晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(27) 1/16

2012-01-17 | 山・峠

2012.1.16(月)曇

 次は杉、桜、栗などの樹木地名の問題である。身近な樹木名の地名は他の意味、特に地形的な意味を持っている、という風に書いたが(2011.12.22)必ずしもそうでないと言うことを付け加えたい。
 というのは大栗峠のある志古田大栗の隣に鳥垣のシデという小字がある。シデの山としてかつて茅かきの地であったところである。この地名について色々と考えたのだが、どうも樹木のシデによるものらしいのだ。
 シデというのはカバノキ科の落葉高木で、幹が硬くて建材などに使用されていた樹木である。Img_3193

シデの木、鳥垣林道で


 四手(しで)という言葉がある、玉串やしめ縄に使う紙を細長く切ったものをいう。槍の柄につける払子(ほっす)のようなものも言うらしい。和歌山県の方言ではたきや塵払いを”しで”という。これらはすべて同様の形状を表しており、シデの花の付き方からきているという説もある。つまりこれ等の言葉も樹木のシデに関連するものと考えてよいのだろう。
 死出の山という言葉が古文にある。死後におもむく冥土という意味だが、こういう言葉が地名になっている例は聞いたことがない。地名は佳名にするのが原則なのでこういう地名の付け方は無いと思うのである。
 従って、シデという地名は樹木のシデから来ていると考えざるを得ない。現実にシデの辺りにはシデが多く生えている。ただ上林の山にはどこにでもあるようで、特にこの地域にのみ植生があるというものではないようだ。
 どこにでもあるようなものを地名として付けることは無いという風に考えるのだが、新しい地名は別である。桜の名所や杉の産地にそれらしい地名がつくことはあるだろう。極端な例だが最近の分譲地などは強烈である。百合ヶ丘、桜ヶ丘、かしの木台、櫟の里、枚挙にいとまがない。
 鳥垣シデも古地名ではなく、シデが用材などに使用され、切り出されはじめた頃につけられたのだろう。ただ記録としてそういったものは見たこともないし、今後も出てきそうにはない。あくまで想像しているだけである。Img_3353_2
 
シデの山頂に向かう。(2011.7)


 地名の研究者の論文などを見ていると、自分の説に合ったものだけを公表し、都合の悪いことは黙っておくというようなものがある。これは他の学問についても同様かも知れないが、わたしも気になっていたのであえてシデのことを書いた。
 かといって大栗が栗の木に由来する地名だとはならないのである。

今日のじょん:ダーウィンが来たという動物番組で、コヨーテを特集していた。野生の中で生きるコヨーテは同じイヌ科でもえらい違いやなあと思ってみていたのだが、獲物を捕る動作を見てびっくりする。ネズミやジリスを捕まえるのだが、じょんのある動作と一緒なのだ。それはじょん語録でお知らせした半井飛びである。ぽんぽこぽんのとき跳ねるボールを捕まえるのにする動作があまりに可愛いので半井飛びとしたのだが、その動作こそ野生の本能だったのだ。うーむ。Img_3730
 

このあと。

 ボールを見つけても知らん顔していて、急に向きを変え、飛びついて両手で押さえるのが半井飛びである。

 

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大栗峠考(26) 1/15

2012-01-15 | 山・峠

2012.1.15(日)曇、雨

 大栗峠の由来の候補は「刳る(くるという動詞)からきた崩壊地形」「大岩」の二つに絞られた。近隣の大栗地名箇所の状況を調べることによってどちらか確信が持てるかもしれないのだが、よくよく考えると崩壊地形だから大きな岩が出現するわけだからどちらも同じ意味を持つのかも知れない。
 ここまで考察を進めてきて三つばかり気になる事柄が出てきた。今までの自説を覆すこともあるのでここで書き留めておきたい。
 一つ目は、大国峠の件(2011.12.22参照)である。大国峠という地名が丹波大絵図などに記載されているというものだが、簡単に大栗の訛化と片付けてよいものかということである。
 大栗峠は”おぐりとうげ”と呼ぶ。小字大栗が”おおぐり”なのか”おぐり”はたまたそれ以外なのか解らない。同様に大国が”おおぐに”なのか”おぐに”なのかそれ以外なのかも不明である。
 美称としての”おお、お”のようなのでどちらでも特別な意味は無さそうだ。
 オグニ(小国)というのは山を越え川を遡ったところにある別天地のような小さな栃のことを云う。(「地名の研究」柳田国男、他)山形県西置賜郡小国町、熊本県阿蘇郡小国町などはまさにそのようなところである。Img_3483

杖立温泉は阿蘇郡小国町。



 大栗峠の両麓となる上粟野も志古田も小国ではある。
 「地名の語源」(鏡味完二)には、
 オグニ 地形上まとまった小さい別天地。東北地方に多い。(小国をコ~と読むと佳字でないからオと読んだもの)、とある。
 このまま受け取ると、オグニはあくまで小国であって、大国ではないととれるが如何だろう。P1000368
 
上粟野はまさに小国である。


 また、上粟野周辺にも志古田周辺にも大国、小国という字地名は存在しない。上林地区には三箇所の大栗が存在するが、大国、小国という地名は存在していない。
これらの事由で、大栗峠は大栗峠で、大国峠というのは訛化あるいはあて字ではないかと判断するものである。つづく(大栗峠考(25)は2012.1.11)

