唯一孫文の臨終に立ち合った山田純三郎
昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)
官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ
己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
【以下 本文】
2. 「四患」有りて存するものなし
後漢、洛陽に都す。後漢の人で、荀悦という人がいる。“性、沈静(沈着、おちついて静か)著述を好む。獻帝(第十四代、189~220年)の時、禁中に侍講す。官は秘書監……”としるされている。
この旬悦が、政治家、役人には、四つの患い、重い病気がある。それは偽、私、放、奢の四つである。これを国の「四患」というと警告している
「偽」とは、あざむく、いつわるという意味ではあるが、この偽には、手段を用いて、人為的に他人をあざむく、という意味がある。
「偽」と。は、「化ける」と云う意味。偽せものの人という意味。
今度の新内閣、閣僚二十一名とかのうち、九名までが、リクルートだとか、何とかの人たちだと報道されている。「リクルート堂々の復権内聞」だとか「宮沢丸は御赦免船だ」などと、連日大きく報道されている。そのような汚職内閣に、入閣を断った者は、誰一人としていない。
政治とは、まず自らを正して、しかる後、世の中を正すのではないのか。とにかく、日本は上から下まで、「偽」が、蔓延している。にせ物が本物を乱しているのだ。
「私」、公を忘れた私、私意、私欲に翻弄された日本人が、日本国中に氾濫している。特に上に立つ人こそは、私心を滅して公に奉ずるのが本当のはず。ところが彼らは、天下、国家の公論を借りて、私情を満足させようとしているではないか。
私心を抱くことなく、誠心誠意、社会のために、そして仕事のために、尽し切るからこそ、その人間がはしめて生かされてくるのではないのか。自分を忘れた日本人の氾濫。自があっての分、分があっての自ではないのか。
「放」とは、棄てるということ。子供らを勝手気ままにさせるのは、わが子を棄てることだ。慈母に敗子あり。必らず締りのない、目標のない子に育つ。
放埓の埓とは、馬場の囲い。かこいを取り除いて馬を放つと、馬は、本能のままに飛び歩く。放埓息子、放蕩息子が必らず育つ。
「奢」とは、ぜいたく、おごる。
俺の金だ。俺がかってに使って何がわるいと、傲然として、ぜいたくした気分になっている。そんなものは、ぜいたくでも何でもない、浪費だ。
本当のぜいたくとは、金で買えないような悦びを味うことだ。
それを「窮奢」--ぜいたくを窮めると云う。 奢る者は、その心は常に貧しい。
偽私放奢、この四恵有りて存するものなし。生きた歴史は、この警告は真実であることを証明している
四つの病患の第三は「放は、軌(軌道)を越える」である。
「放」の原典は、「はなす」ことであるが、「放は、逐なり」(説文)で、追い払う(放逐)とか、「放は棄なり」(小爾雅)で、棄てる(放棄)とか、また勝手気まま、欲しいままにする(放縦)といった意味がある
「厳家に格虜なく、しかも慈母に敗子あり」(史記、李斯)
厳格な家風をもった家庭では、気荒い召使いでも、手に負えなくなるようなことはない。ところが慈愛に過ぎた母のもとでは、かえって、やくざな、どうにもならぬ放埓息子ができる。
放埓の「埓」とは、馬場の囲い、柵のことである。この囲いを解かれて放たれた馬は、本能のままに、勝手気ままに飛び回れるが、その馬は馬としての用はなさない。
放蕩息子とは、そのように軌道をそれて、かって気ままな振舞いはするが、人生に対する方向のない、志のない、全く締りのない悪子のことである。自分で自分を抑えることが、できないのである。
前漢の第九代宣帝(前74~79年)の時、侍御史。その後河南の太守として、河南の民政を委された人に厳延年という人がいた。彼は厳しい母に育てられた人であった。
にもかかわらず、彼は人民を刑殺すること頗(すこぶ)る多く、冬でも殺された人々の血が数里も流れたという。それで河南の人々は、彼のことを、「屠伯」殺し屋の親玉と呼んでいたと記録されている。
そのような様子を見ていた彼の母は、「お前のように人を多く殺せば、やがては自分も殺されることになるだろう。私は故郷に帰って、お墓を掃除して、お前が殺されてここに来るのを待つことにしょう」と云って息子を諌め責めたてて、故郷へ帰った。
果して、彼は、死刑に処され、その屍は街に晒された。(後漢書、酷史、厳延年)
「厳母、墓を掃く」
という言葉が残っている。継母に育てられた子においてすら、この始末。まして、骨のない慈母に放縦に育てられた子供たちの将来は、まともではあるまい。
「温室に大木無し。寒門に硬骨有り」
とは、苗剣秋が、私に語ってくれた言葉である。要するに「放は軌を越える」からである。
いかに日本は豊かではあっても、子供たちが駄目なら、そんな国に明るい未来は望めまい。そのような子供を育てているのは、私たち大人、親たちである。
本当の亡国とは、国が亡んでしまってから、亡んだことを知ることである。今なら、まだ救う道はある。
四つの病患の第四は「奢は、・制を敗(やぶ)る」である。
「奢」という字は、古文では「」と書いていた。つまり「大」プラス「多」の会意文字である。大きいうえに更に多くの物を寄せ集める意味だという。
どうするか、救うしかない
天下を憂いることは簡単だ。天下を救うことは、むずかしい。しかし救うしかない。何とかいう坊さんの言葉 一燈照隅、万燈照国、これしかない。
以下 次号
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連載終了後、取りまとめて掲載し活学の用にしたいとおもいます