ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「茶の湯とキムチ」

2012年02月13日 | 感じたこと
 丁宗鉄著、講談社刊の「茶の湯とキムチ」を読んだ。

 一昨年に刊行された単行本なのだが、出版の新聞広告を見た記憶があって、機会があったら読みたいと思っていたので、今回図書館で借りて読むことができたのであった。

 まずこの本の趣旨とでも言うべきテーマは、日韓両国の歴史や文化に多くの共通点や相互交流による影響が多大にあるにも関わらず、1910年の日韓併合という歴史的には日本が朝鮮を一方的に併合し、日本人としての皇民教育を強いったりしたことや第二次世界大戦における朝鮮人を強制的に日本に連れて来たことなどがあって、戦後の李承晩政権下で、厳しい反日教育がされたりして、未だに一番近い隣国なのに、何とも日本人と韓国人の思いにはギャップが存在しているのではないかということである。

 しかし、歴史や文化を詳細に紐解いて行くと、意外にも良く似た面も当然多くあり、筆者は最後には日本と韓国は、「二卵性双生児」の様な存在であり、アジアの国々を結びつけて、中国をも含むアジアの連帯的調和と発展には欠かすことの出来ないパートナーとして、今後のアジア外交に率先的役割を果たせると論じているのである。

 丁さん自身は、1947年に東京で生まれた在日二世であり、医学博士で漢方医学が専門らしいのだが、著書に「正座と日本人」(講談社)や「医者を信じると病気になる」(講談社新書)、「自分で長寿をデザインする」(ビジネス社)、『がんを治す「戦略的組み合わせ療法」』(二見書房)などがあるが、医学部を出て医者となったが、大の歴史好きで、現在も歴史書や歴史の史料を読み漁るという人物である。

 この著書のタイトルである、「茶の湯とキムチ」については、要するに日本の固有の文化の様に語られたり思われたりしている「茶道」、すなわち「茶の湯」の背景や裏側には朝鮮半島の生活や文化が色濃く影響していることが明白だし、また「キムチは朝鮮の固有の食べ物」と思われがちな食品だが、日本の唐辛子が大きな影響を与えて、現在は韓国の伝統的食品として有名にはなっているのだが、お互いの隣国としての影が明らかに見え隠れしているというのを解き明かそうとされた本なのです。

 そして、日本人と韓国人は、何故に必要以上にお互いを意識するのか、またお互いの隣国を嫌うところも多く鮮明に明らかになっている様で、巷では多くは語られなくても、日本人同士や韓国人同士の同民族間では、激しく隣国を批判したりののしったりしている場合も多いのである。

 しかし、韓国にルーツを持ち、日本で育った著者が、グローバルな視点から、現代世界で果たすべき役割としてのアジアの日本と韓国、両国が向かうべき道を具体的に提示しつつ、過去の歴史に囚われずに、新たな交流の歴史から独自の日韓関係を創造して、「鳥瞰的」視野からの文化と人間の協同作業が出きる両国だと思わせてくれているのである。

 日本人は詫び寂びを含む、表に派手に振舞わない性格と手法を美徳とするが、韓国人は派手にはっきりと違いや問題を指摘する強さを持っている人が多い民族なので、いずれの要素も大事にして、この両方の良さを使い分けて、世界に発言し提案して行くことの出来る「二卵性双生児」としてのパートナーになり得るというのである。

 そして、著者はそもそも民族の違いや問題点ばかりを指摘している現在の国々であってはいけないと説き、20世紀の国際政治学者、カール・ドイッチが著書の中で、「民族とは、同じ祖先を持つという誤信と、周囲の民族への憎しみによって、一つにまとまった人間の集団である」と言っていることを示していて、私は民族の違いという共同幻想は、相手国や地域との対抗意識を助長するための作為的教育を国が行って来た賜物だろうと思うほど、愚かな理念かも知れないと感じたのでした。
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食材を生かす。

2012年02月12日 | 季節の話題
 18年目となる有機八百屋で多様な食品、食材を仕入れしているが、今のシーズンは「手づくり味噌」を作る人のための米麹と大豆を仕入れする季節だが、最近は「手作り味噌」を作る人も少なくなっていて、適当に予測で仕入れをしてしまうと原料としての大豆や麹が残ってしまうこともあり、もったいない限りである。

