ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

『広島平和記念式典』

2009年08月06日 | 日本の課題
 今朝、64年前に人類史上初めて「原子力爆弾」が広島に投下された「原爆の日」を記念して、平和を願う記念式典が開催された。

 早朝に京田辺でも「原爆の日」を覚えての「黙祷の会」が開かれたらしいが、私自身は参加する予定を急遽取りやめて、テレビの実況中継を視聴しながら、被爆者ならびに多くの戦争犠牲者への黙祷と共に、改めての平和への希求を行った。

 秋葉忠利広島市長は、元社会党の衆議院議員だったこともあって、積極的に「被爆地・広島」からの「平和へのメッセージ」を語り、英語でもオバマ米大統領の「核兵器廃絶への行動の道義的責任がある」とのメッセージに呼応して、「オバマジョリティ」という造語で、広島からの「YES,WE CAN」を発信した。

 続いて小学六年生男女が、子どもからの平和へのメッセージを力強く語った後、「内閣総理大臣」としての麻生太郎氏が、壇上に厳しい表情で赴いて、原稿を読む形で政府を代表するメッセージを語った。

 しかし、なんとも皮肉めいた感じで映っているようで、子どもたちの心からの言葉ではなく、原稿に書いてある「非核三原則を堅持します」というくだりも、先日明らかになった、米国との日本政府の「核持込の密約」などがあったことが明らかな中での、「眉唾もの」のメッセージとしか感じなかった。

 その上、昨日公表された「原爆症患者の認定の拡大」についても、原爆の日にあわせてというよりも、総選挙を控えての「政治的パフォーマンス」としかうつらないタイミングとしかイイうがない「お土産」である。

 長年の被爆者の苦しみと苦痛に対してのコメントはあったが、原爆症認定訴訟の裁判は長期化し、被爆者の高齢化と共に、多くの方が無念なまま、戦後息を引き取ったことを思うと、河村健夫官房長官の謝罪を含む会見だけでは十分でない。

 本当に唯一の被爆国としてのニッポンが、戦後60数年の長きにわたって、自民党を中心とする責任政党の政府は、常に「米国の核の傘」の下で、甘んじていたわけで、ほとんど「核廃絶への積極的発言」や行動をとったことはなかったのである。

 日米安保という、防衛のためのアメリカ頼みの属国と化した日本は、真の被爆国としての痛みと怒りを封じこめてきたために、多くの名もなき被爆者、関係者を苦しめ、今も後遺症や障害に苦しむ国民を見放してきたと言っても過言ではないのだ。

 秋葉広島市長のメッセージは積極的な面もあるが、やはり「オバマジョリティ」などと言うお遊び的、アメリカ頼みの要望や期待だけではなく、日本人としての積極的な独自的メッセージとしての「核廃絶宣言」をしてわしいものだと思ったのである。

 その点では、広島在住の小学生男女が投げかけた「素直な平和への希求」が一番印象的であった。

 今夏、八月十五日には、私自身が広島に行って、原爆ドームを象徴とする平和記念公園で祈りたいと思っている。

 
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花火の季節

2009年08月05日 | 季節の話題
 関西地方も、やっと梅雨明けして本格的な猛暑の季節が到来した。

 昨日、今日と気温も最高36度にも上がって、外歩きの営業マンにとっては、ほんと水分補給を忘れると、すぐにでも熱射病で倒れそうな昼下がりとなっている。

 そんな昨今ですが、八月のシーズンは、この暑さを吹き飛ばすような「花火大会」のシーズンでもあります。

 しかし近畿地方だけではないと思いますが、各地の「花火大会の中止」のニュースが伝わってくる中、全国的にも有名な「PL花火」が8月1日に予定通り開催されたようです。

 数年前には、私の老いた母がお世話になっていた老人施設の屋上から、この「PLの花火」を見ましたが、遠くに見事に描かれた菊の花やナイアガラの滝など、数え切れない美しい花火が、だいぶ経って伝わってくる轟音と共に、夏の夜空で楽しませてくれました。