今日のじょん:新じょん語録(5)わたしのじょんは左きき
 積雪が少なくなってきて、ぽんぽこぽんが面白くなくなってきた。雪の中にボールを埋めてやると、器用に掘り出してくる。よーく見ると、穴を掘るのは両手だが、ボールを引っ張りだすのは常に左手だ。P1000797

 

コメント (5)
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天道虫の怪 1/14

2012-01-15 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.14(土)曇、雨

 昨秋はテントウムシが大発生し、不気味なくらい飛散した。冬になったら死滅するのかと思ったら、どっこい奴らは生きている。
 成虫のまま越冬するそうだ。そういえば年末の大掃除の時、サッシの上溝にびっしりと着いていた。冬眠というか仮死状態でじっとしている。もちろん箒やピンセットで一掃して処分したが、すべての窓を点検したわけではない。
 冬になって外気は随分下がってきたが、室内は薪ストーブのお蔭で18℃、暖かいときは20℃になることがある。すると眠っていたテントウムシが活動を初め、壁や天井を這っているのである。P1000470
 
昨秋11月29日の写真、夥しいテントウムシが襲来。 


 ところが不思議なことがいくつかあって、ネットで調べたりするんだがよく解らない。
 ひとつはその数の問題だ。毎日捕獲しているのは2~5匹で平均すると3匹である。それがもう一月は続いているので、100匹近くを捕まえている勘定になる。
 どうして毎日3匹づつ出てくるのだろう。越冬しているのは数百匹いると予想されるのに、一気に出てくるわけじゃなく、小出しに出てくるのが不思議なわけだ。
 もう一つ不思議なのは、朝は這っているが、それを獲ってしまうとその日はもう出てこないことだ。それが天道虫の由縁で、朝昼の太陽が出ているときに活動するということだろうか。
 そして最後の不思議、出現する部屋は決まっていること。薪ストーブで暖房している我が家では温度的には同じ条件なんだけど、なぜかある部屋にだけ出てくるのだ。???
P1000789_2
こういう感じで天井を這っている。 


 ところでテントウムシって大抵益虫だって事知ってる?害虫を食べたり、バクテリアを食べたりで、生物農薬として使われることもあるんだって。
 そんな益虫なのになぜやっつけるかって?テントウムシは外敵を意識すると黄色の臭い液を出す。臭いはカメムシほどではないのだけど、黄色の液は壁や天井を汚してしまうから。大体我が家のクロスは殆ど白なのだ。

今日のじょん:新じょん語録(4)雪降ってじょん固まる
雨降って、、、の雪バージョンだけのことだが、それにしても何分も固まってるので、一体いつまで固まってるかやってみたいのだが、こちとらが忙しいので実験できない。P1000794
 
  

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雨読  旅と交通の民俗 1/13

2012-01-14 | 雨読

2012.1.13(金)曇

 古道や峠を散策するのは楽しい。菅笠や蓑のいでたちで、荷を背負った人たちが行き来する様子を想像しながら歩いてゆく。
 古道や峠の歴史を探るのはもっと楽しい。かつての旅人はわたしたちのように悠長な気分で街道を行き来してはいない。今長距離トラックの運転手がよっぴきで高速道路を走っているのと同じだろう。中にはお伊勢参りなどの信仰ともレクリエーションともつかない旅路もあっただろうけど、それにしたって命がけの旅なわけだ。
 そんな旅や交通の民俗についての文献は余り多くない。わたしが現在所持しているものは二冊あり、その一冊を今日読み終えたので紹介しよう。
 「旅と交通の民俗」北見俊夫著 岩崎美術社 1995年9月新装第一刷 定価2,000円 購入価200円

 岩崎美術社という出版社は民俗関係の本を沢山出版されている。タイトルに魅せられていくつか所蔵しているが、内容は今ひとつインパクトがない。本書も序章を読む限り学者が能書きたれてるなという感じを受けた。
 各論に入って様々な興味ある記事が出てきた。旅宿のことや信仰に係わることなど知りたい事柄が多くあり、新たに知ることも多かったのだが、読後感としてはなんとなく物足りない感じだ。一般的、表面的な事ばかりで、著者による探究、思考の跡というものがうかがえない。P1000795
 
旅に関する本二冊。


 文中に古文書なども出てくるのだが、そのまま記載してあるだけで、現代訳文がない。一応読んでみるが、はたして読み取った意味があっているのか不安が残る。「こんな事も読み取れないのか」と馬鹿にされているようで嫌な気分になる。
 最終項では地域別の陸上交通について著者が研究された地域についてかかれているのだが、表面的なことが多く著者の考察、著者の意図が不明である。
 帯紙に、商業・交通の民俗学的研究への基本図書とある。基本的な項目を並べておくから、ここから研究を進めてよという本ならその意義は充分にある本だ。
 
 旅の語義について書かれている項があり、興味深いものなので紹介しよう。
 元々旅をすることは食糧を行く先々で乞い求めるものであり、それにより自己の衰弱の回復を図るとか、こちらからは物的ないし精神的な祝言などを与えている。こういうものをタベとか呼んでいたのが語源になったのではないかという。
 トビというのは訪問する際に持って行く食物のこと(語源大辞典)、贈り物を受けたときのお返し(全国方言辞典)とある。柳田国男は、給ふ(タブ)の命令形、給べ(タベ)から変化したのではと解いている。はてさて。