 昨年の残った味噌作り用の大豆は春先に売れたが、麹はいつか何かに利用しようと思っている内に、長い間冷蔵庫の隅に置かれたまま、忘れられた状態でカビが生えてしまい、せっかくの上等な麹なのに無駄にしてしまい、非常に残念であった。

 有機もしくは無農薬や減農薬、特別栽培された食材でも売れ残るものも結構あるので、ともかく食材を無駄にしてしまうことには大きな抵抗があって、残った食材でも有効に利用したり食したりしたいものと、いつも考えているのだが、なかなか思う様にいかない場合もあって、まことに残念である。

 先日仕入れた食品の中に当然「くるみ」と言えば、あの大きな西洋胡桃だと思っていたのだが、納品された胡桃を見てビックリ、それは和胡桃、俗に言うところの「鬼胡桃」だったために、一般には最近はあまり利用されないために販売には適していないと判断して倉庫の隅に5袋ほど置いていた。

 また、正月用食品のひとつとして「銀杏」、また昨年仕入れたが売り切れなかったものに「らっきょ」があって、畑から採れたままの姿で、ずっと冷蔵庫にしまわれていたので、いつか利用しようと思いつつ、気になっていた食材として脳裏にあったものたちである。

 そこで時間が出来た時に、らっきょ、和胡桃、銀杏などの食材を、利用して食用にしたいとの思いから、先日は大量の「らっきょ」の内、昨年酢漬けとして漬け込んだラッキョの残りが、冷蔵庫の中で長い髭の様な細い根を伸ばしていたので、根と先っちょを切って皮をむいて、「ラッキョ漬」にふさわしい状態へ処理して、やっとこさ残りのラッキョを漬け込んだのであった。

 我が女房も、私の八百屋での残った野菜やその他の食材を、それなりに生かして食べられる料理にはしてくれているのだが、彼女は何故か「ラッキョ」が大嫌いな様で、生のラッキョとて、全く手にして加工や食材として利用しようとはしないので、ラッキョが大好きな私自身が手間暇かけても作るしかないのである。

 そして先週は、正月用にと仕入れしていた「銀杏」だったのだが、これもちょっと癖のある食材でもあるし、殻付きのままでは「メンドクサイ」と言った感の強い食材のひとつでもあり、独特の味とな匂いがあるので、好き嫌いがはっきりとしていて、あまり食さない人もいると思われる、あってもなくても良いと言う人がいるくらいの食材なのだが、煎って割って味わうと、なかなかおつなものであり、あまり食べ過ぎると良くないと言われているらしいが、フライパンで煎って割っていただいたのであった。

 今日は、あの「和胡桃」を一袋持ち出して、銀杏同様にフライパンで煎るように熱して、殻をもろくした後、ペンチではさんで割って、小さな実を小さなナイフでほじくり出すという、結構手間のかかる作業を繰り返して、やっと約60グラムほどの胡桃の実を集めた。

 その実を有効に利用してと考えて、ホットケーキミックスの粉があったので、卵と無塩バターと砂糖を入れて生地を作って、そこに殻から出した胡桃の実と干し葡萄を入れて、バウンドケーキの型に流し込んでのケーキづくりに挑戦しようと、一生懸命数多くの和胡桃の実を取り出すのに専念した。

 西洋胡桃と違って本当に和胡桃の実の部分は少なく、ちょっとした実も無駄にはしまいと取り出したために、パウンドケーキの中にもホットケーキ風に焼いた菓子の中にも、小さな殻が結構入ってしまい、歯に当たる殻の欠片と格闘しながら美味しく食したのである。 
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子どもと大人の視線

2012年02月09日 | 感じたこと
 今日は大阪へ朝早く出て所用を済ませて、あるターミナルで遅い昼食をとろうと新しく出来たショッピングモールへ入った。

 私たちがエレベーターに乗って目的のお店に行こうと二人でいろいろと話していたのだが、すぐに若いママ友らしき女性たちが三人同じエレベーターに乗ってきて、私たちの存在には全く気づいていないかの様な雰囲気で自分たちの子どものことや買った絵本について話していたのである。

 しかし、その若いママの子供と思われる一歳くらいの男の子は、ベビーカーから身を乗り出さんばかりに動いていて、目線を私たちに向けていたのである。

 つまり、大人たちの目線はお仲間であるママ友同士にしか向いていないのだったが、幼児の目線は周囲の大人である私にも間違いなく来ていて、私が愛想笑いというべきか、ちょっと笑顔で目線を返すと、まだ赤ちゃんであるし何処の誰だかわからぬはずなのに、しっかりと笑顔で私の目を見つめてくれたのである。