 今年も忘れていたのですが、親戚の女性から私の妻の母、つまり大阪のおばぁちゃんとこに電話したのだが、出ないので心配なので、どういう事情かなとの電話でした。

 しばらくして本人に確かめる電話をしたところ、実家の古い二階建てではなく、向かい側にある、妻の弟が所有するマンションの部屋からみんなで「花火」を見ていたのだとわかりました。

 健康で平和であることの象徴のような「夏の花火」ですが、西日本一と称されるPLの花火でもバブル経済時期と比べれば、打ち上げられた花火の数は減って、約二万本だったと言われています。

 私の住まう京田辺では、京都のお盆の送り火の日、つまり8月16日に開催されていた木津川西沿岸付近での「納涼花火」が縁日の列と共に数年前から無くなってしまい、とってもさびしい限りです。

 規模や大きさはともかくとして、お盆前後に開催される、夏の風物詩のひとつである「花火大会」が各地から徐々に減ってしまうのは残念でなりません。

 確かに地域経済に支えられてスポーンサーになってくれる商店、企業がにっちもさっちも行かないご時勢では、賛助金や寄付が集まりにくいのは否めないと思いますが、地域経済の活性化のためには、少々の赤字は覚悟でも、夏の風物詩でもあり、元気の源のひとつとなる「花火大会」は、小規模になっても継続してほしいものです。

 これから近畿地方では、琵琶湖の花火、宇治の花火、平成淀川花火大会と続きますが、ぜひひとつは会場に行って、遠くからではなくてまじかに「元気な花火」を観たいなと思っています。

 やっぱり「夏の花火」がなくては元気が出ませんが、私自身は、加藤登紀子さんの曲にもある「冬の花火」も、いつか観てみたいと密かに願望を持っていて、寒空に亡くなった人や遠い思い出を回想できるような、冬の花火も素敵ではないかと思っています。

 経済が低迷し、暑さが増す今夏こそ、元気をくれる「夏恒例の花火」で、景気づいて健康で明るい日々を送りたいものです。
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1963年。

2009年08月04日 | テレビマスコミ
 先日、妻が大阪の実家で昭和38年8月2日のサンケイ新聞朝刊を見つけて、懐かしそうに持って帰ってきました。

 セピア色ともいうような茶色に変色した新聞紙は、おばぁちゃんの家の箪笥付近を掃除していた時に、下敷き状態で見つかったようでした。

 とっても懐かしいとでも言うべき、今から46年前、1963年夏の新聞から読み取れる「時代の移り変わり」を興味深く読みました。

 私にとっては、この年1963年は、何と言っても11月23日の朝に伝わった衝撃的ニュースが脳裏に強く印象的に残っています。

 その朝、アメリカからの初の衛星放送が放映される予定だったのですが、朝寝坊していた私に、妹が「ケネディが死んだ!!」と告げました。

 ビックリしつつ、テレビの前に行ってみると、アメリカからの初の衛星中継で届けられた映像が、何とケネディ大統領がパレード中に狙撃されて暗殺されたという衝撃的な映像でした。

 アメリカ国旗の星条旗がケネディ大統領の亡骸を入れた棺にかけてあって、米軍の兵士が敬礼し運んでいた映像が忘れられませんでした。

 この衝撃的な事件は、私が後に関わったフォークソングの世界で有名な五つの赤い風船の名曲、「血まみれの鳩」という西岡たかしの詩になって後世に残ることとなりました。

 新聞に目を向けると、雑誌の広告欄に「堀江謙一氏の太平洋単独ヨット横断」や「吉展ちゃん誘拐殺人事件」などの、その当時を偲ばせる事件やニュースが載っていました。

 スポーツ欄に目をやると、何と我が阪神タイガースが、川上巨人軍に10連敗!というニュースが掲載されていて、王、長島の黄金期の巨人が如何に強かったかが思い出されます。

