バングラデッシュ 子供新聞 キシロチェトロ
女ヘンのつく漢字は多いが男編は少ない
ちなみにイジメに似ているナブルがあるが、嬲と嫐がある。
昔は男二人が女を挟んで、゛いたぶって゛いたが、今は、女房と娘に挟まれる男が増えた。
なかには、房中(寝室)でイジメ合う睦み事がある。
声を張り上げて嫌だ厭だと云ったと思うと、涙と歓喜に変わるのは視聴覚の学びだが、これもイジメと称すが、イライラと虐げは男女共通の鬱憤発露としてよくあることだ。
それが上手くいかないと子供にアタリ、登校拒否になったりもする。男は部下にアタリ、いじいじして酒で紛らすものもいる。
十七条の「和を以て貴しとなす」は、それ以前の隣国の房中の要にある「夫婦相和し、拒ばまざるを以て旨とする」を拝借したのではないかと古人が言っていた。
つまり、調和は「素直に拒まない」ことからなのだろうが、イジメる人間の鬱積は夫婦でさえ、色・食・財の三欲のコントロールができなくなっているからだろうが、それを認知する自分の能力、相手の理解度、社会の位置、などの「分(ぶん)」が解らなくなっている。
秩父
教育現場の事件や事故には子供どうしのイジメが絡んでいることが多いが、どうも教育機関という昔は治外法権のような、はたまた聖職者といわれた教師がいたころとは現場が変わってきている。呼称の例だが、近くに老練な稼業の親分がいる。「俺たちヤクザは・・」と語るので、「自分たち任侠は・・」と語ったどうかと促した。
ヤクザは当局からひっくるめて暴力団と命名されているが、任侠なら全国津々浦々に、゛黙ってみていられない゛お節介者がいる。善なるお節介だ。いつも、任侠、ニンキョウと自称すれば、それが任侠だと自認するようになり、援けられ、叱られた若者も、それがヤクザでなく任侠だと思うようになる。
生まれながらの悪党ならともかく、援けられたり諭されたりすれば陰ながら賞賛もあろう。いわんや表だって褒められるのが照れくさく、それを以て意固地で怒るものもいるが、陰ながらなら独り、素直にもなろう。
教師は教員と自称が変わり労働者とも自認している。
よって、恩師もいなくなった。言われれば恥ずかしいのだ。用務員さんは校務員になった。昭和三十年ころの団塊と言われている世代はひとクラス40人以上、土曜はハンドンといわれた午前中のみ、それでも教師の授業持ち時間は今の倍はあった。女教師も少なかった。授業参観も作業普段着の母親が多かった。生徒は着た切り一着で一週間とおす子供も多かった。もちろん受験なども小学校は数えるほどしかなく、高校進学率も今ほどではない。
それは昔のことと棄てるとこは易い。ましてワーク・ライフ・バランスが事務職だけでなく、行政現業職の自衛隊、警察・教員に当てはめられると、各職掌は政策には現場対策ありと得意の狡知を働かせて、従前の機能を維持しているようだ。
学校現場の環境が改善され整うと、教師が教員となり労働条件が変化するとともに、数値成果による学校の経営評価や生徒の進学率を競うようにもなった。外注の全国模試による競争は教員の評価として表れ、とくに私立高校はその数値評価を上げるために血眼になった。
彼らは使用人たる文部省の下げ降し教育カリキュラムと課題について、なんら問題意識もなく汲々として答えを数値として出すことに勤しんでいる。
くわえ、手厚い補助金などで教育が商業ベースに乗り、教員の待遇が改善され、しかも補完的二次産業となった塾の乱立は、いかに教育が利益を図れる簡便な産業になったかの証左だ。
今更ながらの考察だが、標記のイジメが高低の差が大きくなったエントロピー曲線の底部を表わしていることに、国の行政だけでなく、就学児童扶養している家族の一過性の期間経験、世間の無関心などが相まって、常に繰り返しの問題として社会に停留している。
しかも、受益者である子供の動向や社会的推移などお構いなしに、課題そのものの設定すら疑問を持たず、数値に依って人間を判定することを何ら不思議におもわない教員が増えている。
摸倣ストレスなのか、大人同士の職場のイジメも甚だしい。多くは無視が多いという。
いっとき、その職域を狙って消費者金融が動いた。自衛隊や警察官、看護師も狙われた。なにしろ安定給与で担保は公務員共済や自宅がある。つまり普通の客より担保があり、世俗比では生涯賃金が確保され世間知に疎いとみたからだ。とくに公立の小中学校の教員はそのターゲットだった。
しかも、職場では相談もできず、判っていても声すら掛けない仲間の非人情もある。
それらの職域からは数多の相談が筆者にあった。多くは女房にも内緒のことだ。
顕著な例だが、それらの職域は問題の把握と解決能力に乏しい。つまり課題に従順な解答を求められているためか、浮俗の諸問題に感応しないことが多い。
台北少年観護署訪問
昔は理屈が先行し赤い旗を振って権力を忌み嫌っていたが、こと己に向かう問題について、例えば校内暴力、非行などについては、知恵を出し、協働して解決することなく、先ずは110番で、彼らが抗した警察の権力にすがるようだ。高潔な建学の精神や公訓を掲げている私立でさえ、自己解決力も乏しくなり、゛何でも警察゛と、まるで掃き溜めのように警察権力を利用するようになった。