 食事を注文してお茶を飲み、和やかに食事をしていたら、そのテーブルの近くに全く知らない女児がやってきて、私の方を笑顔で見つめるので、私も笑顔を返してそれに応えたのだが、別のテーブルで食事をされていたご家族が気づかぬ間に、たまたま彼女は見知らぬ他人である私のすぐ側までやってきて、自然な挨拶をしてくれたのであった。

 私は外出した折には、よっぽど急いでいない限りは、通りすがりの人々とすれ違う時にも軽く視線を送って、老若男女を問わず少し観察?する癖と言うべきか、ちょっとした興味をいつも抱いて歩くのだが、多くの行き交う人々は、大抵は忙しさか他人にほとんど関心がないせいか、自分の行く先だけしか見つめていない様子で、何と視界が狭いのだろうと思ってしまうのである。

 確かに外出先で、きょろきょろと目線をいろんなところに向けてばかりいると、なんとも挙動不審の人間の様に思われないとも限らないのだが、私の場合は結構早く歩きながら、道行く人、すれ違う他人、特に子どもたちには興味があるため、どんな子か観察したり、どういう人か外見だけだが興味を持って見ながら歩いている場合が多いのである。

 そんな中、大人はほとんど目線を交わすことはないのだが、全く見ず知らずの他人が大半の繁華街やターミナルを歩いていても、もう自分で歩くことの出きる幼児以上の子供たちの場合は、私の様なおじさんであったとしても、それなりの状況で目線を相手の目に送ると、しっかりと目線を返してくれているのがよくわかるのである。

 小学生の低学年くらいまでの男女は、しっかりと目線を周囲の大人である私にも向けて軽く挨拶してくれたりもするのだが、小学上級生より上の年齢になってしまうと、例外の子どももいるが大半は、自分たちの仲間、友達との空間に自分を置いて、安心するのだろうが周囲の大人や空気感には関心がない感じで、もう大人のそれとよく似た世界を作ってしまっている様に感じるのである。

 つまり、私が言いたいのは、特に大人たちが周囲の人々、つまり他人には関心を全く示すどころか、無関心すぎる感じであり、特に電車の車内や外出先の歩行者が多い繁華街などでも、スマートフォンや携帯に目をやっていて、よっぽど大きな音や賑わいか危険な事象が起きない限り、自分の世界の中にしか関心がないというそ昨今の状態について、何とも危惧をすら感じているのである。

 電車内の優先座席に象徴される様に、空いていたら若者も誰もが遠慮の気持ちもなくドンと座っていて、必要とする人が乗ってきても全く知らないし、中には眠ったふりや先に記した如きスマホなどの自分の世界に夢中すぎる現状を憂うのである。

 大人たちも子どもたちの様に、自分の周囲にいる他人にも関心?や興味を少しでも抱いて、目線を受けて思いやりでお互いの心を察する気持ちを持とうではないか。
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ソーシャル・ネットワーク

2012年02月08日 | 感じたこと
 パソコンを購入し自分自身でPCメールやインターネットを利用する様になったのは、たかだか10数年前にすぎない。

 私の場合は1995年頃に友人の薦めで、はじめてノートパソコンを購入し、インターネットプロバイダーに加入し、自分自身のパソコンメールアドレスを取得して、通信を行い情報をゲットし出したのだが、まだまだその頃は文書作成や記録は何故かワープロの使い勝手が良く、パソコンとワープロの両方を使っていた。

 21世紀に入って、パソコンも3代目から4代目と模様替えし、2004年からは自らのブログを「ガリバー通信」として、いろんなテーマで書き綴り、インターネット上で誰もが見れる自分の意見や感想を、時には日記風に時には小論文風にとキーをたたいてきた。

 限られた友人、知人とのメール交信だけでは飽き足らない部分があったためか、ソーシャル・ネットワーク・サービスの一つであるMIXIに参加し、より多くの知人、友人、または一度も会ったことのないインターネット上だけの知人との情報交換やメッセージのやり取りも始まった。

 昨年、北アフリカから中東へと「アラブの春」と称された、今までの長期の独裁政権に反対する民衆たちの抵抗と現政権打倒の嵐が勢いづき、チュニジア、リビア、エジプト、シリアと続く民主化運動が吹きぬけたが、その背景に大きな役割を果たしたといわれているのが「フェイス・ブック」であった。

