予想したわけではないが
< 関わる人をみれば結果は自ずと解る>
アニマルといわれた男 渡辺長武 (昭和のオリンピック)
石原知事の招致
たとえば、あの頃のIOC委員の記者会見での感想である。
どうも釈然としない。そう考えても決して天の邪鬼だとは思わない。
だだ、オリンピックがイベント興行となった現在、それら狂騒する人達とは、異なることを恐れない、と思うだけだ。
以後、決定されるまで半年間も生煮えの迎合をしなくてはならないらしいが、あの小沢一郎氏が総裁候補である年嵩のある三人の政治家を呼び出して面談して時に似て、IOCもどこか慇懃無礼な振る舞いだ。
あのときも、一過性の恥もしくは厚顔ゆえか、総理を目指して哀しそうな笑顔を振りまき呼び出された政治家は、男子の誇りさえなかった。決定したとて自主性もない事は目に見えている。
流行りごとなのか、総理まで呼び出して似合わん英語をたどたどしく使って開催を請うさもしさは眼を覆う恥態だ。
これぐらいならいいだろうと殿下のお出ましまで願っている。
経済の効果や国民の連帯、名誉など大仰に唱えずとも、またそれがオリンピック開催目的だとしても、開催地の東京では江戸ッ子が「みっともねぇ」と、その野暮なノリだけに酔う軽い連中に苦虫をかみつぶしている。
瓦版屋は人の興味量というべきアンケートを恣意的にいじって太鼓を鳴らしているが、どうも調子が合わず雑音になっている。
最近、隣の北京から旧友が戻ってきた。彼女は文化大革命にも遭遇しているが、今の北京の様相は、すぐ戦争が起きるかのような雰囲気だという。おかげでストレスになって身体を壊したが来日した日本の状況に驚いたという。もちろん平和そのものだからだ。
賄賂や便宜供与は、゛人情を贈る゛と考える民癖ならまだしも、好奇心と迎合は異文化に寛容のようで、一方では静かな観察にさらされる。それは、どこか戦後間もなくのGHQによる民情観察に媚をつかう小商人や追放を免れた小心な政治家の姿に似にている。
゛人を樹うること百年 ゛といわれるほど人物養成は継続した重層が必要となる
だが、壊すことは一瞬だ。
その後は唯々諾々として阿諛迎合する人間によって外来の強圧に屈するようになる。理由は肉体的衝撃への怖れと、それを理由とする狡知がある人の群れだ。
戦後、日本人は従順だった。器量や度量を基とした許容量ではなく、身のほど知らない受容量が増え、馴れてくると需要となってきた。彼らはそれを腰ぬけと蔑んだ。
いまは近隣まで高飛車に挑んでくる状況だ。
ドイツは大方の重要部分は拒絶した。しかし気骨ある民族として印象が高まった。
そして、EUはドイツ抜きではありえない状況になった。
アカデミックな教科にはないが、人間社会の普遍的価値は昔から変わっていない。
だだ、それさえ無理解で頓智のないものの選良という既得権がはびこっている。
細事の失敗や成功は徒労感がのこる。いわんや怠惰を誘引することは必然だ。そして、民族は弛緩する。
眺めればすぐ観えることなのに、だ。