 サッカーの格言に「goalが見えたら打て」というのがある、「マムシが居たら殺せ」、将にそれである。しのごのと余計な気を回してるうちにたたき殺すべきだった。
 それ以降、畑に入るのや、夜の庭の怖いこと。
 その後も百鬼夜行は続いており、じょんは昼間寝ては深夜に吠え続けている。昼寝られないわたしたちはだんだん衰弱してゆく。なんとか捕獲して抹殺しなくては、と言う気持ちになってきた。ナズミ取りでなんとかなんてやわな方法じゃあ間に合わない。とりあえず終わり。
P1050069



鹿も夜な夜な来ているが、いまのところ被害は畑の外に飛び出したカボチャの葉っぱのみ。


 
 

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百鬼夜行(3) 8/8

2013-08-09 | 日記・エッセイ・コラム

2013.8.8(木)晴れ、雷雨

 その翌日(8月5日)も深夜の吠えは続いたが、姿を確認することは出来なかった。ところが朝になってじょんが畑の方に行く、嫌な予感がしてトマトの畝を見ると、すっかりやられている。夏野菜も充分楽しんだし、昨日の被害も下の方の極一部だったしという心の油断を完璧に突かれて、大も小も赤いトマトは皆無になってしまった。
P1050056P1050054


 

食い散らかされたトマト

丹精込めて作った野菜や作物を獲られることの悔しさ、虚しさは作り育てて獲られた者にしかわからない。獣害の損失というのは被害作物の値段では無い、被害に遭った者の心の損失の方が計り知れないほど多いのだ。
 キュウリ、ナス、ピーマン、カボチャ、オクラが育っているがこれは問題ないようだ。次にトマトが赤くなるまではやられないからその間に対策をしよう。
  防鳥ネットが有効なのは知っているが、このネットを張ったら作業がしにくいことこの上ない。
 以前、アライグマの被害に弱っていたのだが、当のアライグマが交通事故に遭い死んでしまった。それ以来被害が無くなったので、抹殺するのは最良の方向だと思う。捕獲箱にえさを仕掛けて何度も挑戦したが一度も成功していない。ただ、成功したところで抹殺の方法、あとの始末が面倒だ。そこで以前から温めていた方法を採用する。ネズミ取りの粘着板を仕掛けるのだ。この粘着力は素晴らしく、今年も既に6匹あまり捕獲している。足で踏んづけたこともあるし、車のタイヤがくっついたこともある。
「何しとったんやな、えらい遅いがな」
「車がネズミ取りにつかまったんや」
「え~どこでつかまったんや」
「ガレージで、、、」
「?????」
かみさん何か勘違いしたみたい。
 とにかくネズミ取りの効果は素晴らしい、これを畑に用意して、アナグマでもなんでもくっついた姿を想像するとわくわくする。

「手足や顔にくっついて、山に逃げ帰ってもノイローゼになって死んでしまうで」
つまり、処分の手間も省けるというもんだ。
というわけで、畑のネットの隙間と畝の上にネズミ取りシートを仕掛ける。ところがこれがまた大事件を引き起こすこととなる。つづく

【今日のじょん】じょんのことを一番かわいがってくれたモモ姉さんのお母さんが亡くなられた。じょんのびに来るとあいさつもそこそこに「じょ~ん」と言ってすりすりしていてくれたのに、なんともやりきれない気持ちだ。
 

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百鬼夜行(2) 8/7

2013-08-08 | 日記・エッセイ・コラム

2013.8.7(水)晴れ
 深夜の吠えの場合階下に下りて行き、周囲を見渡すとセンサライトが点灯しているが何者の姿も見えないというのが常であった。ところが8月4日の午前2時頃だろうか、いつものように吠えるので庭を見渡すと真っ暗、物音はしないかと耳を澄ましていると、急に車庫のセンサライトが点いたかと思うと怪しげな動物がうろうろしているのが見える。色は茶色、じょんよりやや小さめ、腰高で犬の形状、歩く姿も犬のようなのだが、一瞬のこととて顔はよく見えない。イタチ、テンの類いでは無い、もちろんヌートリアやアライグマでも無い。タヌキ、ハクビシンでも無い。尻尾は細くてキツネでもなさそうだ。残るは野犬、アナグマ、はたまた新種の何かのようだ。確認は出来なかったが、こいつが夜な夜な侵入していると確信する。
 P1050050

