晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

地名のこと(3) 1/9

2012-01-09 | 上林地名考

2012.1.9(月・祝)曇、雨

 柳田氏がむだな苦労と言っておられるのは、地名について考えるとき今日のようにあらゆる資料や情報が揃っていない時代での調査研究の困難さを語っておられるのだろう。
 先程の文章の後に続いている文を見ると、氏の言うむだということが実はむだでなくて、わたしたちが日本中を旅しなくても文献や資料を元に、ある程度地名について考えることができるという意味で貴重な労力であったことが解る。
 
 もしこの経験がなんらかの役にたつとすれば、それはただ諸君にもう一度、同じようなむだをさせないというだけの、消極的な参考となるにすぎないのである。(地名の研究、地名と地理より)

 柳田氏は大変な苦労をしてもまだ価値ある発見はないといっている。無数の難解地名を解読し、立派な書物を世に出しておられる氏が、価値ある発見は無いといわれるのは如何なる事であろうか。
 げすの勘ぐりなのだが、「大変な苦労をして地名の意味についてその語源や謂われから解析したとしても、それが真実であるか確認のしようがないという不安や苦しさ」のことを言っておられるのではなかろうか。
 わたしは「その地名がどういう意味で付けられたかは、タイムマシンなるものが発明され、その地名が付けられた時点に遡る以外に確かめようが無い」という風に考えてきた。タイムマシンなんてものが発明されようとは思わないが、もし仮にできたとして、その時代に行っても以下のようなことになろうかと思う。
「あのあたりは鳥垣というそうですが、なぜ鳥垣というのですか」
「さあみんな鳥垣、鳥垣と呼んでるからじゃないの」
「???}
とまあ地名なんてのはそういうものでしょう。「何時一過こういう意味でこういう地名を付けました」というような性格のものではないからだ。知らない間にだれもがそう呼ぶようになったのが地名だろう。
 
 地名の意味、謂われを発見したときの喜びは大きい、調査研究の苦労が大きいほど喜びも大きい。しかしその自らの仮説を証明しようがないとなると、常に不安になるし、永久に結論はでないのである。
 そのことがつぎにより深く調査研究することとなり、また新たな発見がでる。しかしそれとて証明はなされない。とまあ地名研究を止めるまでその堂々めぐりが続くわけである。
 柳田氏はこのことを言ってるのでは無かろうか。つづく

今探究が行き詰まっている地名Img_4765 引地、猪ノ鼻Img_3164 




左:古城山から引地方面 右:京丹波町猪鼻

今日のじょん:はなちゃんという三才の柴が遊びに来たぞ。これがまあ可愛いのなんのって。写真撮っちゃろと思うのだが、じょんが邪魔して上手く撮れない。モモねえさんもいっちょかみなのだ。P1000767 P1000768 P1000772
 

 

 

 

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