 私も、この「フェイス・ブック」へのアクセスをし、今では毎日の様に記している私のブログ「ガリバー通信」も、このフェイス・ブックを通じても、友人、知人たちとのネットワーク上で読まれたり知っていただいたりしている現状に至っている。

 この地球上の世界で、今や6億人を超すといわれるユーザーが、「フェイス・ブック」に参加し、世界中で多種多様な情報と交信が自由にされているのだが、この「Facebook」創設のきっかけから本格的な世界的ネットワークへと成長して行く過程を描いた映画「ソーシャル・ネットワーク」が昨年公開されていたのだが、その時はまだ私自身は「フェイス・ブック」をあまり良く知らなかったこともあって、約一年経った今、DVDをレンタルして観たのである。

 2004年にアメリカ合衆国のハーバード大学の学生だった、マーク・ザッカーバーグが、彼女との別れをきっかけに酔った勢いで、女子学生を比べるというサイトを作り、ブログで彼女を誹謗するという愚行を行ったことが、大変なアクセスと倫理的にも問題となったのだが、そのプログラミング力に魅せられたエドゥアル・サベリンらが共同創設者として名乗りをあげ、最初はアメリカ国内の大学間のネットワークだったのだが、いつの間にかイギリスやヨーロッパにも広がり、あっと言う間に世界一のSNSとなったのである。

 2006年9月26日以降は一般にも開放され、2008年からは日本語版も公開され、13歳以上なら無料で参加でき、実名登録制を基本としていて、個人情報の登録も必要とされているが、急速にユーザー数が増加して、2010年にはGoogleを抜くサイトアクセス数に達し、2011年9月に世界中の8億人のユーザーを持つ世界最大のSNSとなったとされている。

 しかし、映画で描かれている創設時のきっかけは、女子学生たちの身分証明書を勝手にハッキングし、インターネット上に無断公開し、彼女たちの顔を比べて勝ち抜き投票させるという「フェイスマッシュ」というゲームを考案したことから、大学内で問題となり、彼は半年間の保護観察処分を受けるというスタートだったのが、学生たちの大学内での登録制による交流を図るための「フェイス・ブック」のサービスへと転化させて、今や世界中の誰もが利用できる大きなネットワークサービスに発展させ、世界で一番若い億万長者となったとされている。
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ヤラセとやらない。

2012年02月06日 | 日本の課題
 昨日の国会予算委員会で、例の沖縄宜野湾市の市長選を前にして、沖縄防衛局の真鍋氏が呼ばれて、事前の「講話」をしたという問題が取り上げられて、下地国民新党幹事長が「自民党時代からやっていたことだから、その様に言えばいい。」と真鍋氏に迫っていたのが、印象的であったのだが、まるで「ヤラセ」があったかなかったかを質疑しても埒が明かないのであった。

 今回の宜野湾市長選挙は昨日告示されて、元宜野湾市長で前回の知事選に立候補し落選した伊波候補と前県会議員で自民党、公明党などが推薦する候補との一騎打ちで選挙戦が一週間続いているのだが、いつもの様に沖縄防衛局では恒例の如く、普天間基地の移設問題で政府の方針とそりれに反する案とでもめている最中であるので、少しでも有利に推薦候補が当選することを願ってか否か、定かではないが、例の「選挙には行きましょう!」とする講話があったというのである。

 またかっと言った感じであり、ちっとも驚きはしないのだが、普天間基地の移転先として日米合意とされている辺野古地域のある名護市の市長選挙でも、同様な事前の説明会?が開催されていたらしいし、沖縄県各地で自治体の首長を決める選挙の折だけかもしれないが、通常業務の如く、同様に特定地域内の防衛省関連施設や公務員の家族をも含めた有権者を対象とした講話がなされていたらしい。

 つまり、真鍋氏に限らず沖縄に置かれた防衛省関連の施設、事務所に勤務する国家公務員とその家族に対する、国側にとって望ましいとされる候補への直接的な投票依頼には至らないとしても、説明や選挙への参加を促す中で、いずれの候補者が望ましいかを悟らせるというか、暗に感じてもらうための講話だったに違いないのである。

