晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

森浩一さん逝く、8月6日   8/25

2013-08-26 | 日記・エッセイ・コラム

2013.8.25(日)雨

 8月6日にわたしの最も尊敬する同志社大名誉教授の考古学者森浩一さんが85才の生涯を終わられた。ひょんな事から調べ始めた園部町内林町の垣内古墳の発掘にも携わっておられたと聞いてかすかなご縁を感じたりしている。ここから出土した石製品、銅鏡などは南丹市立文化博物館で見ることが出来るが、発掘の発端となった12世紀の鉄滓を是非この目で見てみたいと思っていたところ、なんとか見せていただける事になった。
 考古や歴史民俗に興味を持ち始めて3年あまり、蔵書は200冊に満たないものと思うが、よく見ると森浩一先生のものが一番多いことに気づく。まだ読んでいないものもあるが一応6冊ある。日本海文化に関する書物があるからだろう。日本海こそ文化の流入口であったし、わたしの住む上林は沿岸にたどり着き定住した渡来人が第一歩を踏み出した地の一つだと思うからである。
P1060839

 


右の6冊が森浩一先生の著書

森先生は自らを「町人学者」と称しておられた。権威主義的な学会や学者を否定し、あらゆる賞や表彰を辞退されていた。唯一南方熊楠賞は熊楠が典型的な町人学者であるとの理由で受賞したという。
 森先生の口癖は「考古学は地域に勇気を与える」だったそうだ。
先生の亡くなられた2日後に滋賀県文化財保護協会が高島の上御殿遺跡から弥生期の遊牧民の銅剣の鋳型が発見されたと発表した。日本初の発見で、この地域に青銅器、特に遊牧民の影響のある鋳型が見つかるのはセンセーショナルなことである。森先生の「騎馬民族説への試論」というのを書かれていたが、もっと早い時期に中国北部の直接の影響というのが近江の地にあるとしたら、「騎馬民族説」ももっと前進するのではないだろうか。今、滋賀県の考古学者や研究者はもとよりアマチュアの郷土史家も沸きに沸いていると思う。これこそが森先生の「地域に勇気を与える」と言うことだろう、何と素晴らしい発想だろうか。
 新聞紙上に現れた森先生に対する記事を紹介して先生を偲びたい。

「若い頃から陵墓公開問題や遺跡の保存運動にかかわり、地域から歴史を見直す必要性を強調。」

「「官僚学者が横行するようになった」と学界の現状に苦言を呈するなど、終生、考古学を愛し続けた、反骨の学者だった。」

「一方、「出た場所も状況もわからない遺物は、極端にいえば骨董的価値しかない」と、遺物にとらわれすぎる研究には批判的だった。」

「予断を排して研究対象とするため仁徳天皇陵(堺市)を「大山(だいせん)」古墳」とするなど、地名を冠した古墳名へと呼び替えることを提唱、後に考古学界の標準となった。」

「調査で全都道府県に足を運んだ経験から、「地域史を統合したときに本当の日本歴史が語られる」と関東学、東海学などの「地域学」を提唱した。」

「考古学の研究成果をわかりやすく、興味深く市民に伝える「平成の語り部」の役割を終生果たした業績は大きい」 以上読売新聞記事より。
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森先生を偲ぶ記事が連日書かれ、「編集手帳」にも現れた。


【今日のじょん】追悼マーブル写真集

 その後マーブルのドア蹴破り事件(マーブルが喜んで飛んできて、サッシのガラス戸が破れてしまった)があったりしてプロレスごっこをしに行かなくなった。そのためかマーブルが運動不足になったのか太りだし、マックスでは35Kgになったとか、2011年7月の写真は見てのとおりじょんの倍近い体格となった。
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コメント
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