晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(30) 1/20

2012-01-20 | 山・峠

2012.1.20(金)雨

 志古田道が本来の大栗峠道だと考える理由に柳田国男氏の峠の表裏理論というのがある。幾多の峠を越え、その民俗について調査研究された氏が、開拓時の峠の姿について述べられたもので、古い峠の多くはこの形態をとるというものである。
 「秋風帖」という書物に書かれているのだが、わたしなりに解釈してその趣旨を記しておく。

 峠道は一方からもう一方へ方向性をもって拓かれた。前者は水の音の近い山道、即ち沢道で峠の近くで急峻となり、後者は水の音の遠い山道、即ち尾根道を下り末端部で一気に下る、前者を甲後者を乙とされている。なぜこのようになるかといえば、峠道を拓こうと登る者は峠、即ち山稜の鞍部を目指すわけである。沢のツメが鞍部であるわけだから、足下は悪くても忠実に沢を辿れば鞍部に到着するわけだ。峠からの目的地は里である。里を目指して降りていくのは尾根筋が一番良い。沢筋ではとんでもない方向に行くことがある。峠道を断面図にすれば、山稜そのものは対象形であっても道は非対称となる。前者甲を表口とし、乙を裏口として峠の表裏理論といわれている。P1000400
 
P1000378

甲種の道(志古田道)と乙種の道(上粟野道)

 開拓の経緯だけでなく、経済、物流という意味でも、峠道の方向性は語られると思う。信州や甲州などの大きな峠では両方の村から物資を持ってきて置いておく荷渡し場があったそうだ。顔を合わすことが無くても、平等に物々交換が行われており、この場合は両村とも対等だが、その場合でも当初は一方的な流れだったのではなかろうか。
 例えば若狭と上林を結ぶ猪鼻峠なら、若狭からは塩や海産物が、上林からは炭などが往き来しただろうが、大栗峠では海産物が和知に向かっても、山の産物が上林に向かうことは少ないのではないだろうか。上林も山国なのだから。
 
 大栗峠志古田道は柳田氏の理論にぴったりの峠道である。
 ただ総ての峠道がこの理論に沿って拓かれているわけではない。地形的な要素が大きく影響するからだろう。柳田氏も
「峠に由つては甲種と甲種、又は乙種と乙種とを結び付けたのもある。」と書いている。また、「殊に新道に至つては前にも云ふとほり、乙種のものが多いけれども、古くからの峠ならば一方は甲種他方は乙種である。」と書いており、新道は乙種のものが多いというのは、将に弓削道のことと合致するのである。P1000091 つづく

乙種の道(弓削道)



(大栗峠考29は2012.1.18)

【作業日誌 1/20】
薪割り

今日のじょん:脱走する犬について気がついた事なんだけど、どうも環境が変わったとき、つまり居場所が変わったときが多いようだ。昨年のタロウも京都から綾部に来ている時だそうだし、今回のらんちゃんも居場所が変わった時である。サチが行方不明になったのも、もらわれてきた当初じゃないだろうか。聞いてみよう。
ユキちゃんは猿を追いかけて山に入ったが、ちゃんとじょんのびに帰ってきたぞ。P1000827  

ユキちゃんの居場所はトイレの前。なんしとんじゃ。 

コメント
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