 今日のニュースで、昨秋に行われた大阪市長選を巡って、明らかに前市長の平松氏の当選を期して、交通局関連の組合組織で、内部的に平松陣営への協力を求めるための調査と依頼がなされていて、もし協力が得られなければ「不利益が生じる」こともあると脅迫、もしくは恫喝しているという文書が内部告発で耀に出た。

 いずれも「氷山の一角」であろうと思われるのだが、九州電力の原発を巡る「やらせメール」や公聴会での発言の数々もそうだし、だいぶ以前に問題となった国民に重要課題についての説明をし意見を聞くという建前の「タウンミィーティング」とやらの大半に、事前に準備された政府や国にとって都合の良い意見や、賛成を述べる人物を要請し出席させていたという問題も、同じ様な体質の行政が、いつもやる手である。

 昔の映画だが、黒澤明監督で志村喬が主演した「生きる」という白黒映画で、ある役所の市民課の課長が長年の懸案だった公園建設に、自分の胃がんの末期を悟ってからまい進し、完成させたその公園で死をとげるというストーリーであるが、その映画で主人公の通夜の席で、同僚たち地方公務員たちの話に、役所の人間は「何もせんことが仕事や」というセリフが出てくるのだが、まさに「何もしないか、するとしたらヤラセだ」と言わざるを得ないほどの状況もあり、役所の人間は「人間のクズだ」との自問自答さえ出ていたのである。

 決して全ての公務員が「何もしない」とか「人間のクズ」だとか言っているのではないが、役所における常識としてまかり通っている仕事や現実のやり方などが、あまりにも事態錯誤であったり、国民感情や常識とはかけ離れた実態すである場合が、今でも多く存在しているという事実は、私も地方議員として地元の役所の実態を長年見て来て感じているので、やむを得ず言わざるを得ない面があるのである。

 何でも過去のやり方を踏襲し、前例主義とまで言われている役所の掟の様なやり方の数々にメスを入れなければ、そして役所で働く公務員の人たちが、自らの仕事の目的と主権者である有権者、住民の視線と思いに立たないとイケナイノデアル。
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保険診療の実態

2012年02月05日 | 日本の課題
 寒さ厳しい季節ですが、皆さん風邪などひいていませんか?、インフルエンザをはじめとして、最近の医療機関はとても混雑していて、こんなにも病気や体調が悪い人が多いのかと驚くほどです。

 実は老いた母が検査入院で一月半ばから大阪の病院に入院しているために、週に二回はお見舞いを兼ねて母の顔を見に行くのですが、病院とて経営難のところもあると聞きますので、流行っている?病院であると感じることは、患者や家族にとっては逆に安心材料となる場合もあると思いますが、ともかく町医者も含めて大変混んでいる昨今です。

 一昨日のブログでも記した様に、我が孫がインフルエンザになったために近くの小児科医に学校を休んで平日の朝、診察を申し出ようと行くと、もう順番を待つ患者さんの診察券の受付番号が40に近くて、私の娘は昼までに診てもらえないのではと思って、別の医院へ走っても診察の受付を申し出たと言っていました。

 私の八百屋のお客様の中にも医療関係者がおられるのですが、昨週の伺う予定の日にお電話をすると、八時までの診察時間の予定なのに、患者さんが多くて九時を回っても、まだ仕事が終わらないと仰っていましたし、別の開業医の奥様の話でも、最近は医院に診察を受けに来られた患者さんが、医師の診察の前に、「風邪をひいたので薬を下さい」とか、自己診断で病名を決めて、医者に注射や投薬の処方箋を要求する場合も増えている様で、病気や薬に関する情報を事前に知って医者の前に来る患者もいるというのである。

 最近は、社会的には「生活保護費」が増大していて、戦後最大の206万人に達したとか言われていて、税金でまかなう生活貧窮世帯への福祉の手助けのはずが、不正受給も含まれていて、そのチェックや精査が厳しく必要ではないかと問われているのですが、この生活保護の受給者の場合は、健康保険での診療が自己負担なしで受けられるということで、相当額の保険診療に影響が出ていると推定されている。

 針灸やマッサージ、または整体などの治療診療行為は以前は保険適用が厳しかったのだが、昨今の診療所における、こうした診療行為の大半が保険診療、すなわち健康保険証で三割負担や後期高齢者の場合は一割負担で診療が受けられるということで、このような町の診療院や手軽に足腰の痛みや体の歪みなどの調整や診療をしてくれる処に、多くの患者が行っている実態が、多額の診療報酬を請求するというケースも出ていて、健康保険財政はより一層厳しい状態に陥っているというのである。

