2013.8.15(木)晴れ 八木町日置-2
日置を訪れるに当たって期待していたことは、大送神社から西光寺あるいは飯盛山やそのコルが見えること、できれば神社そのものが西を向いていないかと言うことである。ではなぜ大送神社かということだが、やはり古代の日置の地理的にも精神的にも中心であろうと思うからであって、西光寺と大送神社が東西の一直線上にあるということもその理由になっている。
では大送神社とはどのような神社なのだろうか。
住所は南丹市八木町日置東中里17にあり、府道408号線沿いの日置公民館から数分のところで日置の集落の中心部と思われる。
祭神は高皇産霊(たかみむすび)命で、摂末社に厳島神社、八幡宮、平野神社、天満宮、熊野神社とある。創祀時期は定かではないが言い伝えでは和銅元年(708年)といわれており、古社であることには違いない。
大送神社本殿
1月17日の綱引き神事は京都府の無形民俗文化財に登録されており、大蛇退治の伝説にちなむもののようだ。綱引きの前に大蛇の目に見立てた的を弓で射る神事が行われる。
また、10月21日には氷所の幡日佐神社との間で夫婦神事が行われている。神事の後に流鏑馬が行われているという。
これらが大送神社の概要であるが、祭神や神事からどのような神社であるか判断する能力はわたしには無い。
ただ期待していた神社の向きは残念ながら西ではなく南向きで、出雲大社のように祭神が社殿の向きの真横に向いているということもなさそうだ。
ただ主祭神の高皇産霊命という神様は高木神と言う風に言われているが、古代神社などの建築に当たって山と山を結んだラインの交錯する位置が弥盛地(いやしろち)とされ、山の高みと高みを結ぶという意味だという説も見かけた。測量や観測に関連する神社などに祀られていることが多いとあったので、少し頭に入れておこう。
さて神社が西を向いていないとなると、西光寺の上に落ちる落日はどこから見られるのだろう。もし大送神社が古代からの神社だとしたら、創建当時はもちろん社殿など無かったろうし、どこからでも落日を見ることは出来ただろう。
社殿の建て替えは嘉永3年(1850年)、鳥居には安政の銘があるのでいずれも近世のものであるが、元々神社というのは南向きが基本だそうだ。
境内を巡っていると、本殿右手に気になる二つの末社を見つけた。一つは池の島の中にある厳島神社であり、もう一つは鳥居があって祠の無い、正二位大送大明神の灯籠のあるものである。この二社は西を向いているのである。
厳島神社と大送大明神は西向きである。
大送大明神というのは石段の上に鳥居があって、その奥つまり境内の東の端に一抱えほどの磐座があり、その表面は真っ平らになっている。その磐座の後ろに1mあまりの棒が立っており、その先端部にちいさな祠が取り付けられている。御神体は一体何だろう、もちろんちいさな祠の中のものが御神体と考えるのが妥当ではあるが、元々祀られているものは磐座かもしれないし、祠の付いている棒かもしれない。
一体何が御神体だろう。
現在では周囲の木が茂っているので、日が差すことはないが、周囲に何も無ければ、春分秋分の朝日が作る棒の影は、磐座の平らな表面の上に東西の線を描き出すはずだ。これは少し想像を膨らましすぎだろうか。つづく
【今日のじょん】訃報 昨日13時頃、じょんの兄弟であるマーブルが亡くなった。5年と5ヶ月近く、短い命だった。今月の初めに急に容態が悪くなり、3日に入院している。自己免疫性溶血性貧血という驚くような病気である。緊急入院して輸血や投薬治療を行って、お盆前に退院していたのだが、急にまた発症したのだろうか遂に帰らぬ犬となってしまった。火葬場に行く前にじょんも一緒に見送ったのだが、いつものようにはしゃがないのは、別れということがわかっていたのだろうか。
この日が、じょんとマーブルの今生の別れであった。(8月3日)