 



場所的にはこの辺、ミョウガ畑を少し嗅いで、手前に歩いていた。

 翌朝、じょんと家の周囲を点検しながら意外なものを発見する。じょんが嗅ぎ廻ったところにスイカの皮が落ちていたのだ。包丁の切れ目があるのでどこかの家で食べられた後、ゴミ箱などに捨てられていたものだろう。といってもこれだけの家数だからどこの家で捨てられたものか想像はつくのだが、、、。
 いずれにしても、夜に見つけたあの動物が拾ってきて、この庭で囓ったものだろう。肉食の動物かと思ったのが、雑食だと判明、アナグマの線が濃くなってきた。
P1050046P1050047


 

嗅ぎ廻ってる先にスイカ発見。

 そしてドッグランどの中で糞を発見、黒っぽくてやや太め、そして植物の種が混じっている。犬のもので無いことは確かで、もちろんじょんのものでは無い。時間的には12時間以内というところだ。なぜって、その隣に片づけるべくじょんの夕べの糞があるのだが、フンコロガシのような甲虫に分解されて形も無いほどだ。それに比べてこの黒い糞はまるで原形を保っており、深夜から朝方になされたものと考えられるのだ。もちろん種の混在で雑食性の動物と思われる。
P1050048P1050049



ドッグランどで怪しい糞を発見、右は夕方のじょんのものでほとんど分解されている。
 その昼である、野菜を取りに行くべく畑に行くと、トマトの畝に異常を感じる。
なにやら侵入の跡があり、数あるトマトの中でミニトマトの低いところのものが数個食べ散らかされている。マルチの上にはくっきりと足跡が残されている。思ったより小さめで、丸っぽい肉球だ。
P1050052P1050051



ミニトマトの食害痕と肉球の跡。

 今年は水糸ネットでカラスの被害も無く、小動物の被害も皆無でしめしめと思っていたところだが、上部のトマトが被害が無いので下のものだけ獲ったのだろうと安易に考えたのがいけなかった。つづく

【作業日誌 8/7】
草刈り(5-2)
 
 

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百鬼夜行(1) 8/6

2013-08-07 | 日記・エッセイ・コラム

2013、8、6(火)晴れ

 今日のじょんでお知らせ済みの夜な夜な現れる謎の物体、一体なんなのか、徹底的に検証して、対策を練りたい。
 じょんが夜中に異常な吠えを始めたのは十日ぐらい前になるだろうか、大体決まった時間、つまり深夜の1~2時の間なのだ。じょんは優れた番犬で侵入者、侵入物にはきっちりと反応する。難点は隣家への訪問者や、府道の歩行者にも反応することだ。これは明らかに越犬行為である。まあ、ご近所さんへのセキュリティサービスという風に好意に考えよう。特にチコが居なくなって、近所に唯一のワンコとなった今、切に責任を感じているのかもしれない。
P1040799

 


こんな感じで寝てるのが突然吠えるので、びっくり。

 もう一つ難点は、虫や鳥、一部の生活音にも反応することだ。
虫の場合、ムカデには強烈に反応する。これは大変助かるのだが、カメムシや蛾などにいちいち反応されては堪らない。
 鳥は夜に鳴く鳥にはよく吠える。フクロウなど時期によっては毎晩鳴くので堪らない。
 生活音は冷凍庫や食洗機など夜中に気になる音もあるのだが問題なく、妙なものに反応する。浴槽から洗濯機に水をあげる時、満杯になってゴボゴボあふれ出すと、飛び起きて吠える。あふれるたって排水口にあふれるわけだから問題ないのだが、これは吠えると必ずポンプを止めに行くという行動が伴うからではないかと思っている。止めて帰ってくるともうその時にはシラッと寝ているのだ。
P1040745P1040746