今日のじょん:足跡ウオッチング
 雪道の散歩は動物たちの足跡が残っていて楽しい。実はここ二三日犬の足跡が続いているのだ。実にまめに各家を廻っているのと、イノシシなどの立ち回り先は必ず行っている。その跡をじょんがまた嗅いで行くものだから散歩も大変。それでも雪の無いときの不可解なじょんの行動がなるほどこういうことかとよく解る足跡である。P1000782P1000758


玄関に入っている跡とイノシシを追っている跡  

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雨読 製本工房から 1/12

2012-01-12 | 雨読

2012.1.12(木)雪、曇

 綴じ、折り、組む職業ってなんだろう。世の中にはその人の職業や芸術の分野、打ち込んでおられる趣味などにぴったりの名前の方がおられる。
 栃折久美子(とちおりくみこ)さんはペンネームではなくて本名のようである。題名からすると製本会社の親方が書いてるのかなと思われるが、実はそうではなくてブックデザイナー、装幀家、ルリユールの第一人者であった方である。(今は引退されているため)
 ルリユールといってもなんだか解らないと思うが、工藝製本とか云われているがかつて西洋では本は仮とじのまま売られていて、それを買ってきて自分の好みで上製本に仕上げるというものだったそうだ。そういう職人が沢山いて、ルリユールというらしい。最初から製本されたものを販売している日本ではちょっと考えつかないものだが、皮表紙の本などをみるとかつては本が一種の宝物であったことが理解できる。
 
 「製本工房から」栃折久美子著 冬樹社発行 昭和五十三年第三刷 京都府立図書館から借本P1000792
 
 製本のハウツー本を探していて、この本の表紙の図柄に勘違いして借りてしまった。実は内容はエッセイ集だったのだ。
  エッセイは余り好きでなく、学生時代に山岳関係のエッセイ集を読んだぐらいだ。折角借りたんだからと読み始めるとこれが実に面白い、本というものを別な角度で観る機会にもなった。何気なく読んでいる本にも、如何に多くのパーツと工夫があるのかと感心する。
 数知れない本を読んできたが、本の造り、いわゆる装幀について関心を持つことはなかった。本の善し悪しはあくまでその内容で、好きな本は大切に保管しているし、そうでないものはどこかに失ってしまったりしている。
 結果的に大切にしている本の装幀を観ると実に良い作りをされていることがわかる。当初から白水社の本は作りがいいなあと感じていたし、大切にしている本も白水社のものが多い。
 本の価値がその内容だけでなかったことがつくづくと解った。
 本書の前半は装幀と云うことについて多く書かれていて、専門用語などが出てきて読み進めるのに時間がかかったが、栃折さんは芸術家でもあるのだが、職人でもあることに気付く。彼女のポリシーは、良い本とは豪華で重厚なものでなく、読者に読みやすい、扱いやすいしっかりした本だということだ。高名な装幀家の作品についても細かい点で批評を加えている。
 後半は私生活を含めたエッセイなのだが、これが実に面白い。才女といわれる著者なのだが、実に可愛い、魅力的な性格のようだ。
 本の最後のところには著者や発行所などが書かれているが、装幀者というのは在ったり無かったりする。実は本書にはそれが載っておらず、栃折さんの装幀なのだろうか。

今日のじょん:新じょん語録(3)殿中でござる。
今朝の雪はこんなもの、10cmぐらいで除雪車の出動もなかった。逆に道路は走りにくくて、轍の上を走っている。そしてじょんの散歩中府道で事故が起こった。詳細は解らないが、やはり雪が原因か?P1000788
 



 じょんはちょうど走りやすい状態なので飛び回っているが、レインコートがずって来てこの状態になる。以前から殿中でござるといっている。P1000784 P1000787

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大栗峠考(25) 1/11

2012-01-11 | 山・峠

2012.1.11(水)晴、曇、雨、霙、雪

 大栗地名の謂われについて、動詞の刳る(くる)からなる崩壊地名ということに落ち着いているのだが、どうも気になる事がある。大栗峠考(22)(2011.12.21)に書いている”グリ”地名のことである。
 グリというのは礁、泫、繰などの字で表されている、いわゆる暗礁、岩礁をいうことである。志古田道に存在する大きな岩を森の中の暗礁にみたてて大栗と称されないかと書いたのだが、無理があるかなと思っていたところである。ところが先日、他の調べ物をしていて「地名の研究」柳田国男著を見ていて驚くべき文章を見つけた。地名考説の四八にグリというのがあって、海中の暗礁のことを云っているのだろうと思いつつ読み進んだのだが、実はこの文章はグリ、クリは海中の岩を表すばかりでなく、地上の石のことを表しているというのが主題なのである。

 筑前糟屋郡の海上、中略、一名はなぐりと称する周約六十間、高さ十間ほどの立岩あることを載せ「山は皆立ちたる岩なり、方なる柱を立て並べたるが如し」とある。すなわちこのグリは隠れ岩ではないのである。

 『万葉集抄』には、山陰道では石を久利とよぶと出ており、しかも一方には何いくりという地名が若狭三方郡気山の海村にも多くあれば、あるいはまた丹波近江などにもある。

 但馬の城崎温泉の近くで、はなはだ有名なる玄武洞の玄武岩は、『笈埃(きゅうあい)随筆』巻二の石匠の条には「土人之を竹繰石或は滝繰石とも謂ふ」と記している。グリが本来は暗礁のことでなくて、たんに石を意味する方言であったよい証拠である。P1000270

