20年前の連続幼女殺害事件で死刑判決が確定していた宮崎勤死刑囚の死刑執行が17日に行われた。8日に起きた秋葉原の通り魔事件の直後というこのタイミングに見せしめ的な政治的思惑を指摘する声もあるようだが。
宮崎死刑囚 猟奇殺人、20年前震撼 45歳、遺族に謝罪ないまま(産経新聞) - goo ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080620-00000951-san-soci
この死刑執行のニュースを受けて、ネット上でも様々な意見が飛び交っている。中でも、今まで生かしておくのが不思議なくらいだといった、死刑支持のみならずその執行時期が遅いことを指摘する声が多く、100名を超える死刑確定者のうち何故宮崎を選んだのか、或いは贖罪の気持ちを宮崎に認識させた上で執行すべきだといった様々な異論をかき消す勢力が強く横たわっているように感じる。
今や世論は思考停止の状態に陥っているといってもいい。秋葉原の事件でもそうだが、裁判などする必要なく即刻死刑でいいといった単純意見に多くの支持が集まる有様だ。事件が起きる背景には必ず現状の社会の歪みというものが関係している。しかし少しでもそうした社会責任を指摘しようものなら、社会が悪いなどという奴は責任転嫁だといった、犯人個人だけの責任にして社会的な問題には一切言及させない圧力がネット上には蔓延している。
これに対し、テレビや新聞などの表のマスコミは、犯罪行為は許されないとした上で、これらの不可解な事件が起きる社会背景にも言及すべきであるという意見も少なからずある。これまで、表のマスコミは信用出来ず、ネット上などの裏の世論の方が信用出来るケースが多かったのだが、最近ではネット上の工作員勢力が強くなり、ネット上からも社会正義が失われつつあり、むしろ表のマスコミ報道の方がまだまともであるといった逆転現象も起きている。
だが、ネット上の世論というのは、騒音少数派(ノイジーマイノリティー)によるものがほとんどで、彼らの意見が世論の総意であると考えるのは明らかな錯覚である。彼らはネット上の至る所で同種の投稿を組織的に行うことにより、あたかもそれが標準的な世論であるかのように思わせる工作活動をしているに過ぎないのだ。これは例えば街宣車などを用いて駅前など人の集まる所で演説活動をしているのと同じであって、彼らの意見は決して多数派ではなく、むしろ少数派なのだ。そして少数派だからこそ工作活動が必要になるとも言えるだろう。
これに対し、沈黙多数派(サイレントマジョリティー)という人達、実は彼らは比較的保守的で伝統的価値観を持っている人が多く、彼らこそ世論の総意に近いのだが、彼らはなかなか口を開くことがないので、彼らの意見は多数意見として扱われないことが多い。しかも彼らの多くは争いごとを嫌うので、自分と違う意見であっても表向きは同意してしまうこともある。これは対面式の世論調査などの場合など結果に大きく影響を及ぼす。従って世論の総意とはかけ離れた意見が世論の総意とされてしまうこともある。
尚、表のマスコミに関してはそのほとんどが騒音少数派によるものと考えて差し支えない。特にフェミニズムの要素を含む報道は全て騒音少数派によるものだ。
では、巷に飛び交う情報は全て信用出来ないのかというと決してそうではない。全て信用出来ないなら、このブログの論考も信用出来ないし、他の反フェミ系のサイトなども信用出来なくなってしまう。ならば何を信じれば良いのか。その見分け方は様々あろうが、一つには、その意見に私利私欲などが混入し、特定の層だけに有益となり、別の層に対しては有害となる主張になっていないかどうかを検証してみると良いだろう。
こうした検証法に基づき、例えば今回の主題である宮崎事件や秋葉原事件でのネット世論を分析してみる。支配的な論調は、死刑当然、裁判不要、本人責任、社会責任なし、こんなところだろう。これらの意見に共通しているのは、何れも自分が被害者にも加害者にもなり得ないという前提で他人事のように考えていることだ。しかも社会責任もなしとなれば、社会はこのままで良いということになる。だがそれは明らかに矛盾していないだろうか。宮崎事件以来、年少の少女が狙われる事件は後を絶たずむしろ増加傾向にあるし、秋葉原事件のような通り魔も今回が初めてではなく、記憶に新しい土浦通り魔はじめ、豊田や舞鶴の女子高生殺害など類似の事件は幾らでも起きている。そんな状況にもかかわらず社会責任はないなどというのはまさに無責任、知らぬ振りもいいとこで、まるで小学校で喧嘩をした子について学級会を開き、みんなで悪い悪いと囃し立てているだけで何も考えてないのと同じようなものだ。
(続く)