吠えた翌朝は必ず現場に誘導する。これは隣家の畑にイノシシが来た痕。

 さて、問題の深夜の吠えはどのようなものだろうか。
 丑の刻、最も寝入ったときに強烈な吠えで起こされる。「ウッセイナー」と放っておくといつまでも吠えている。やむなく階下に下りてってなだめすかして、外をうかがうとやっと鳴きやむ。そしてその時庭に設置のセンサライトがほとんどといって良いほど点灯している。玄関灯も併せて5台のセンサライトがあるのだが、その一二台が点いているので、必ず何者かが侵入しているのだ。つづく

【作業日誌  8/6】
お墓の掃除
草刈り(5-1)

 

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別所探訪(53) 小山別所-4 8/5

2013-08-07 | 別所探訪

2013.8.5(月)曇り、雨

 小山別所が蝦夷俘囚の移配地である根拠とまでは行かなくても関連としてあげられているのが、垣内古墳の北にある西林寺の本尊が薬師如来であること、垣内古墳の前方部にある祠はかつて東光庵であったと言うことの二点である。
 とりあえず西林寺とこの祠を見てみようと、訪れる。
 向陽山西林寺は曹洞宗の寺院で、垣内古墳の西北の高台に建物が見える。近所で聞くと無住だというので訪問は次回にする。お話が聞けなかったらあまり意味が無いからだ。
 元東光庵と目される祠を探す。垣内古墳の前方部に接した草むらという情報だけなので、歩いて探すことにする。当初垣内古墳は南北にあったものと考えていたので、前方部は府道の南にあるものと思い、その辺りを歩き回る。府道から東西に走る小道までは開発が進み、店や住宅が建っている。その南は田んぼとなっており、その周辺を歩き回るが祠のようなものは無い。暑い日の日中とて人影も無く、聞くわけにもいかない。P1040968

 


府道19号線から一筋南の小道、右に見えるのが園部保育園のグランド。この付近に祠は見当たらない。

やむなく園部市街に向かう市道だろう通りを越えて、八幡神社から見ると東南部分を歩いてみる。広いグランドらしきところがあり、後で地図を見ると市立園部保育所となっていた。その北の路地を東に進み、アパートの向かいにちいさな祠を見つけた。まさかこの方向だとは思わなかったので写真におさめて神社に戻る。
P1040971

 


園部保育園北側の路地で見つけた祠、これが東光庵の跡だろうか。

 帰宅後文化博物館のパンフレットで垣内古墳の復元図を見て驚く。南北に造られていたと思っていた垣内古墳は実は東西になっていたのだ。従って前方部は八幡神社前の府道交差点中央部辺りから東に30m、南北に40mの範囲になる。
 アパートの向かいの祠が元東光庵の祠である可能性も出てきたが、そのことの確認は柴田弘武氏か吉田清氏、西林寺住職にしか出来ないように思う。
 今回の垣内古墳の訪問は八幡社に残る盃状穴に関する調査が主目的なので、別所に関する調査はここまでとしたが、柴田氏の言うところの薬師信仰、東光庵の存在が蝦夷俘囚の移配といかに関連するのか納得がいかない。つづく

【今日のじょん】今夜もじょんの吠えはつづく、深夜1時から2時の間に多い。単に虫や鳥に反応しているのでは無く、真剣な様子が伝わってくる。実際に目撃や被害も出ているので、明日から記事に書いていきたい。
P1050044

 
 
 
 