 
玄武洞。

 わたしが、「こぶし大の石が栗石なら、大きな岩は大栗と呼べないでしょうか」と想像したことが既に柳田氏の書の中に書いてあったのだ。志古田道を歩いて多分に目に付いた大きな岩が大栗地名の由来の可能性は大となった。
 十倉志茂、忠あるいは与保呂にある大栗がどのようなところか確認したいところである。Img_3437
 
志古田の天狗岩、これが一番大きい。


P1000398

志古田道崩壊部分の下の大岩、右下のザックで比べて欲しい。



P1000401
これは写真で見るほど大きくない、2m程度か。


P1000407_2
かなり下流で小字大栗ではないが、巨大な岩があちこちにある。



なお、柳田氏の文中の若狭気山の何いくりという地名は確認できていないが、南丹市美山町に井栗姓の知り合いがおり、地名にもあるのではないかと探してみると、芦生(あしう)に井栗(いぐり)という字があった。
 つづく(大栗峠考(24)は2012.1.5)

今日のじょん:ユキちゃんが来たと思ったらサチも来て、竹輪争奪戦になるかと思ったのだが、ユキちゃんの胃腸の調子が悪くてサチの独壇場になった。P1000778 P1000779 P1000780

  

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正月の行事から  1/10

2012-01-10 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.10(火)晴

 今年の目標
 ドッグランどの完成
 「上林のこと」第一号の出版
 玄関前室の作製

 還暦同窓会
 1月3日福知山のマリアージュで三和中学校の同窓会が開催された。5年おきに開催されていたのだが今回は還暦に当たる年なので少し賑やかに開催されたかな。衝撃は150人の同窓生で既に9人が他界していること。60才で6%の死亡率というのが高いか低いかは別として、同窓生のうち9名の人生が既に終わっているというのは衝撃である。P1000722
 
還暦ったって若いわなあ。


 長寿の時代となって還暦と雖も若手になるのだが、死というものが自分とはまるで関係のない世界のことのように思っていたのがそうでなくなってきたのは事実である。5年ごとの同窓会を3年にしようかという意見が出ていた。
 いずれにせよ還暦とは死の準備を始めるときである。黄金の棺桶でも作るか、千坪の墓園を作るか、若い嫁さんに莫大な遺産を残すか、子供達に血で血を争う財産を残すか、何でも良いぞ。一世一代の絵画を描いておこう、いや彫刻がよいかな、いや作曲、いや小説、うーむそんな能はないなあ。
 間違っても死の向こうに新たな人生があるだろうとは思わないことだ。
The Endてえのはそういうこと。

 宮講
 この時期自治会で宮講というのがある、今年は9日に行われた。自治会の神社は河牟奈備神社と葛禮本神社と分かれているんだが、合同で宮講が行われる。1時間は講師を招いて人権講演会、拝礼の後会食をするというものだ。
 講演をされたのは毎日放送でテレビディレクターをされていて定年され、やがて地元にUターンされようかという温井甚佑さん。昨年も現役中に作製されたドキュメントをビデオで見せて貰い興味を持っていたところである。よく深夜に放送される社会派のドキュメントである。代表作は「神戸新開地幸福荘界隈」というもので、これは見ていなかったが他の作品は二つほど見たことのあるものだった。
 2005年に製作されたドキュメントのシナリオやエッセイなどで満載の「神戸新開地幸福荘界隈 たかがテレビされどテレビ」という本を出版され、「差し上げますよ」というありがたい言葉に、今日氏の生家を訪れた。
 わたしの川合の生家と同じように坂の上にあり、北西向きのためか通路にも庭にも多くの雪が残っていた。ご母堂がおられ聞いてますよと云って立派な本を出してこられた。私の名刺を見て、「小原四郎先生はご存じですか」とおっしゃって、川合の話となった。小原四郎先生に師事されたそうだが、先生は「丹波の話」磯貝勇著(2009.7.12参照)に登場する著名人である。P1000776
 
いただいた本、じょんのびにも置いておきマス。


 温井さんの作品一覧を見ているといくつか見たことのあるドキュメントがあった。強烈なポリシーがないとあのような作品は作れないと思うのだが、講演は短時間でもありあまり当たり障りのないものだったので、いつかお会いしたらそんなところも聞きたいと楽しみになるのだった。P1000774

同じ町内でも違う景色は新鮮。

【作業日誌 1/10】
薪割り

今日のじょん:雪解けったって、又降り積もるだろうけど、とりあえずほっこりする。問題は同時に出てくる犬のうんP、念道橋もうんP橋となってしまう。P1000773 


 
 


 

 

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地名のこと(3) 1/9

2012-01-09 | 上林地名考

2012.1.9(月・祝)曇、雨

 柳田氏がむだな苦労と言っておられるのは、地名について考えるとき今日のようにあらゆる資料や情報が揃っていない時代での調査研究の困難さを語っておられるのだろう。
 先程の文章の後に続いている文を見ると、氏の言うむだということが実はむだでなくて、わたしたちが日本中を旅しなくても文献や資料を元に、ある程度地名について考えることができるという意味で貴重な労力であったことが解る。
 
 もしこの経験がなんらかの役にたつとすれば、それはただ諸君にもう一度、同じようなむだをさせないというだけの、消極的な参考となるにすぎないのである。(地名の研究、地名と地理より)

