晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(29) 1/18

2012-01-18 | 山・峠

2012.1.18(水)晴

 大栗峠志古田道の謎について整理しておこう。

1.京街道本道は弓削道で、志古田道は単なる近道か?
 否 本来志古田道が本道で、大栗峠を越える道は志古田道が最初であったと思われる。

2.なぜ志古田道が本道だったのか?
 峠道が造られる法則はまずは迷わない最短距離であることがいわれている。まさに志古田道はその法則通りの道である。

3.なぜ志古田道は京街道本道の座を弓削道に譲ったのか?
 人の肩や背に負われていた荷が時代の進歩と共により多くの輸送力を必要とされてきた。そうすると谷筋の急登では牛馬の通行に堪える道巾が確保できないのである。しかも崩壊地形のためそのような道を造ったとしても維持できないという理由があろう。弓削道は使われなくなった今日でも、往時のまま存在しているほど立派な道である。P1000091

こんな広い峠道は他にはない。


4.なぜ崩壊地形である志古田谷に最初の京道ができたか?
 前述の通り最短距離であることが大きな理由だが、崩壊に対する補修という意味では当初は歩行のみの通行であるので、車馬の通うような大きな街道ほど大変ではなかったのではなかろうか。
 志古田道は弓削道が整備された後も、空身或いは肩荷などの人々には近道として使われていたのだろうと思う。P1000395

こんなに崩壊しても歩くだけの道なら作り直せる。


5.なぜ志古田道には地蔵や道標などが残っていないか?
 見つけられないのだと思う。もっとも街道に存在する偶像は平安期以降のものといわれるのでそれ以前のものは当然無いわけだが、江戸末期においても峠や上粟野側の地蔵を寄進している志古田の村人が我が村の中にある街道に何か残さないはずはないと思うのだが、今のところ何も見つかっていない。少なくとも奥上林村誌にある「左京道 右弓削」の道標はあったはずである。盗難にあったか埋もれたか、はたまた現行の道とは違うルートを街道が走っていたか。

 というようなところだが、最大の謎は「左京道 右弓削」の道標であり、この道標の発見こそが上記の事柄を証拠づける事になるのではないだろうか。つづく


今日のじょん:今朝は放射冷却で今季一番の冷え込み、じょんのび村でも-3℃となった。じょんの水飲み用の食器も蒼氷でカチンカチン。P1000817
 
なんじゃこりゃ、ペロペロ。


 昨日からいくみちゃんが来てるので何をやっても気もそぞろ。二階で声がしたらぽんぽこぽんの途中で固まってしまった。P1000816

 

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大栗峠考(28) 1/17

2012-01-18 | 山・峠

2012.1.17(火)曇

 今ひとつ整理しておかなければならない事がある。道の変遷という問題である。
わたしの持論は「道は尾根に始まり、時代が進むに従って谷に降りてくる」という原則である。※注1.
 こういう考えを持つに至ったのは、過去の山岳雑誌の論文が出発点で、日本アルプスなどの登山をしながら確信してきたことである。しかし今日にいたってその説をあらゆる道、街道に当てはめるのは間違いであることに気付いてきた。確かに急峻な日本アルプスなどの地形では、その説が成り立つだろう。そういうところでは谷はほとんどが岩盤で、とても道を造るなんて不可能であった。ただ残雪期には容易に往き来ができるので、いわゆる探検時代には谷が利用されたものと思う。
 しかし雪の無い季節には谷は通行不可能であり、尾根道こそが利用可能な道である。仮に中腹に道を造ったとしても一冬の積雪で崩壊するだろう。つまり道が尾根から谷に降りてくるには道路建設や保守の技術発達と道路の用途の必要性が要るわけである。道路の用途とはダムなどの大規模開発、モータリゼーションの発達などである。黒部下廊下の日電歩道などは登山者のために造られたのでなく、黒部川に作られたダムや発電所のために作られたのである。
 こういった道の発達過程の説を、どこの地域にも当てはめると矛盾が出てくる。その矛盾に気付いたのは大栗峠を巡る道である。
 高峻な山岳地帯でない丹波では、谷は決して通行不能なものでなく、積雪といっても信州や飛騨とは比べものにならない。
 人が初めて山に入る場合、山を越える場合は必ず谷を遡ったと思う。絶対的に歩きやすいことと、迷わず進めるということである。辿り着いたところが峠であり、それは越えて目的地に行く場合には、最短の道なのである。
 この道が安定したものであれば、峠道になり、街道となる。しかし谷道は不安定である。危険なところには捲き道が出来、ツメのところは急峻なので尾根に上がったり斜面につづら折れの道が刻まれたりするのだろう。
 上林から出る胡麻峠、猪鼻峠などは将にそのとおりの道である。洞峠は谷が険しいためか、崩壊の危険があるためか早い目に尾根に上がっている。実際に谷には大きな崩壊の痕があった。Img_2855
 
猪鼻峠の登り右手に登って行く谷沿いの道、ツメのところで斜面をジグザグに登る。

Img_3494
胡麻峠も谷筋を遡り、最後に左の斜面をジグザグに登る。

P1000400 志古田道は大岩まで谷筋、以後捲き道、尾根道となる。

 低山、寡雪の地帯にあっては、道は谷に始まり、谷に終わるといえよう。
 ところが、大栗峠につては谷に始まり、尾根に終わっているとわたしは考えている。つづく

注1.大栗峠考(4)2011.7.30、訂正猪鼻峠2010.8.23参照

【作業日誌 1/17】
薪割り

今日のじょん:新じょん語録(6)鍋ねこじょん
 鍋ねこてえのが流行ったことがあるが、じょんが鍋に入るわけじゃない。間食も昼食もとらないじょんが、鍋を出してくると必ずねだるのだ。鍋ったって上等なものじゃなく我が家のステンレスの鍋なんだけどね。まあ鍋が好きなのってにっぽんの犬って感じで面白いだろ。P1000791
 

これは晩やけどね。

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