吠えた翌朝は必ず一番に嗅ぎに行く。そして遂にそこに遺留物を発見する。 

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別所探訪(52) 小山別所-3 8/4

2013-08-05 | 別所探訪

2013.8.4(日)晴れ
 丹波国国府については八木町屋賀、亀岡市三宅、千代川、保津などの候補地があり、国分寺は亀岡市千歳、国分尼寺は亀岡市河原林に比定されている。
 近年八木町東部の圃場整備による発掘調査が行われ、桂川左岸の広大な地域が調査されたようだが、八木町屋賀地域から亀岡市池尻地域にかけて大形の建物群跡などが発見され、国府の有力な候補となっているようである。
 いずれにしても桂川流域の八木町から亀岡市に至る部分が古代の丹波の中心地であることは間違いが無いようだ。さすれば、国府、国分寺などの金属にかかる建設資材や用具の調達場所としての別所という意味も出てくるかなと思わせるのである。
P1040431



桂川に沿って南下すると、八木町船枝を過ぎた辺りから広大な平野が広がる。山間地の丹波には珍しい光景だ。この地こそ古代丹波の中心地であるという実感が湧く。

 ただ大津富士見台の別所や姫路市における別所などと比べると距離的に難点があるかなという想いはする。
 圃場整備に伴う発掘調査で室橋の北部で鉱滓や金属加工の工房跡が発見されたとある。(埋蔵文化財セミナー 「発掘された南丹波地域の歴史」)この地域が別所なら、明らかに金属資材、用具工房の別所と言えるのだが、そのような地名は見当たらない。
 結局小山別所は吉田清氏の主張される往生院としての別所、あるいは葬地、墓所としての別所という意味があるのではないかと思うのである。
 葬地、墓地としての別所について柴田氏は以下のように書いておられる。

 
「前文略 即ち私は平安初期の俘囚の移配地としての 別所があり、そこに平安中期頃から聖が拠るようになって、聖の隠棲地=別所という観念が生じた。またこの頃から寺院の別院という意味での別所という呼称も生まれてきたことも認められる。更に鎌倉期以降になると、その中には墓地と同義と考えられるような別所も生じてきたと考えるのである。」(鉄と俘囚の古代史)
 

 墓所、寺院の別院としての別所は認めておられるのだが、俘囚の移配が行われた地というのが前提になっている。この考えは無理があるように感じる、少なくとも小山別所は元々墓地であろう事は確かだが、蝦夷の俘囚が移配されたという証拠は何一つ無いのである。つづく

【今日のじょん】ここ三四日深夜にじょんが吠え続ける。センサライトが点灯するので何かが侵入しているのは確かだが、不明であった。
 ところが夕べ窓から見ているとセンサライトが点灯し、茶色の動物を発見、じょんよりは小さいが、腰高で、尻尾は細くて長い、顔は不明である。イタチ、テン、アライグマではなく、キツネでも無い。
 朝になってじょんが嗅ぐので庭を探索していると、スイカの食べさしが落ちている。近所で捨てられたものを持ってきたようだ。P1050046
P1050047



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別所探訪(51) 小山別所-2 8/3

2013-08-05 | 別所探訪

2013.8.3(土)曇り

垣内古墳(かいちこふん・南丹市園部町内林町)は全長84mの築造は4世紀頃といわれる前方後円墳でこの地方では最大のものと考えられる。道路や宅地の開発で元の形は見る影も無いが、発掘時には既に円丘部は神社の境内となっていたようで、早くから古墳の形は壊れていたようだ。ところが1972年の同志社大等の発掘調査では、銅鏡、玉、武具、馬具など多くの副葬品を出土し、南丹市立文化博物館で一部を見学することが出来る。
P1040862



南丹市立文化博物館は園部城跡の隣にあり、垣内古墳他周辺の古墳の出土物も多数展示されている。

 この発掘の一つの契機となったのが、この垣内古墳の墳丘から多量の鉱滓が発見されたことのようだ。この鉱滓はいわゆる椀形滓といわれるもので、報告書ではV,Ti量が少なく、製錬滓ではなく鍛冶滓ということだ。この他に0,5~2cmの豆粒状の鉱滓もあり、フイゴ羽口なども出土しており、鍛冶遺構と目されている。根拠は不明だが、角川日本地名事典では12世紀頃の製鉄遺跡と書かれ、柴田氏の別所=鉄製産地の論拠となっている。
 この鉱滓等の出土物は文化博物館に保管されているものだが、向学のために是非見せていただきたいと願い出ているものである。
 垣内古墳の鍛冶遺構が別所正釈寺と関連するか否か判断できるものは何も無いが、その遺構で鍛冶が行われていたことは事実だし、それ以外の弥生遺跡などからの鉄製品の出土を見る限り、この地に古代製鉄の足跡は感じられるのである。
P1040878P1040864