 柳田氏は大変な苦労をしてもまだ価値ある発見はないといっている。無数の難解地名を解読し、立派な書物を世に出しておられる氏が、価値ある発見は無いといわれるのは如何なる事であろうか。
 げすの勘ぐりなのだが、「大変な苦労をして地名の意味についてその語源や謂われから解析したとしても、それが真実であるか確認のしようがないという不安や苦しさ」のことを言っておられるのではなかろうか。
 わたしは「その地名がどういう意味で付けられたかは、タイムマシンなるものが発明され、その地名が付けられた時点に遡る以外に確かめようが無い」という風に考えてきた。タイムマシンなんてものが発明されようとは思わないが、もし仮にできたとして、その時代に行っても以下のようなことになろうかと思う。
「あのあたりは鳥垣というそうですが、なぜ鳥垣というのですか」
「さあみんな鳥垣、鳥垣と呼んでるからじゃないの」
「???}
とまあ地名なんてのはそういうものでしょう。「何時一過こういう意味でこういう地名を付けました」というような性格のものではないからだ。知らない間にだれもがそう呼ぶようになったのが地名だろう。
 
 地名の意味、謂われを発見したときの喜びは大きい、調査研究の苦労が大きいほど喜びも大きい。しかしその自らの仮説を証明しようがないとなると、常に不安になるし、永久に結論はでないのである。
 そのことがつぎにより深く調査研究することとなり、また新たな発見がでる。しかしそれとて証明はなされない。とまあ地名研究を止めるまでその堂々めぐりが続くわけである。
 柳田氏はこのことを言ってるのでは無かろうか。つづく

今探究が行き詰まっている地名Img_4765 引地、猪ノ鼻Img_3164 




左:古城山から引地方面 右:京丹波町猪鼻

今日のじょん:はなちゃんという三才の柴が遊びに来たぞ。これがまあ可愛いのなんのって。写真撮っちゃろと思うのだが、じょんが邪魔して上手く撮れない。モモねえさんもいっちょかみなのだ。P1000767 P1000768 P1000772
 

 

 

 

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地名のこと(2) 1/8

2012-01-08 | 上林地名考

2012.1.8(日)曇

 ある地名を調べようとするとき、辞典を見るのだが、国語、漢和、古語、語源、方言各辞典あるいはアイヌ語、韓日辞典を見ることもある。次に地名に関する辞典つまり地名語源辞典や地名大辞典などを見るのである。ここまでの作業であたかも結論が出たようにしてネット上に掲載したり、書籍として出版されているものもある。しかしそれはナンセンス、それからの作業が大変なのだ。
 例えば最近掲載している「鳥垣」の地名についてみてみよう。鳥は地名的には辞書類ではbirdの鳥、取るの意、通り、タオリ(峠)の転などの意味が出てくる。垣は垣根の垣、崖、掻くの意、柿、垣内の意などが考えられる。短絡的に「鳥を飼っていた垣根があったところ」と解釈してはいけない、なぜってそんな証拠はどこにもないのだから。
 辞書で解るのはこの程度で、あくまで参考という感じだ。次に大切なことは現地を見ることだ。地形、地質、遺跡、神社仏閣など、村落の状態等々を見て古地図や古文書も探してみる。現地で伝説などを聞くこともある。
 そして古代の人々の気持ちになって自分でこの地に名付けてみることだ。この時点で鳥は取る、通り、タオリに絞られ、垣は崖、掻く、垣内に絞られた。
 次に地名に関する文献から同様の地名、類似の地名を探る。幸いこの種の文献は地名を索引で載せているものが多い。そうでないものはあの本のどこかに書いてあったなあと自らの脳の索引を使うのだが、この作業が大変、年齢と共に脳の検索機能が衰えている。地名がどの本の何頁に書いてあるかデータベースを作ろうかと思ったことがあったが、読書というのはリズムがあって書き抜きしながら読むなんて事は出来なくて断念した。
この段階で新たな書物を読むこともあるし、図書館博物館などに通って調べ物することもある。現地も何度か確認に訪れる。
鳥垣については由来の候補に鳥居、あの世とこの世をつなぐ鳥などが出てきた。Img_3174 Img_3198
 
 
塚ヶ谷の古墳と鳥について調べた本。


 こういう労力を尽くして、沢山出てきた候補を取捨するのだが、それなりの根拠が必要である。地形地名なら該当する地形でなければ候補から外すし、それ以外の地名ではその地の住民がその地名を残す必然性が必要となる。
 鳥垣の場合、鳥そのものの語源は候補から外した。鳥垣地区には多くの古墳があり、鶏は冥界の案内者とする説があるので一応考えたのだが、それらしい伝説が伝えられているわけで無く、壁画や埴輪が出ているわけでない、というわけで除外した。坂尾呂神社の祭神が土師氏系の例えば野見宿禰や菅原道真であったら鳥=鶏の構図もあったかも知れない。つづくImg_4171

坂尾呂神社、祭神は須佐之男尊



今日のじょん:昨日のことだがユキちゃんが来た。昨年の1月6日がユキちゃんの生還日なのだ。綾部署に保護されて、飼い主も解らずあわや保健所行きというところをメーパパに救われてじょんのびに来たのがその日である。雪の降りしきる中をなんともみすぼらしい姿で現れたのだが、1年たった今すっかり元気になり、優しい顔になったのに驚く。

Img_2079 P1000760
ビフォアアフター 

 


 

 