 他のチームとしては、現在のパリーグチームは全てなく、現楽天監督の野村が四番を打つ南海ホークスが首位で、あの日本一の安打男の張本が東映フライヤーズの四番バッターで、他には近鉄、西鉄、大毎、阪急の六チームでペナントレースを戦っていました。

 一方のセリーグは、巨人、阪神、中日、広島は現状のままで、現ヤクルトが国鉄、現横浜が大洋ホエールズとして戦っていましたが、巨人が断然中日に11ゲーム差をつけてトップを走っていました。

 その他の記事の中から当時の経済感覚を読み取ると、求人欄の新入社員の給与としては2万円から3万円で、土地、建物の不動産広告から、大阪市内の土地付住宅として、100万円から300万円程度でマイホームが取得できる時代だったことが分かりました。

 今から46年前の経済的感覚は、現在の約十分の一であり、戦後の日本の復興期の走りであり、高度成長経済の始まりとしての時代だったことがうかがわれ、8月15日の終戦記念日を前にして、もはや戦後ではなく、先進国の仲間入りをする時代という記述がありました。

 戦後69年経った、今年の八月を迎えて、46年前の色あせた新聞紙を前にして、今と昔、何も変わらぬ物と大きく変わったことを考えつつ、平和と人の心の大切さを改めて強く感じました。
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原爆投下!!!

2009年08月03日 | 世界の問題
 オバマがアメリカ大統領になって半年以上が過ぎ、1945年8月の原爆投下から64年の歳月が経った。

 写真は、広島に今も残る「原爆ドーム」と呼ばれる残骸が、かつて建物として機能していた時の写真である。

 1945年(昭和20年)、日本は太平洋戦争で劣勢を余儀なくされ、敗戦が濃厚となっていた。

 同盟国ドイツは、1945年5月に無条件降伏し、ドイツの戦後処理問題などを協議するため、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンが、7月にベルリン郊外のポツダムで会談した。

 この会談中の7月26日に、アメリカ、イギリス、中国の3か国の名前で、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が発表された。

 日本政府は、この宣言を無視したため、アメリカは8月6日広島へ、そして8月9日は長崎に、原子爆弾を投下したのであった。

 一方、それまで日本とは交戦していなかったソビエト連邦が、8月6日に日本に宣戦し、日本が占領していた満州(中国の北東部)へと侵入し、戦闘を開始した。

 その後、現在の樺太サハリンへも上陸し、日本の占領状態から解放を迫った。

 そんな経過かから、日本政府は8月14日になって、漸く「ポツダム宣言」を受託し、無条件降伏し、翌日、天皇陛下の玉音放送で全国民に知らされて、太平洋戦争、第二次世界大戦が終結したのである。

 その大きな「きっかけ」となったのが、広島、長崎への「新型爆弾」すなわち、原子爆弾の投下による、大被害があった。

 8月6日、西太平洋テニアン島米軍基地を午前1時45分に離陸した、長距離爆撃機B29、すなわち「エノラゲイ」と呼ばれた原爆搭載機が、晴天の早朝の広島に飛来し午前8時15分17秒に、上空から原子爆弾を投下したのである。

 投下された爆弾は、ウラニウム爆弾で、直径71㎝、長さ3.05m、重さ約4トン、TNT火薬2万トン分に相当する大型爆弾だったが、何故か「リトルボーイ」と命名されたものであった。

 高度9600mから投下された爆弾は、50秒後に高度570mで爆発し、爆心地から半径500m以内で、90%以上の人が即死し、11月までに死亡した人数が約14万人に達し、3年後の1950年の広島市役所の発表では原爆症も含めて、推定で24万7千人の人が亡くなったとされている。

