2021年「聞く力」の総理が登場した。
マスコミは「聞く」と書いている。
本人からも「キクちから」とはいうが、聞いたことにする、聞くだけでは務まらない。
所属派閥の宏池会の命名は、漢学者 安岡正篤氏。
事にあってはうろたえず、騒がず、余裕をもって任務に充るような意味ではあるが、今の議会は弁護士も多く、裁判所の如く、こまごまとした法廷の様相がある。
マスコミも聞く総理とはやしているが、本来は「聴く」である。つまり国民の妙な声を聞き流すことも事と次第によってはあるが、身を入れて真摯に意を汲みとるなら聴くべきであろう。
国民にヤサシク伝えることでも、人を憂うる「優しく」ならまだしも、誰に合わせるのか「易しく」なっている。多くは相手の理解力に合わせて「易しく」なっているのだが、内容は内外の世情を正しく伝えたり、人間の情感の歪みや劣ろえを共に憂い、ときに厳しい声明を発する真の優しさでなくては国は治らない。
しかも政治の「政」は、一に止まる「正」の行為だ。「一」は、これだけは行わなくてはならない一線、行ってはならない一線だが、近ごろは安易に越える公職者が多い。
これでは幾ら善い政策でも中抜き状態で国民には届かない。また、国民の声も聴くことができない。
まさに聞くだけの状態で、心の耳「心耳」を傾けて聴くこともできない。そこには群れとなった者たちが隠し屏風として、あるいは遮音となり、真実を隠蔽しつつ国家の患いとして滞留している。
安岡氏は田中角栄総理の辞任の文に、「一夜 沛然として心耳を澄ます・・」と挿入した。
沛然とは土砂降りの雨、つまりマスコミに煽られた大衆の非難だ。そな声を耳で聞くのではなく、心を鎮めて真摯に聴いたうえで辞任するとの意味だが、形式上天皇の認可を得た日本国の宰相の辞任が、一過性の罵詈雑言さえ混じる騒ぎに辞任するとが、宰相としての重大な地位を毀損しないように とする威の維持を考えた挿入でもあった。
争論は、宰相らしいことをしろ、地位を汚した、との声もあるが、国家の政治構成では宰相の地位まで毀損し、軽んじられることは、田中氏の問題とは別の不安要素を誘引する憂慮がある。
人権や平等、はたまた自由を謳いつつも、それなりに地位を保持する人たちには「それらしい姿」を求める国民という大衆がいる。よく政治家のくせに、学歴のあるくせに、はたまた皇族のくせに、と続く。
明治の頃、日本新聞を発行し、当時の入社試験では通りそうもない正岡子規を採用して、新たな俳句を興した社主、陸羯南はある記事に苦言を述べている。
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/gw05_kuga.pdf 陸羯南参照
それは、教員と女給(当時の名称)の色恋沙汰についてである。
いまは教育労働者の教員だが、そのころは教師として世間の尊敬を集める地位にあった。結婚式では教師、医師、警察官は上席に納まった時代である。それが女給の尻を触ったとかで、マスコミは記事の標題に教育の荒廃と書いた。
羯南は、教師といえど薄給で実直な生活を営む者が多い。それが、少し酒に酔ったゆえ、不覚にも給仕の女性の尻を触ったことが、何ゆえ教育の荒廃と大きく記事にしなければならないのか。新聞人のあまりにも器量の狭い了見ではないかと苦言を呈している。
江戸っ子なら、ここはブンヤ(新聞人)の器量のみせどころで、ホドを弁えない野暮記者だと啖呵の一つも出てきそうな場面だ。
大仰に書き立てれば新聞は売れると考えるのは今と同じだが、その頃も「それらしい姿」を騒ぎ立てている。
笑いで済まされるのはこのころだけ 子供らしさ
よく「嫉妬は正義らしきものを連れてやってくる」というが、たとえ人格はともなく成金に寄り添い、有名人に憧れるが、遠慮がちな生活をしていても野暮な覗き記事で姿を知ると、今度は落ちぶれることを見たくなるのも俗人の倣いのようだ。
「小人、利に集い、利、薄ければ散ず」古諺
俗人の小者は成金から小遣いをもらうわけでもないが、「知ってる」と吹聴するだけで看板となる。しかし成金が没落すれば罵詈雑言で散りじりになる。
対象となるのは政治家や芸能人・成金などが近ごろではその種だが、大よそは聞くだけ、見るだけに終始して、訊くとか聴くもなく、観ることが単なる耳や目に飛び込む類になってしまっている。ゆえに政治家は新聞の見出しのようにワンフレーズになり、説明などは難しい世情になっている。
やっかいな社会になったものだ。
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