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地名のこと(1) 1/7

2012-01-07 | 上林地名考

2012.1.7(土)雨、雪、曇、晴

 鏡味完二氏が柳田国男氏に「地名にこだわっていてせっかくの青年期をむだにしないように」と言われたことは有名な逸話として残っている。柳田氏の「地名の研究」の中の地名と地理の項に以下の文がある。

 地名の研究に関しては、わたしはおかしいほどたくさんのむだな苦労をしている。そうしてまだこれという価値ある発見はないのである。以下略

 地名の研究には各分野の知識が必要で、様々な学問をしなければならないのに地名の研究そのものが学問として成り立たない、というようなことを語っておられるように解釈している。鏡味氏はその忠告にもかかわらず分布や統計など科学的な手法を以て地名を研究され、地名学という学問を作り上げられた功績者である。
 
 わたしはよく人に「地名について研究されていますね」と言われるが、実はそうでなくて、歴史について地名や伝説など民俗学的な要素を使って研究しているというのが正確だと思っている。古文書など存在しない過去のことを調べるのは発掘などの考古学的手法が最も効果的なのだが、わたしたちが直接発掘調査など出来ないわけで、現在に生きる歴史の化石といわれる地名を探ることが歴史を探るひとつの方法だと考えている。P1000765

地名を探るのに多くの辞書を見るが、それだけでは解決しない。 


 ところが地名を探るということは柳田氏が言われるようにもの凄く多くの周辺知識が必要なのである。それがむだとは思わないが、苦労は多いものである。
鏡味氏の功績に「地名の語源」という辞書がある。科学的に地名を考察された集大成というもので、アマチュアの地名研究家にはバイブルともなっている。多くの書物や論文に、地名語現時点によるというふうな書き方がしてあるのだが、どうみても意味をなさない場合が見受けられる。地名というのはただ辞書に合わせればいいってものではないということだ。つづく

今日のじょん:橋の上には多くの足跡があるが、犬と人のものばかりで獣が渡っている様子はない。川にはイノシシの足跡があり、どうやらもっぱらの通行は川を使っているようだ。 P1000746 P1000749 P1000748
 

 

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鳥垣のこと(4) 1/6

2012-01-06 | 上林地名考

2012.1.6(金)晴

 奥上林村誌を見ていると、二十八水後の河川改修図が出てきた。旧の水流と改修後の河川が記してあるのだが、草壁川と上林川合流地点はかなり流路が変わっている。現在は草壁と庄の間あたりから合流地点まで約700mはほぼ東西に直線の流れとなっているのだが、旧の流路はその間二度の蛇行を重ね、合流地点は上林川が最も東に出っ張ったところ、現合流地点から100m程上流の様子である。草壁川は現流路より北側にあって、鳥垣を直接侵食していたとは考えられない。
 しかしこれは二十八水以前のことで太古の流路は解らない。地質学的に調査すれば解ることだろうが、それらしい資料も見つけられないので、想像をたくましくする以外にない。
 地形図を穴の開くほど眺めていると色々のことが解ってくる。例えば先に紹介した環流丘陵だが、これは未発達のものも含めてすべて上林川の左岸に存在している。つまり上林川の蛇行は左岸側、概ね南側が大きいということだ。これは地質の違い、もしくは傾斜の問題だろうと思う。いずれにしても左岸の蛇行が大きいことは間違いないのだから、鳥垣の北の上林川の蛇行が大きく東に曲がっていたと予想することは可能である。現在その蛇行が小さくなっているのは草壁川の押し出した多量の土砂によるものと考えられる。P1000753
 
雪の鳥垣、白い丘が坂尾呂の里、旧の草壁川出合いはこの下辺りか。(睦寄橋から)


 さすれば鳥垣は蛇行した上林川の浸食を多分に受けていただろうと予想できる。しかし両河川によって運ばれた肥沃な土砂は古代の農耕にとっては最も大切なものであり、多くの古墳に見られるように文化が花開いたところとなったのではなかろうか。
 鳥垣地名の語源となる候補をいくつか挙げたのだが、わたしはこの浸食地形の語源が最も有力だと思っている。各地の地名を調べていると浸食、崩壊地形に由来するものが一番多いようである。それは日本人が自然災害、特に水害と闘ってきた証左でもある。
 崩壊地名、浸食地名って縁起悪いなあと思われるかもしれない。和同五年の二字佳名の令はそんなこともあって出されたのかも知れない。しかしその災いをなす水が豊穣な土地を育むことも事実であるし、なにより水無しでは生きていけないのである。

今日のじょん:雪の散歩道は獣達の行動がよく解る。狩猟採取の縄文文化が北国に花開いたことがよく理解できる。じょんと一緒に獣達の行動を探ってみよう。
P1000744 P1000745 P1000747
 



枡ヶ原の田んぼは完全に柵が張られたにもかかわらずイノシシの独壇場となっている。ではどこから侵入しているのか。折山方面には足跡がない、上下どこかに侵入路があるはずだ。つづく 

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大栗峠考(24) 1/5

2012-01-05 | 山・峠

2012.1.5(木)雪

 志古田道の謎を解くひとつである大栗地名については概ね結論が出たように思うが、大栗地名が崩壊地形を表す地名だとすると志古田だけでなくあちこちに普遍的に存在するはずである。上林では二箇所の大栗地名を発見、ひとつは十倉志茂町、もう一つが忠町である。そして隣接する舞鶴市与保呂(よほろ)にも大栗地名を発見する。これ等の地名箇所がどのような地形か確認したいのだが、とりあえずはその位置を確認したいと思っている。P1000347
 
