この写真は、集英社新書、佐高信著「電力と国家」で「電力の鬼」と称された松永安左エ門という男の出身地である長崎県壱岐島で酒造を営む「玄海酒造」が麦焼酎に松永の名を据えて販売している酒のレッテルである。
「電力と国家」を読んでると、現代日本の大きな電力問題、とりわけ昨年の福島原子力発電所の大事故に至った、日本の電力事業の歴史で、電力を軍事への優先的な寄与を最優先した国有的電力事業にしようとした時代に、真っ向から反対し数々のエピソードを残した、松永安左エ門という男の生き方や言葉に共感を覚え感動すら感じたので、松永翁の人生を称える意味もあって特に取り上げた。
松永安左エ門は、1975年生まれで96歳で人生を終えるまで、「電力王」とか「電力の鬼」と称されたらしいのだが、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感激し東京に出て、慶応義塾に学び、父二代目松永安左エ門の死で壱岐へ帰郷し家督を継ぎ三代目「松永安左エ門」を襲名したという。
慶応義塾を中退後、日本銀行に入行したが一年で辞職し、神戸や大阪で材木商や石炭業を営んだ後、1909年に福岡の市電を運営する会社の設立に参加し、翌年には九州電気を設立するという経過を経て、1913年には現西部ガスの前身の会社の社長に就任し、電力業界での実力を高め、九州から近畿、中部に事業を拡大し、東京進出を図り子会社の東京電力で、当時の東京電燈と覇権を争ったという。
その後1927年には両社が合併し取締役に就任し、民間主導の電力会社の再編を主張し、国家による電力統制や管理に反対し、官僚嫌いであった松永は、「官僚は人間のクズ」と発言し、大問題ともなり謝罪広告の掲載に至る事態も生じたが、戦争の激化で国家総動員法が発令されて、電気事業を国家管理下に置く政策で、特殊法人の日本発送電会社が設立され、一発九配電体制となり、1942年に東邦電力の解散に伴い、松永は引退し所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日々を過ごしたという。
第二次世界大戦後、占領政策上で日本発送電会社の民営化が課題となり、電気事業再編審議会会長に選出され、再び電力業界の大きな指導的牽引力となり、現在の発電、送電を各電力会社が各々行う事業再編を実現し、電力事業の更なる発展のための電気料金の値上げなどを実施したために、強引さも手伝って「電力の鬼」と呼ばれる様になったらしい。
1951年以降は、電力技術の研究開発を自主的に行うための公益法人「電力中央研究所」設立し、晩年は自ら理事長に就任し、産業計画会議を主宰し、東名、名神高速道路や多目的ダムの沼田ダム計画などを発表し、欧米視察の際に知遇を得た、A.J.トインビーの「歴史の研究」の翻訳、刊行にも尽力したという。
ピンチを潜り抜ける度に成功のヒントを掴み、明るい性格で美男だったと言われ、女性関係も派手だったらしいが、茶人、古美術収集家としても知られ、多くの美術品を東京国立博物館などに寄贈していたり、産業計画会議での視察では第一線で働く工事現場の人たちの苦労を自ら体験すべく徹底した現場主義で行動したというユニークな人物である。
私が最も共感を得るのは、戦後、生存者叙勲制度が復活した際に、最初の勲一等瑞宝章受勲者として名を残しているのだが、本人は当時の池田勇人首相から誰もが異論のない受勲者として打診された松永翁は、「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高したとされる価値観であり、池田首相から説得を要請された永野重雄に、「今後勲章を貰いたい人に迷惑がかかる」という言葉に不本意ながら叙勲を受けたが、受勲式典には出席せず、死後も含めて全ての栄典を辞退し、松永の訃報を受けた佐藤栄作内閣が叙勲を再び決めたが、遺族は松永の遺志を尊重して辞退されたそうだ。
「電力と国家」を読んでると、現代日本の大きな電力問題、とりわけ昨年の福島原子力発電所の大事故に至った、日本の電力事業の歴史で、電力を軍事への優先的な寄与を最優先した国有的電力事業にしようとした時代に、真っ向から反対し数々のエピソードを残した、松永安左エ門という男の生き方や言葉に共感を覚え感動すら感じたので、松永翁の人生を称える意味もあって特に取り上げた。
松永安左エ門は、1975年生まれで96歳で人生を終えるまで、「電力王」とか「電力の鬼」と称されたらしいのだが、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感激し東京に出て、慶応義塾に学び、父二代目松永安左エ門の死で壱岐へ帰郷し家督を継ぎ三代目「松永安左エ門」を襲名したという。
慶応義塾を中退後、日本銀行に入行したが一年で辞職し、神戸や大阪で材木商や石炭業を営んだ後、1909年に福岡の市電を運営する会社の設立に参加し、翌年には九州電気を設立するという経過を経て、1913年には現西部ガスの前身の会社の社長に就任し、電力業界での実力を高め、九州から近畿、中部に事業を拡大し、東京進出を図り子会社の東京電力で、当時の東京電燈と覇権を争ったという。
その後1927年には両社が合併し取締役に就任し、民間主導の電力会社の再編を主張し、国家による電力統制や管理に反対し、官僚嫌いであった松永は、「官僚は人間のクズ」と発言し、大問題ともなり謝罪広告の掲載に至る事態も生じたが、戦争の激化で国家総動員法が発令されて、電気事業を国家管理下に置く政策で、特殊法人の日本発送電会社が設立され、一発九配電体制となり、1942年に東邦電力の解散に伴い、松永は引退し所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日々を過ごしたという。
第二次世界大戦後、占領政策上で日本発送電会社の民営化が課題となり、電気事業再編審議会会長に選出され、再び電力業界の大きな指導的牽引力となり、現在の発電、送電を各電力会社が各々行う事業再編を実現し、電力事業の更なる発展のための電気料金の値上げなどを実施したために、強引さも手伝って「電力の鬼」と呼ばれる様になったらしい。
1951年以降は、電力技術の研究開発を自主的に行うための公益法人「電力中央研究所」設立し、晩年は自ら理事長に就任し、産業計画会議を主宰し、東名、名神高速道路や多目的ダムの沼田ダム計画などを発表し、欧米視察の際に知遇を得た、A.J.トインビーの「歴史の研究」の翻訳、刊行にも尽力したという。
ピンチを潜り抜ける度に成功のヒントを掴み、明るい性格で美男だったと言われ、女性関係も派手だったらしいが、茶人、古美術収集家としても知られ、多くの美術品を東京国立博物館などに寄贈していたり、産業計画会議での視察では第一線で働く工事現場の人たちの苦労を自ら体験すべく徹底した現場主義で行動したというユニークな人物である。
私が最も共感を得るのは、戦後、生存者叙勲制度が復活した際に、最初の勲一等瑞宝章受勲者として名を残しているのだが、本人は当時の池田勇人首相から誰もが異論のない受勲者として打診された松永翁は、「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高したとされる価値観であり、池田首相から説得を要請された永野重雄に、「今後勲章を貰いたい人に迷惑がかかる」という言葉に不本意ながら叙勲を受けたが、受勲式典には出席せず、死後も含めて全ての栄典を辞退し、松永の訃報を受けた佐藤栄作内閣が叙勲を再び決めたが、遺族は松永の遺志を尊重して辞退されたそうだ。