まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

『大統領選挙は必ず勝つ』ブラジル番長 魂の叫びを聴く  終章   10 10/3再

2021-06-07 00:55:47 | Weblog

 2016  4  10  ペルー大統領選挙の投票が行われ、決選投票は六月になる。

ブラジル番長といわれる福岡の元暴走族、吉永拓哉サンパウロ新聞福岡支局長のフジモリ・ケイコさんのインタビューを再掲載します。2011年に立候補して惜しくも決選投票で敗れている。あの頃と見違えるようなケイコさんだが、ブラジル番長のインタビュー当時と変わらない温厚で、ぽっちゃりだが、強靭な精神力と目的意識は素直さを加味してますます磨きが掛かっている

 

 

              

父は在任中、陛下との会談で、「私は日本人の母から勤勉・正直・礼儀、そして忍耐を学びました」

陛下はそれに応じて「我が国を祖とする方が貴国の人々のために活躍されていることを嬉しく思います」

ケイコさんはその学を国境を超えた普遍的精神として、不特定多数の国民の幸福のために選挙を戦っている。

            

                

 

 

フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(6)
写真 首都リマの都心部











 イカ県の県庁で記者を取り囲んだ人たちは、貧困地域にあるさまざまな小中学校の校長や教職員だった。
 「地震で学校の校舎が崩れたんです。これでは子供たちに勉強をさせる場がありません。どうか日本の力で私たちに新しい校舎を建てて下さい…」 教職員たちは記者の袖を引っ張りながら必死になって訴えていた。


 イカ県では〇七年八月、マグニチュード八規模の大型地震が襲い、多くの死者を出した。その時に小中学校などの公共施設も崩れてしまったという。
 県庁を出た後、自動車を走らせてイカ県内を調査して回った。するとどうだろうか。
 地震から二年以上が経過しているにも関わらず、国道沿いには瓦礫が散乱しており、町には倒壊しかかった建物がたくさんあった。国教であるカトリック教会の壁までもが、一部ごっそりと崩れ落ちている始末だ。


 ペルー政府は地震に対する復興支援を怠っていた――。
 一方で、首都リマの都心部はというと、以前にも増して道路は綺麗に整備され、信号機も増え、街路に美しい植物が植えられている。近代的なショッピングセンターが軒並み建ち並び、国際空港もリニューアルされた。 このような豊かなリマを訪れた外国人であれば「ペルーは発展している」と思うに違いない。しかし、それは国のごく一部だけで、繁栄したリマ都心部から一歩外へ出れば、そこには政府から見捨てられた民たちが暮らす、貧しいペルーの姿がある。


 ガルシア大統領の政治方針は八〇年代とまったく変わっておらず、首都集権主義を行なっている。これでは地方の住民たちが、ペルー政府に対して不満を募らせるのにも頷けよう。
 一方でフジモリ政権時代はどうだったか。フジモリ氏はヘリコプターを使って頻繁にアンデスの村々を訪ね、貧しい住民たちの支援を行なってきた。

 村々には水道や電気を通し、下水を整備させ、十年間で約四千校の小中学校や幼稚園を建設し、医療設備を充実させた。 フジモリ氏は常に弱き者の味方となって政治を遂行した。だからこそ地方の住民たちは、今でもフジモリ派を支持しているのだ。
 

 この国におけるテロリズムは、首都と地方の極端な貧富の格差が生じさせている。ここ最近、一度は壊滅に追いやられたテロリストたちが、再び活動をはじめているという。これからまた、ペルーは暗黒の時代に逆戻りしてしまうのではないかと、不安を感じてならない。
     ◎
 記者はペルー訪問をしたことを機にフジモリ氏の長女であるケイコさんとコンタクトを取り、リマ市内にある彼女の自宅を訪れた。
 ケイコさんは〇六年の国会議員選挙にリマの選挙区から出馬。約六十万票を獲得し全国最多票で初当選した。
 現在、三十四歳の若手議員として活躍しており、二〇一一年の大統領選挙には父親の意思を受け継いで、自身が党首を務める『フエルサ二〇一〇』から出馬を表明している。
 当選すればペルー史上初の女性大統領となり、世界初の日系人女性の大統領が誕生することになる。









 そのような期待を背負ったケイコさんにインタビューした。
フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(最終回)



 飾り気のない服装に薄化粧。ぽっちゃりとした体形に少女のような笑顔。ケイコさんはとても温厚な人柄だった。
 日本語は挨拶程度しか話せないが、少女時代は一世である祖父母やフジモリ氏から日本的な教育を受けたそうだ。
 

家庭で教わったことは、責任のある行動をすること。勉学に励むこと。嘘をつかないこと。この三つを厳しく躾けれた」というケイコさん。


 リマのカトリック系高校を卒業後、アメリカへ渡り、ニューヨークの国立大学、ボストン大学、コロンビア大学で経営学を学んだ。
 また、十九歳からは母親に変わってフジモリ大統領のファーストレディー役を務め、父親とともにアンデスやアマゾンの貧困地域を視察して回った。



                      


 自転車での遊説






 「貧しい農夫たちの話を真剣な顔で聞いていた父親の姿が、とてもまぶしく見えた」という。

 その傍らでペルーの子供たちを支援し、九六年には心臓病を患った子供たちを救うための医療グループを組織した。
 その後、フジモリ政権が倒れ、父親が日本へ亡命した後もペルーの地に踏みとどまり、反フジモリ派から非難されながらも父親の無罪を市民に訴え続けた。


 〇四年にアメリカ人男性と結婚。現在はケアラちゃんという二歳になる娘がいる。
 父親の背中を見ながら育ったケイコさんは、フジモリ氏の意思を百パーセント受け継ぎ、〇六年に国会議員となった。
 ケイコさんはフジモリ政権時代を振り返り

父親の大統領時代はテロの撲滅を最も優先しなければならなかった。それが父親の使命だった」という。
 
父親からバトンを受け継いだ今、私が最優先でやるべきことは、ペルー経済を活性化すること。数字だけの経済ではなく、遠い地方の人々が豊かに暮らせるペルーにしたい」と熱く語っていた。

 二〇一一年の大統領選挙に出馬表明しているケイコさんだが、最新のペルーの世論調査によると、有力候補一位はカスタニェダ現リマ市長(二五・三%)、二位はケイコさん(一八・一%)、三位はウマラ氏(一〇・六%)の順となっている。 しかし、この世論調査は主にリマ市民から統計を取ったものであり、実際はケイコさんが最有力候補ではないかと思われる。地方住民は圧倒的にフジモリ派が多いからだ。

                      


 そのため現在、反フジモリ派は、あらゆる手段でケイコさんの政治的な人気を落とそうとしている。
 フジモリ氏にいわれなき罪を着せ、禁固二十五年の刑に処したのもすべて反フジモリ派の策略である。ケイコさんは三十代の女性でありながら、真っ向から反フジモリ派と闘っている。


 ペルー発展の礎を築き、日本大使公邸人質占領事件の際には防弾チョッキを着て日本人を救った「アルベルト・フジモリ」。彼の名を我々は忘れてはならない。
 日本国民から見れば、フジモリ氏は南米諸国の日系人の「顔」である。その顔に泥を塗っているペルー政府の行為を今一度コロニアでも検証していただきたい。
 大統領選にあたりケイコさんは堂々とマニフェストで公約している。

 『父親の無罪を主張するとともに、恩赦で釈放する』と。

(おわり、吉永拓哉福岡支局長)

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