ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

娘よ、ここが長崎です。

2009年08月09日 | 季節の話題
 ニッポンの八月は、六日の広島、九日の長崎と原爆が投下された「原爆の日」として記憶しなければならない大切な日と、15日の第二次世界大戦、太平洋戦争の敗北を認めた日、「終戦記念日」と三つの「戦争への想い」の月である。

 戦争の悲惨さ、平和の尊さを語ることは大切なことだが、この太平洋戦争の経験者、その実際の語り部が、どんどん減って行く昨今に、今日も自民党と民主党の麻生首相と鳩山代表が、長崎での平和記念式に出席し、被爆者救済について語ったり、後遺症に苦しむ被爆者を見舞ったりしていた。

 どうも、八月末に行われる衆議院議員選出の総選挙への全てがパフォーマンスとしかうつらない、なんとも軽い発言や行動にしか見えないのは、私だけだろうか。

 「長崎」といえば、私はあの原爆の被害に合いながら、人々の救護、救済に奔走した長崎医科大学の永井隆博士のことを思いました。

 昭和20年8月9日、長崎市浦上上空で一発の原子力爆弾が炸裂し、当時の長崎市民20数万人の内、約三分の一の7万人以上の人が亡くなったのですが、自らも被爆し重傷を負いながらも、献身的な救護活動を続けた博士の姿を見つめていた、永井さんの娘、茅乃さんが書いた「娘よ、ここが長崎です」を紹介したい。

 永井博士の娘さんである茅乃さんがこの世に生まれた昭和16年八月から、数ヵ月後に日本はハワイの真珠湾攻撃をして、アメリカとの戦争が始まりました。

 それまで日本は中国大陸で戦争をしていたので、父である永井博士は、彼女が生まれた前後にな二度出征し、ていたのですが、彼女は幼くて、その実態を知る由もなかったのですが、空襲警報の鳴り響く中を何度も逃げたり、親戚の家に避難していたりしていたそうです。

 その日、八月九日も、いつものように彼女は森田さんちのユイコちゃんとままごとで遊んでいると、B29が見えたそうです。

 そろそろ十一時です。「昼までに、もうひとはたらき、できるばい」と大人たちが、それぞれの仕事をしている時間でした。

 「シャッシャッ シャッシャツーーー」せみの声しか聞こえませんでした。

 ピカッ グォーッ! とつぜん、真っ白な光と、ものすごく強い風が、やってきました。

 縁側にいた茅乃は、部屋の中に、ドーンと叩きつけられました。その上に障子がバサッとたおれてきました。

 ゴォーッ ゴォーッ 強い風が、家の中を一気に吹き抜けて、さらに谷に沿って、遠くの方へも吹いて行ったようです。

 部屋の中は、台風の後のようでした。

 みんなは何があったかよくわからず、おしだまったままでした。

「とげんしたとやろ。」「爆弾の落ちたとでしょうか?」

 小川で泳いでいた少年が、「B29が、太陽と、衝突した!」と飛び込んできました。

 そんな記憶が今も鮮明に残っているそうです。たった四歳の幼い女の子に深く残る「被爆の経験」です。

 
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