晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(32) 1/23

2012-01-23 | 山・峠

2012.1.23(月)雨、雪

 大栗峠志古田道について考察を重ねてきたが、最後まで残っているのが「左京道 右弓削」の道標である。色々と予測をしてきたが、考察を重ねている内に存在すべき候補地が消えて行き、現在最も有力な候補地は峠下の志古田谷源流部分と考える。
 志古田道が志古田谷を遡る谷道であることはほぼ間違いがないだろうし、最初に人が通ったのは志古田谷を忠実に辿ったものと思われる。幾多の人が現在の志古田道を歩きながら、この道標に気付かないあるいは見つけられないとすると、現在の道以外のところを街道が走っていたと考えざるを得ない。そういう道を想定すると、それは志古田谷直登ルートが最も濃厚である。P1000391
 
この谷のツメが大栗峠。


 そして「左京道 右弓削」という方向を指し示す内容から考えると、峠の直下が妥当だと思うのである。内容は峠そのものの道案内ではなかろうか。右へ行くと弓削に行く、左(正式には真直ぐ)に行くと京道だと示しているのではなかろうか。
 志古田谷の大岩のところから上部は捲き道、あるいは支尾根に取り付いた道となる。これらの道は弓削道ほど巾は広くないが、石垣などの跡もあり、かなり古い峠道の風格がある。P1000389 P1000392
 
尾根道、捲き道には石垣の跡がかすかに残っている。


 元々の道が谷筋であるとして、これ等の尾根道等ができたのはやはり谷筋の崩壊が激しいためだろうと想像する。わたしは谷筋の直登はしていないのだが、途中に滝などの通行を阻害するものは無さそうだと予想している。ただ道を維持するには無理なのだろう。

 「左京道 右弓削」の道標のさす京道が、峠より向こうの上粟野に向かう道であったとしたら、志古田道が本来の京街道であるという証拠にはならない。ただ京道という表現が京街道を示すのではなく、単に京に向かう道ということを示しているのかも知れない。
 志古田道が最初に谷筋に造られ、それが大栗峠を越える京街道となり、やがて上部に捲き道や尾根道が出来、そして時代が進んで弓削道が整備され京街道の座を奪われたとするわたしの説は、谷筋に例の道標があるだろうという予想と矛盾するものである。最も古い谷筋の道に新しい弓削道の道標があるはずがないからである。むしろ尾根道から谷筋に転げ落ちたとすればつじつまは合うわけだ。
 
 「左京道 右弓削」の道標は本当に存在したのだろうか。奥上林村誌の筆者はその道標を見ているのだろうか。わたしは疑問に感じている。
 「弓削」は山田道の別れの石柱には「ゆけ」と記され、和知側の地蔵さまには「ユケ」と書かれている。他の文字について漢字が使われていないということではないが、道案内をする場合はなるべく易しく書いてあるように思えるのだ。P1000381 P1000087


「ユケ」「ゆけ」と書かれている。




 山田道の登り口には絵文字の石柱があると聞く。これは当時文字の読めない人にも解るように書かれたものである。Img_1386
 

「かまわんはいれ」




 道標があったとしても「左京道 右弓削」ではなく、もっと解りやすく書かれていたのではないだろうか。つづく

今日のじょん:らんちゃん発見。先日行方不明になっていたらんちゃんが10日振りに発見された。皆さんご協力ありがとうございました。
 家の近くの川でお巡りさんに発見されたそうだが、元気で良かった。リード着けたまま10日間もどうしてたんだろう。大寒波、大雪の前に発見されて本当によかった。P1000848
  
夕方5時の様子、明日は積もるぞ。 

コメント
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