 ほんとうに現代落語のネタの様な話が、何処の診療所でも囁かれているみたいで、毎日の仕事の様に診療院に通っている年老いたご婦人がいて、顔なじみになった別の患者さんたちとの待合室などでの、いつもの会話が弾んでいて、「そういえば、あの奥さん最近来はれへんね、ひょっとしたら病気やろか?」なんて会話が実際にあるらしく、本当に診察、治療がどうしても必要な人たちばかりではなく、町の寄り合い所や世間話ついでに通う場所の如くなっている場合も多いらしい。

 つまり、確かに現代日本はかつてない超高齢化時代に突入していることは確かなのだが、誰もが何かしら体調不良や痛みを感じる場所をひとつか二つ持っているかもしれないが、時間的な余裕、つまり時間をもてあそぶほど暇な人にとっては、診療院や医者通いが仕事の如く日課となっている様で、診療経費は各々は小額でも、トータルでは相当な診療報酬が医療機関からは保険請求されているのである。

 比較的健康な高齢者の医者や診療所通いが相当増加していて、年金問題と共に健康保険の財政的、制度的破綻の危惧まで迫りつつあるという実態が近づいているので、必要のない診療や我慢できる痛さや体調不良で安易に健康保険を無駄に使うことはやめるべきだと思うが、やめられない実態が実態である。

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「インフルエンザ」大流行。

2012年02月03日 | 季節の話題
 全国的にインフルエンザが猛威を振るっているらしく、我が家族の中でも娘の旦那と孫のK君が立派に感染してしまって、旦那は先週はじめまで約5日間欠勤を余儀なくされ、娘もパートのホームヘルパーの仕事を強制的に休まずにはいられないという状態で、「なんで旦那の風邪で出勤停止なの?」と自問自答していた様である。

 今週は娘の子どもである孫がインフルだと宣言されて、父である旦那のウイルスが感染したのかと当然思ったのだが、なにやら違うらしく、旦那と孫のウイルスの型はA型とB型で異なっていたらしく、各々別の感染ルートからの感染であったらしく、孫の場合はインフルの予防接種を何度かしていたのに、別なウイルスにかかったらしく、なんともワクチンの注射をしていたにも関わらず、感染してしまったという残念な例となってしまった様である。

 いずれにせよ、2011年冬から2012年にかけて、インフルエンザの流行が増加していて、昨年末の第52週にはほとんど感染の報告がなかった、我が京都府なのだが、今年の一週目から徐々に感染者、すなわち地域の診療機関で「インフルエンザ」の検査を受けてウイルスが見つかった真性患者だけでも急増していて、第四週目の一月下旬では18ある京都府内の保険所の内、現在は12ヶ所の地域がインフルエンザの流行の警報が出ているという実態である。

 全国的には、定点とされる報告数だけでも患者数が17万人を突破しているが、昨年の同時期の最高値と比べも、はるかに上回る患者数を示していて、定点医療機関からの報告を基に、定点以外の全国の医療機関を、この一週間受診した患者数は、推定で約173万人となり、その内5-9歳が約50万人、10-14歳が約33万人、0-4歳が約26万人、30代が約16万人、40代約12万人、60代以上が約11万人となっていて、14歳以下が全推計患者数の6割以上を占めている。

 都道府県別では、福井、高知、愛知、三重、岐阜、和歌山、静岡、石川、山口、岩手県の順で多く、三週連続して全ての都道府県で患者数の報告が増えていて、定点あたりの報告数が14県で40.00を上回り、警報レベルを超えている保健所地域として、42都道府県の285箇所が報告されていて、注意報レベルのみを超えている保健所地域の41都道府県、214箇所と減少したという。

 2011年第51週から2012年第3週の5週間では、インフルエンザウイルスの検出は、AH3亜型(A香港型)が最も多く、B型、AH1pdm09の順となっていると、インフルエンザ流行レベルマップではコメントされている。

 全国的なインフルエンザ流行レベルマップによれば、全国的な現在の流行状況を全国都道府県地図に警報レベルから注意報レベルまでの6段階で色分けして表示しているのだが、先にも記したが近畿、東海、北陸地域と東北の福島、山形と四国の徳島を除く3県と山口県が赤で塗られていて、京都はピンク色で警報レベルでは二番目なのだが相当流行している様である。