内林町垣内古墳は八幡社境内に石碑と案内文を残すのみで、古墳の面影は何も無い。
 



  わたしの想像ではこの地の古代の製鉄は、進出してきた海人族による原始的な製鉄であろうと思う。律令時代になると、牧を支配する豪族によって調として鉄製品を朝廷に拠出していたのではないだろうか。その時代になると効率的な鉄素材が入るようになり、桂川、園部川の川運は原料の搬入、製品の搬出に大きく貢献したのだろう。鉄の製錬、精錬が牧と関係しているのは他国の例でも見られることであるし、少し上流の胡麻牧(南丹市日吉町)は官牧として著名であり、製鉄との関連は濃厚であると考えている。近世の鋳物師勝田家の存在も決して無縁では無かろうと思う。つづく

【今日のじょん】心配だぜ、マーブルお兄
マーブルの具合が悪いそうで病院に行くところ。なんでも貧血が激しいとのこと、ずっと元気印で来ただけに心配だぜ。P1050040

 
 

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別所探訪(50) 小山別所-1 8/2

2013-08-03 | 別所探訪

2013.8.2(金)曇り 別所探訪(49)は2013.2.13

 昨夏は菟原中の別所を巡って様々の発見をした。そして舞台は高杉、友渕に移ろうとして中座してしまった。ドッグランの建設に目処が付くまで歴史探訪の活動を中止したからだ。もちろん本を読んだり、近隣での探訪は続けているが、遠く一日をかけての探訪は出来なくなった。その一方で南丹市の南丹病院に歯科治療に通うこととなり、折角燃料と時間を費やして通うのだから八木町や園部町の探訪を続けている。とりあえず通院途上にある京都帝釈天(八木町船枝)を訪れ、参道石灯籠に盃状穴を発見する。その後いくつかの神社仏閣を巡り、八木町鳥羽の八幡神社や園部町内林町の八幡神社に盃状穴を発見する。そして八木町美里の西光寺に飯盛山を発見し大忙しとなる。この地方の当初の目的は園部町の小山別所だったのだが、ついつい後回しになって、歯の治療も終わる頃になってようやく訪れることとなった。
 小山別所という地名は無く、花園大学の吉田清氏の論文「廃寺園部善願寺考」の中に善願寺の末寺小山別所正釈寺なる寺院が出てくるのである。(別所地名事典)
位置関係は、園部川と曽我谷の間の山々、丁度京都縦貫道が走っている山が善願寺山といわれるそうで、その中に廃寺善願寺がかつて存在したそうだ。この園部川左岸には中世の墓が続いており、その中で吉田氏らが経塚を発見された。この経塚は南丹市文化博物館に展示されており、見ることが可能である。この向河原遺跡が小山別所正釈寺ではというものだ。
  P1040962

 


園部駅前の通りを直進して、園部川を渡ると向河原となる。別所正釈寺跡はこの奥かと思うのだが、見当も付かない。

 
 吉田氏は元々園部町木崎の教泉寺住職をされていたそうで、お話を聞きたいと思ったのだが既に職を辞されていた。
 京都縦貫道の工事によりこれらの遺跡や元の地形は破壊されており、どこに何があったか見る影も無いのだ。
 
  ただ陣田川が園部川に合流する手前の橋は正尺橋といい、三角州の部分は正尺という。この地名は正釈寺に関連するものでは無いだろうか。
P1040963



向河原方面から正尺橋を越えると正尺となる。

 このように小山別所正釈寺がこの付近に存在していたことは確かなようだが、柴田弘武氏が言うところの、古代産鉄の地、蝦夷俘囚の移配地という証拠なり様相は見えてこない。
 氏は産鉄の地の要素を垣内古墳に、俘囚の要素を垣内古墳脇の東光庵に求めている。つづく