当初は尋常と冠を付けた小学校も、尋常「常を尋ねる」という、平常心すら習慣化されなくなった。平常心とは教科書(知識)を学ぶ前に、慌てず、むやみに競わず、騒がず、など連帯の調和に必須な精神を肉体に浸透させる(習慣性)をつける、社会性の端緒を小学校で修得べき成長過程と考えていたことだ。助け合い、正邪の判別、長幼の礼儀なども習慣性だ。
それが無くなり、そのまま中学校に送り込まれたら、中学校の教職員も堪ったものではない。
だから落ちこぼれも、登校拒否も、非行も発生するのだ。おおくは数値選別機関のコンベアーの規格にハマらないために排除されるからだ。加えて画一化した課題の答えしか目に入らない教育労働者と上司の、彼らなりの苦痛や煩悶となって徒労感のある職場となっているようだ。もちろんモンスターと蔑視される和製PTAの一群もそれに加担している。
地方自治の教育は、郷の特徴を付加した郷学のようなものでなくてはならないと考える。
しかし、中央集権統治の効率的教育方針は、その付加を逸脱として見るきらいがある。
それは、つねに教育価値とか効果とかいわれる人間の数値選別を、唯一の有効性ととらえ、
安易簡便に、知った、覚えた、類の記誦学を教育の要として、社会の有効なる個々の人間の
特徴さえ、平準化の流れに埋没させている。
これでは官制学校の教員は試験監督に動員されるアルバイトでも間に合うようなもので、有名高校ですら大学受験のための大型塾の様相になってきている。
「記誦の学は学にあらず」と云われてきたが、ますますその傾向は烈しくなっている。
韓国もそうだが、中国はコネや優遇に加えて学位による身分制度のごとく、かつ親族内で一人が官位が上がれば九族(親族)に繁栄するという歴史上の科挙現代版とした狂騒に陥っている。
台北の小学校朝礼
イジメは排除といわれるが、茫洋としてつかみどころのない現実の憂慮は鬱積として堆積している。そして、無くならない。
政治に当てはめれば、独裁強圧には面従腹背がある。政策には対策がある。
ここでは虐めを批判したり抵抗しても無理がある。
ならば、いじめに対して柔和に避けたり、逃げられなければ同化して馴染むこともある。
イジメは現存する。虐めではなくても、そう感ずることもあればストレス被害者となる。
大陸の華人は、世の中は排除と圧力はどこにでもある。
もし、虐げれたら我慢して相手を圧倒する力を付ける。つまり、立場が代わることもある。
苛めは当然ある、だから負けない強い心を育てるのが教育のあるべき姿なのだと理解している。
まして教員や親の責任にしても、何も解決しない。
個人の恥は家族、一族郎党の恥だが、それをバネにして財を蓄え、高位になって苛めたものを嘲ればいいのだ。
国家間でもその意識は残存する。近ごろの関係はその経過をたどっていると考えれば理解は易い。
イジメと並んで無視がある。
心の中では「馬鹿なやつら」と無視していると、「何で無視しているのだ」と、イジメやチョッカイが始まる。近ごろの男女の関係や職場の上下関係も似たようなものだ
なかにはバカバカしいことだが、18の大学までは嫌なことでも仕方がないと従うが、「俺もお前らみたいに遊びたいよ」と妙な同感さえしている知恵者もいる。これらが卒業すると無気力や気が利かないもの相手にパワハラが始まる。それが官吏や裁判官になったらどうなるのだろう。
そもそも教育は、世のなかにはイジメもあり、勉強が苦手もあれば、運動の得意な者もいる。オールマイティはわずかだが、それらの優劣を補い合い調整する工夫の力を養うことだ。いわんやイジメも、世の中にはどこにもあることだ。ならばイジメに負けない人間を作ることが肝要だろう。人間は善悪表裏が時と場面によって表れる。組み合わせ次第で優劣も出てくる。
巷間、青少年の間で新聞沙汰になったり、隠された過度のイジメによって精神的、肉体的な負荷を与えられたら、応報処置が必要だ。いくら教育的処置を与えたとしても被害者の肉体的衝撃は判らない、我が身をツネって人の痛さを知る、などの因果応報の知恵など知る由もないだろう。その場合は強制的な矯正が必要になってくる。
昔なら仏壇の前に座らされて母の懐刀を前に、『お前の行動は恥ずかしいことだ、そんな子供を育てたことは恥ずかしい、あなたもこの刀で自らを突きなさい。私も一緒に死ぬ』と、弱い者いじめを諭し、解らなければ死だ。日本の各地で最近までよく聴いた逸話だ。
悠仁さま
悠仁親王のおしるし 「槇(マキ)」
畢竟、教育とは負荷に弱らないことと、我が身に発する欲望に誘引される精神のコントロール、そしてイジメに挫(くじ)けない強靭な精神を作ることなのだ。
流行りに乗る大衆の群れは意識もなく、そのものが個々に負荷環境を作ることがある。
その加害は意識もなく世俗の成功価値として人々は昂進している。
また、長い人生、禍福は転換し、いずれ罪の評価さえ置く処を変える。
稚拙ながら一方の切り口として、時節の備忘記とする。