 地元の小中学校でも学級閉鎖や学年閉鎖が相次いでいるのだが、生憎市内の学校であるのに、対象となっているインフルエンザウイルスがA型とB型と異なるケースもあって、必ずしも一度ワクチンを接種したからと言って、この大流行の別のインフルエンザに感染しないという保障はなく、誰しもが高熱と共に体の節々がダルクナって仕事や学校を休まないといけない状態になることは回避したいので、十分な予防を心がけるべきである。

 外出した後、帰宅した場合の手洗い、うがいなどの基本的な注意と細かい留意点を守ることと、しっかりと美味しい季節の食材を食して、暖かくして過ごし、ゆっくりと十分な睡眠をとることが肝心だと言われている。

 インフルエンザにかからぬ様に、皆さん注意してくださいな。
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「電力の鬼」、松永翁。

2012年02月02日 | 感じたこと
 この写真は、集英社新書、佐高信著「電力と国家」で「電力の鬼」と称された松永安左エ門という男の出身地である長崎県壱岐島で酒造を営む「玄海酒造」が麦焼酎に松永の名を据えて販売している酒のレッテルである。

 「電力と国家」を読んでると、現代日本の大きな電力問題、とりわけ昨年の福島原子力発電所の大事故に至った、日本の電力事業の歴史で、電力を軍事への優先的な寄与を最優先した国有的電力事業にしようとした時代に、真っ向から反対し数々のエピソードを残した、松永安左エ門という男の生き方や言葉に共感を覚え感動すら感じたので、松永翁の人生を称える意味もあって特に取り上げた。

 松永安左エ門は、1975年生まれで96歳で人生を終えるまで、「電力王」とか「電力の鬼」と称されたらしいのだが、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感激し東京に出て、慶応義塾に学び、父二代目松永安左エ門の死で壱岐へ帰郷し家督を継ぎ三代目「松永安左エ門」を襲名したという。

 慶応義塾を中退後、日本銀行に入行したが一年で辞職し、神戸や大阪で材木商や石炭業を営んだ後、1909年に福岡の市電を運営する会社の設立に参加し、翌年には九州電気を設立するという経過を経て、1913年には現西部ガスの前身の会社の社長に就任し、電力業界での実力を高め、九州から近畿、中部に事業を拡大し、東京進出を図り子会社の東京電力で、当時の東京電燈と覇権を争ったという。

 その後1927年には両社が合併し取締役に就任し、民間主導の電力会社の再編を主張し、国家による電力統制や管理に反対し、官僚嫌いであった松永は、「官僚は人間のクズ」と発言し、大問題ともなり謝罪広告の掲載に至る事態も生じたが、戦争の激化で国家総動員法が発令されて、電気事業を国家管理下に置く政策で、特殊法人の日本発送電会社が設立され、一発九配電体制となり、1942年に東邦電力の解散に伴い、松永は引退し所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日々を過ごしたという。

 第二次世界大戦後、占領政策上で日本発送電会社の民営化が課題となり、電気事業再編審議会会長に選出され、再び電力業界の大きな指導的牽引力となり、現在の発電、送電を各電力会社が各々行う事業再編を実現し、電力事業の更なる発展のための電気料金の値上げなどを実施したために、強引さも手伝って「電力の鬼」と呼ばれる様になったらしい。

 1951年以降は、電力技術の研究開発を自主的に行うための公益法人「電力中央研究所」設立し、晩年は自ら理事長に就任し、産業計画会議を主宰し、東名、名神高速道路や多目的ダムの沼田ダム計画などを発表し、欧米視察の際に知遇を得た、A.J.トインビーの「歴史の研究」の翻訳、刊行にも尽力したという。

 ピンチを潜り抜ける度に成功のヒントを掴み、明るい性格で美男だったと言われ、女性関係も派手だったらしいが、茶人、古美術収集家としても知られ、多くの美術品を東京国立博物館などに寄贈していたり、産業計画会議での視察では第一線で働く工事現場の人たちの苦労を自ら体験すべく徹底した現場主義で行動したというユニークな人物である。

