晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

別所探訪(50) 小山別所-1 8/2

2013-08-03 | 別所探訪

2013.8.2(金)曇り 別所探訪(49)は2013.2.13

 昨夏は菟原中の別所を巡って様々の発見をした。そして舞台は高杉、友渕に移ろうとして中座してしまった。ドッグランの建設に目処が付くまで歴史探訪の活動を中止したからだ。もちろん本を読んだり、近隣での探訪は続けているが、遠く一日をかけての探訪は出来なくなった。その一方で南丹市の南丹病院に歯科治療に通うこととなり、折角燃料と時間を費やして通うのだから八木町や園部町の探訪を続けている。とりあえず通院途上にある京都帝釈天(八木町船枝)を訪れ、参道石灯籠に盃状穴を発見する。その後いくつかの神社仏閣を巡り、八木町鳥羽の八幡神社や園部町内林町の八幡神社に盃状穴を発見する。そして八木町美里の西光寺に飯盛山を発見し大忙しとなる。この地方の当初の目的は園部町の小山別所だったのだが、ついつい後回しになって、歯の治療も終わる頃になってようやく訪れることとなった。
 小山別所という地名は無く、花園大学の吉田清氏の論文「廃寺園部善願寺考」の中に善願寺の末寺小山別所正釈寺なる寺院が出てくるのである。(別所地名事典)
位置関係は、園部川と曽我谷の間の山々、丁度京都縦貫道が走っている山が善願寺山といわれるそうで、その中に廃寺善願寺がかつて存在したそうだ。この園部川左岸には中世の墓が続いており、その中で吉田氏らが経塚を発見された。この経塚は南丹市文化博物館に展示されており、見ることが可能である。この向河原遺跡が小山別所正釈寺ではというものだ。
  P1040962

 


園部駅前の通りを直進して、園部川を渡ると向河原となる。別所正釈寺跡はこの奥かと思うのだが、見当も付かない。

 
 吉田氏は元々園部町木崎の教泉寺住職をされていたそうで、お話を聞きたいと思ったのだが既に職を辞されていた。
 京都縦貫道の工事によりこれらの遺跡や元の地形は破壊されており、どこに何があったか見る影も無いのだ。
 
  ただ陣田川が園部川に合流する手前の橋は正尺橋といい、三角州の部分は正尺という。この地名は正釈寺に関連するものでは無いだろうか。
P1040963



向河原方面から正尺橋を越えると正尺となる。

 このように小山別所正釈寺がこの付近に存在していたことは確かなようだが、柴田弘武氏が言うところの、古代産鉄の地、蝦夷俘囚の移配地という証拠なり様相は見えてこない。
 氏は産鉄の地の要素を垣内古墳に、俘囚の要素を垣内古墳脇の東光庵に求めている。つづく

【今日のじょん】これは数日前の写真だが、散歩中になにか棒状のものがスッと消えたのである。写真ではよく解らないが、蛇の穴のようだ。それにしても素早いなあと思うが、蛇穴と書いてサラギと読むのをご存じだろうか。橿原市や御所市にある地名だが、難解地名として柳田国男はじめお歴々が論文に書いておられる地名である。ヘビの穴と関係があるものやら無いものやら、、、面白いワン。P1050021



蛇穴は石垣では無く、道路上、枯れ草のところ。

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