忠町、この山中にも大栗がある。


 残された問題は志古田道にかつての京街道であった印を発見することである。
奥上林村誌にある「左京道・右弓削」の石碑が最もいいのだが、残念ながら見つかっていない。志古田道を歩いている人が誰もそれを見つけられないということは、あるいはとんでもないところにあるのかも知れない。その候補地をいくつか挙げたが、そんなところで見つかったら、それは事件である。
 奥上林村誌の石碑の記事を熟読してみると、山道は近道が最大の条件だという意志が強く書かれている。近道という意味が効率の良い最短距離という意味なのか、本道があってそれより早く行ける間道のことを言っているのか判断できないが、志古田山中の石碑の他に大町の橋のたもとの「左君尾山」の石碑について書いてあるのが気に掛かる。Img_2697 確実なことは解らないのだが、君尾山への正式な参道は山内と古井という風に聞いている。となるとこの畑口川左岸の道標はいわゆる近道を示す道標ということになる。さすれば村誌の筆者は志古田道も本道である弓削道に対する近道であるという風に考えておられたのではなかろうか。
 現実に江戸時代末期には弓削道が主流であっただろうし、モータリゼーションが発達する戦後まで主役は弓削道で、志古田道は近道だという考えが村人の間でもあったのではないだろうか。
 今雪の中に埋まっている志古田の山中を雪解けとともに探りたい思いで一杯である。つづく(大栗峠考(23)は2011.12.22)

【作業日誌 1/5】
雪かきくけこ

今日のじょん:じょんの写真で積雪状態を云々と言っていたら、またしても思い切り降ってしまった。朝八時の様子をたっぷりどうぞ。
P1000735 P1000737 P1000738  




見ての通り積雪は25cmだが大変重い雪で、樹木の被害はいくらかありそう。また今年初の停電もあったのだ。

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自転車取締について(4) 1/4

2012-01-04 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.4(水)雪

 実はこの話題は昨年中に終わらせたかったのだけれど、ついつい言いたいことが出てきて二年越しとなってしまった。
 自転車の通行について違反者の取締をしなければならなくなった背景は、自転車通行の増加、マナーや法規についての教育の欠如、車両を歩道で走らせるという矛盾、スピードの出る競技用自転車等の普及、自動車運転手のマナーの欠如といったことが挙げられると思う。
 最も理想的な形は車道の左隅に自転車専用レーンを設けることである。しかしこれは極一部で設置できたとしても、あらゆる道路に作ることは不可能である。自動車だけでも一杯一杯で歩道さえも確保できない道路がいくらでもあるのだから。ましてやこのレーンをラインだけで分離するのは意味がない。自動車の駐車場所に変わってしまうのが関の山だからだ。これは歩道上の自転車レーンについても同じことが言える。ラインだけだと駐車自動車、歩行者の通行で占拠されてしまうだろうから。
 つまり専用レーンには自動車の入れない分離帯が必要なのである。
 そういう意味で現在最も有効なのが各地にある自転車道である。これは河川の堤防上などに本格的に作られた自転車道で、地方都市や大都市の近郊などにあって、その利用度はかなり高いと思う。河川管理の一環として整備されているようで、道路管理とは別の分野なのかも知れないが、レジャー、スポーツに大変役立っている。条件さえ合えば通勤にも十分利用できる。私自身嵐山木津川自転車道を長年通勤用に使用してきた。自動車は入らないけど、歩行者は散歩やジョギングなどかなり利用されている。日本一周自転車旅行では随分利用させてもらった。ただこれも一時建設ブームがあったようだが、最近新たな建設は聞かれないのだが、どうなっているのだろう。また既存の自転車道でも保守がなされずに、途中で寸断されたり、崩壊しているものも沢山見かけた。Img_1945
Img_1972 Img_1977  




焼津から伊良湖まで途切れながらも続いている自転車道。ダートになったり砂被ったり。


自転車専用レーン、自転車道は自転車の理想的な交通形態だがこれがすべてに完備されることはあり得ない。従って車道にせよ歩道にせよ如何に行儀良く棲み分けて通行するかと言うことにかかってくるのではないだろうか。つまりハード面はなかなか進まないので、ソフト面でカバーしようという方向である。つづく

【作業日誌 1/4】
薪割り

今日のじょん:最近じょん君の写真の人気が出ている。じょんが格好いいとか可愛いとかいうのではなくて、じょんの写真で上林の雪の量が解るからだそうだ。
 都会に住みながら上林に家を持っている方が雪の量を見て、やれ雪かきにいかんならんとか屋根の雪降ろしをせんなんとか判断されるそうだ。そんな方々のためにスケールを置いて写真を撮ってるが、それよりじょんがもぐってる方が臨場感があってよろしいようだ。P1000732 P1000733 というわけで今日の16時頃、降り始めだけど一晩降れば相当積もりそうだ。
 
 

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雨読 青森県地名の謎 1/3

2012-01-04 | 雨読

2012.1.3(火)

 津軽共和国文庫という奇妙なシリーズの文庫本がある。青森県の歴史や文化、言語などについて10巻の文庫本があるようだ。そのうちのひとつが本書である。
 「青森県地名の謎」古代権力は”鉄”を求めて北上した!! (松田弘州著)
あすなろ舎 1995年6月第八刷 定価600円 購入価200円
P1000729
文庫本である。