 私が最も共感を得るのは、戦後、生存者叙勲制度が復活した際に、最初の勲一等瑞宝章受勲者として名を残しているのだが、本人は当時の池田勇人首相から誰もが異論のない受勲者として打診された松永翁は、「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高したとされる価値観であり、池田首相から説得を要請された永野重雄に、「今後勲章を貰いたい人に迷惑がかかる」という言葉に不本意ながら叙勲を受けたが、受勲式典には出席せず、死後も含めて全ての栄典を辞退し、松永の訃報を受けた佐藤栄作内閣が叙勲を再び決めたが、遺族は松永の遺志を尊重して辞退されたそうだ。


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「あなたのニュース写真」2011

2012年02月01日 | イベント
 本日の毎日新聞朝刊に、昨年2011年の年間賞の発表があり、グランプリ、準グランプリ、特選、準特選とあるのだが、当然と言えばそれまでなのだが、ほとんどの作品が東日本大震災、しかも震災後の大津波が襲った様子を、たまたま撮影された被災地で被災された方々のものとなっていた。

 グランプリ、毎日新聞社賞を受賞されたのは、現在は岩手県盛岡市在住の大型トラックの運転手である澤田幸三さん52歳で、大型保冷車で東京から生鮮食料品を運んだ夜勤明けの昨年3月11日、当時は釜石市にあった自宅で東日本大震災に遭遇し、手元にあったカメラバッグを手に、隣人の老夫婦を連れて、港湾事務所に避難し、屋上や監視塔から一眼レフのシャッターを押し続け、記録した写真の枚数は総計で233カットあったという。

 ものすごい音を上げて襲い掛かる津波、逃げようとする自動車、藻屑の様に流される家々、生々しい連続写真は、毎日新聞に掲載され、今回年間グランプリを受賞したというものだが、残念ながら受賞された5連続ショットの写真は、このブログには掲載できなかつたが、新聞紙上で観る限り、当日「午後3時21分、湾口防波堤を乗り越え、釜石市港町になだれ込む津波」から始まる、大津波の被害の実態を順に撮影されたドキュメンタリー写真である。

 彼は流される家の窓に人影を見た時は、シャッターを押せず、へたり込んだと言われているのだが、目の前で実際に展開する大津波の被害の一部始終を全て冷静に撮影されていたわけではなく、とんでもない厳しい心境の中、現実を出来るだけ直視して記録しておく必要を感じて、シャッターを押されたのだろうと推察できるのである。

 同じ毎日新聞の「ひと」の欄でご本人がインタビューを受けられ紹介されているのだが、撮影された当日の夜、すなわち大地震と大津波が発生した日の深夜、停電していた町の上空に広がる満天の星を見たと仰っていて、翌朝は光の中に浮かび上がる瓦礫の海で、カメラの「ファインダー越しの風景は、音や臭いとともに、今も脳裏に染み付いて離れません」と語っておられる。

 その後、ご本人は避難所で便所掃除や炊き出しをさりげなく買って出る人柄を、避難所にいた仲間たちの記憶に残っているというのだが、昨年の6月中旬には盛岡市の営業所勤務となったために、避難所を離れることとなり、引越しの日に自宅のあった家の跡地に生き残った「アヤメ」を掘り起こして、内陸に住むお姉さんの家に移植したといい、「根付いたみたいで、咲くのが楽しみ」と語り、眼差しは穏やかだったと記されている。

 最近は、道端の花や山の彩をカメラに収め、「この頃、自然の営みが、一層いとおしく思えるようになりました。家や町並みは消えても、故郷には掛け替えのない大地と海と仲間がいます」と語っておられ、釜石市の元居た営業所が再開するのは数年後になる予定だが、「そのあかつきには、また釜石に戻りたい」と仰っている様です。

 澤田幸三さんは、釜石市生まれの52歳で、県立釜石南高校卒業後、運送会社に勤務し長距離トラックに乗る生活をされ続けて来たらしいが、趣味が写真撮影と音楽鑑賞という方で、とても穏やかな顔立ちのメガネをかけた男である。

 いずれにしても、この「あなたのニュース写真」のグランプリ受賞だけでなく、昨年の3/11の大地震と大津波と福島原発事故が多くの人たちの人生に大きなターニングポイントを与えたことは事実であり、逆境であれ、悲しさであれ、転機であれ、自分の人生に訪れた予期せぬ出来事だったとしても、受け止めて前を向いて生きて行くことしか道はないのだから、改めて受賞した写真を見ながら、家や建物、町の復興だけでなく、被災された多くの方々の心と人生の復興を改めて祈る気持ちでいっぱいである。

 
 
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