【今日のじょん】これは数日前の写真だが、散歩中になにか棒状のものがスッと消えたのである。写真ではよく解らないが、蛇の穴のようだ。それにしても素早いなあと思うが、蛇穴と書いてサラギと読むのをご存じだろうか。橿原市や御所市にある地名だが、難解地名として柳田国男はじめお歴々が論文に書いておられる地名である。ヘビの穴と関係があるものやら無いものやら、、、面白いワン。P1050021



蛇穴は石垣では無く、道路上、枯れ草のところ。

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上林の盃状穴(38) 番外編 8/1

2013-08-01 | 歴史・民俗

2013.8.1(木)雨、曇り

 垣内八幡社の鳥居が更改されずに残されたのは、小出吉親公の寄進によると言う由緒があるためだろう。それでは手水鉢はどうなのだろう。鳥居と同じ時に一緒に寄進されたものであれば理解できる。文化博物館で調べたところではそのような事実は確認できない。
 手水鉢を詳しく観察すると、正面と右面に銘文が書かれている様子だ。触ってみると文字の溝が確認できるのだが、何と書かれているのかはわからない。そこで登場したのが拓本である。今までにやったことが無くて、手軽な乾拓を行うべく釣鐘墨や模造紙、メンディングテープなど用意した。
P1040879



一見字が刻まれているようには見えないのだが、触ってみるとなにやらありそうなのだ。

 今まで見当も付かなかった文字がくっきりと浮き出てくるのかと、わくわくしながら墨をこすりつける。なにやら浮き出てくるのだが読めるようなものでは無い。文字か模様かもわからない。もっともっと擦れば見えてくるのだろうかとひたすら擦り続けるのだが一向にらちがあかない。
 材質が花崗岩で凹凸が顕著で、風化の度合いも激しいので無理なのかと思う。文字が刻んである辺りを指でなぞると確かに何か書かれているようなのだが、書かれている文字が解っているのなら確認できるが、何を書いているかを見つけるのは無理だ。
 P1050034

 



まるで判読不能、期待していただけに残念。

 試しに同じ花崗岩で文字の判明できる鳥居で乾拓をやってみる。文字がはっきりしているものでも拓本が取れない。これはショックである。技術的に未熟なのか、花崗岩などでは難しいのか、いずれにしても何が書かれているか拓本で見つける事が出来ないのは残念な結果であった。もちろんそれは経験不足ということがあるのかもしれないし、拓本というものがそういったものかもしれないという思いもする。
 このままでは引き下がれない、手水鉢が残った謎を解明すべく近所周りを始める。八幡神社の設備が更改された時期の宮役さんを探し出して、なぜ手水鉢が残ったのか聞き出すためだ。
 可能性としてはほとんどゼロに近いのだろうが、神社周辺が整備されたときの役員さんを見つける事が出来るかもしれない。手水鉢が残されたことについて、何らかの情報をお持ちの方があるかもしれない。
 近隣を訪ね歩いていると、あの家ならわかるかもしれないという家を紹介してくれた。
 訪ねると若嫁さんがおられて、事情を知っておられそうな方は畑に出ておられた。採訪の旨お伝えして帰ることとする。
P1040972



神社付近の家々を聞いて歩く、得意の聞き取り戦法だ。

「手水鉢の縁に妙な穴があいてるでしょう、あれは昔、村人が加持祈祷のためにあけたんですよ。だから大切に思って残しているんです。」という答えを期待しているのだけど、世の中そううまくはいかないだろうねえ。つづく


【今日のじょん】今日は日本一周自転車旅行出発記念日である。かんかん照りの京都を出発し、12日に天地をひっくり返すような夕立に遭うまで雨というものに逢わなかった。とにかく毎日快晴で酷暑なのである。今朝土砂降りの雨の中でじょんのカッパ姿を見ていると、天気って不思議だなあと思うのである。P1050033
 
 
 

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