 松田氏はあすなろ舎を主宰していて、自らの著書10巻を出版しておられるようだが、既に亡くなられているということですべてが世に出ているかは定かではない。中でも「三郡誌(つがるそとさんぐんし)の謎」でこの書が偽書であるという説を展開され爆発的に読まれたそうだ。わたしは三郡誌の真偽について今語れる状況ではないのだが、ネット上で討論されている内容を見ると、様々な学者、研究者入り乱れて泥仕合状態になっているようだ。
 本書では直接的に三郡誌の件については触れていないのだが、あらゆるところで三郡誌論争同様の個人的中傷誹謗が現れている。あらゆる事柄について論争し真実に近づいていくという姿勢は学問のあるべき姿であるが、個人的な中傷誹謗からは真実は見えてこない。Img_0839

東日流外三郡誌の舞台となる十三湖(2006.9)


 本書の中に製鉄に関する地名の研究がある。サビシロ、サンナイ、ホドなど丹波の字地名に多くあり、興味深い。
 ”南部の馬産は製鉄跡地を利用”という項はわたしの研究中の事と同意見で驚いた。
 わたしは日吉町の胡麻高原は製鉄跡地、つまり製鉄のため樹木を切り尽くした地ではないかと考えている。そしてそこには官営の牧があるのである。こういった例は各地にあるようで、本書の意見には心強く感じている。Img_3289
 
灌木の胡麻高原は大きな樹林が製鉄用に切り倒されたのではないだろうか。


 もう一つ共感を覚えるのは、アイヌ地名に対する考え方である。アイヌ地名とされているものは沢山あるが、意味をなさないものが多い。単なる語呂合わせとしか思えないものがある。氏はそういった地名を内地の言葉で再検討されている。アイヌ語が東北地方に伝播したというより、本州の古い言葉がアイヌ語に取り入れられているのではということらしい。これは個別の例を見ると納得のいくもので、支持することが多いのである。
 最後に青森県の地名についてその語源を網羅しているのだが、参考になるものもあり、首をかしげるものもある。

今日のじょん:今日はおとーは同窓会で不在なので朝の内に写真を撮っておこうと撮ったんだけど、記事の内容がないよー。てかっ。P1000716   

 

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正月2日目 1/2

2012-01-02 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.2(月)雨、霙

 正月の楽しみは朝寝である。本当は昼頃まで寝ていたいのだけどじょんのおしっこもあるので九時過ぎ起床となっている。例年だと正月休みにあれしようこれしようと予定を立てて結局なにもできなくて自己嫌悪に陥るので今年は何も予定を立てなかった。ただ一つ薪割りだけは正月中にけりをつけようと思っていたのだが、朝起きてみると軽い積雪、断続的に霙の天気で思うように作業できない。P1000599
 
正月に割る薪がこれだけ残っている。(12.18)



 晴れている間は薪を割り、雨、霙の間は作業場で刈払い機吊りと自転車吊りを作製する。雨の方が多くて刈払い機吊りは完成、薪はかなり残ってしまった。
 実はこの薪は昨年の冬に切り出したもので、腐りが来る寸前で薪としては品質の落ちるものだが薪割り一丁で作業が出来、すこぶる効率が良いものである。昨秋の状態では楔を使うケースが多かったので随分変わるものだ。
 また、薪割りのテクニックも随分進歩し新しい技も生み出したので紹介したい。
小原流そぎ割り(といっても生け花ではない)は以前に紹介したが、今日は小原流ケーキカット割りである。
薪割り台にのせたまま、八つに割れ目を入れ、最後の一撃でバラバラにするというミラクルテクニックである。P1000710 P1000711




まず四つに割り、次に八つに割る。このあと蹴飛ばせばバラバラになる。

 この割り方の利点はいちいち切れ残りを台に戻す手間が省け効率的で体力の消耗も少ないということである。途中で切れ端がケーキカット状に切れ落ちることもあるが、本体が残っていれば良しとして、成功の確率は三割ってところか。切り口の形状とか節の具合とかでやむを得ないが、これだけ楽しめばまあいっか。P1000709
 

八つに割る最中に切れ落ちることがある。ケーキカット割りの由縁。


 さて、このあたりでお気づきでしょうが、ですます調がである調になってるのだ。昨年10月にですます宣言して3ヶ月頑張ったが、どうもよろしくないので新年からである調に戻したのだ。
 金達寿(キムタルス)氏が講談社の編集者布宮みつこさんの提言に従ってですます調で書かれた「日本古代史と朝鮮」を読んで、これは読みやすいと同調した訳である。読者にとって読みやすいのはいいのだが、書く方はどうもなじまない。自分の云いたいことや表したいことがどうも一枚オブラートに包まれたような気がするのだ。しかも書くにしてもキーボード打つにしても字数が多すぎる。これはすこぶる面倒なのだ。従って文の道中はである調で最後の語尾だけですます調にしてなんとも奇妙な文章になったりしている。読者には申し訳ないが再度である調でスタートしたいのでご了承いただきたい。但しこれは無理に統一する必要もなさそうだ。特に様々な方面に発信する晴徨雨読の場合、ですます調が必要な文もあるわけで、入り混じってもおかしくない文章を書くつもりでいる。

【作業日誌 1/2】
薪割り
刈払い機吊り完成

今日のじょん:今日の雪はこんなもの、ほっておいてもすぐ解ける。(わたしのかかと調に、、、)それでもじょんは元気元気、なんでって、おとーもおかーもずっといっしょにいるからさ。P1000707 P1000708

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