こうした歴史的時事に対して、オバマ大統領は、「核廃絶への意向」を語る中で、アメリカ大統領として初めて、広島、長崎への原爆投下に対する「道義的責任」を認めた。

 しかし、あの原爆搭載機の生き残りの米国退役軍人は、「道義的責任論」は間違いとし、いまだに「日本の降伏を促すため」の最良の作戦だったというのである。

 「核兵器」は、この地球上にあってはならない、とんでもない大量殺人兵器であり、米、ロシアをはじめとする軍事大国が、全ての核兵器を廃絶すべく「平和」のための決断をすべきである。

 今後も地球上での「核兵器」の使用を断じて正当化してはならない。
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墓に「ひまわり」

2009年08月02日 | ファミリーイベント
 8月に入って最初の日曜日、天気がよければ「墓参り」と決めて、朝目覚めてから、大阪の母に電話をして、昼過ぎに迎えに行きました。

 8月の「墓参り」は恒例なのですが、今年はまだ「梅雨明け」していないそうで、天気が心配でしたが、なんとか昼からは雨が降りそうでないので、「瓜破霊園」にある、私の父、兄、そしてご先祖様の「墓参り」に母を連れて行ってきました。

 「お盆」が近づくにつれて、周辺の花屋さんや仏事用具店の「墓花」は値段が上がって、お墓にいける緑のサカキや白、黄色の菊や「仏事用」の用意された「仏花」などは、何と一対で1000円以上、中には2000円もするものもあります。

 私は、いつもは「墓参り」する日に、近くのお花屋さんか、墓地近くの母が馴染みの花屋さんで、「墓前用」の花を調達するのですが、あまり「仏花」として、セットされた花や緑が好きでないので、適当に「明るい季節の花」を選んで、墓前に飾るようにしています。

 今回は、一番花屋で目についた「向日葵」の花をメインに選んで、その周辺にピンクとしろとブルーの小さな花をあしらったアレンジメントを、父の墓前用に作っていただき、他の二つの墓石用は、シンプルな小さな白と黄色の菊にしました。

 今日の日中の炎天下は、母にはきつかろうと思ったので、大きな墓地の中の木陰に車を停めて、母にはしばらく、車内で休憩してもらっている間に、私が「墓の大掃除」をしました。

 なにせ、昨年の大晦日に行って以来、春のお彼岸にも行けなかったために、小さな墓地とは言え、雑草が茂ってしまっていて、約1時間は汗びっしょりになって、「草抜き」をしました。

 雨が比較的続いていたお陰で、雑草も比較的たやすく抜けて、墓地の横道に三山ほどの「雑草の山」が出来ました。

 バケツに汲んだ水を墓石と灯篭の石に十分にかけてから、母を迎えに行って、二人で、父と兄の墓石と、祖父や祖母の眠る墓石、そして「先祖代々の墓」の三つにお参りしました。

 92歳になる母は、腰を屈めて、ちょっと残っていた雑草を摘みながら、墓前に進んで、なにやら「健康で幸せに正しく」と祈っていました。

 幸いにも高齢ながら、健やかに過ごしている老母ですが、耳がほとんど聞こえないために、一人ぶつぶつ言いながらの「墓参り」となりました。

 それでも、帰りには「お墓参り」が出来て良かったと喜び、「また今度行こうね」と行ってくれました。

 汗びっしょりのシャツを着替えてもほとばしる汗を沈静化させようと、帰路の途中に喫茶店に立ち寄って、冷たいデザートとジュースを飲みました。

 やはり、日本の夏、お盆が近づく、この季節には「先祖や身内の墓」に参らなければ、気持ちが落ち着きません。

 40年前に他界した「父の面影」を思いつつ、青空に元気に伸びる「向日葵」を墓前に飾った私ですが、「ひまわり」の花言葉は、意外にも「あこがれ」「私の目はあなただけを見つめる」「崇拝」「熱愛」「光輝」「愛慕」だそうです。
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