まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

イザベラ・バードを想いて、逍遥の風 08・9

2023-08-03 01:42:21 | Weblog

イザベラバード女史は雇用した日本人のお供をつれて、日本のいたるところを観光、いやこの頃は探索といってもいいだろう、そのような旅をしている。

きっと、そのとき見た瑞穂の国の黄金色のウエーブだったろうと、暫し筆者も足を止めた。






ここは秩父に連なる名も無い山の中腹だが、秋はこんな風景を見せている。
イザべラは各地の様子を詳細に手紙に記して母国の妹に送っている。もちろん、お供の日本人のフンドシ姿も興味深く記している。行く先々の宿場で興味深げに集まる日本人の姿も記しているが、ことのほか異国女性の一人旅でも不思議?と安全だと驚いている。






              

外国名は失念したが、お彼岸には必ず花を咲かせる彼岸花(別名まんじゅしゃげ)は妖艶で可憐で、奇妙な姿をしている






当時は北海道の開拓集落で行なわれ始めた酪農だが。ここでは山歩きの牝牛たちの行列である。ことのほか美しく素朴である。妙な言い方だが牛らしい顔をしている。付き添う牧者もどこかの政治家や官吏とは違い、純なる日本人の容相である。

あの頃の外国人は観察処が良かった。
道を掃く人々と粗末な服装だが清潔感があった。よく働き、正直な応答、何よりも譲ること、つまり礼が肉体化された神々しい人たちが尊敬されていた。
その意味ではパラダイスのようだとの印象記述がいたるところにあった。



                        


陽の光が天上になる頃、透き通ったような花弁を、敢えてか弱々しく細い茎で造形したようなコスモスが揺れている。花弁も蝶のようにヒラヒラと動き出す。
心地よい秋風が、夏季の涼風を楽しんだ情緒を惜しむかのように渡ってくる。なにか自然の繰言のように肌を擦っているようで、暫し刻を愉める。

はたしてイザベラの故郷の風は彼女に何を語ったのだろうか。それとも彼女等西洋人から観て、森と瑞穂の国に棲む粗野で未開といわれていた日本人の姿は、異邦人が難儀なく一人旅が適った郷の風とともに、どのような新しい精神世界を見せてくれたのだろうか。

愛顧すべきあの頃の日本人の風義をおもうとき、洋の東西を問わず普遍なる「風」として、時に忌まわしくも思える世情に清風を吹かせてくれる。

懐かしがってばかりいられない。イザベラの好奇心と観察力、そして勇気に倣いたいものだ。


参考 イザべラバード 南陽市関連サイト

http://www.city.nanyo.yamagata.jp/kankomidokoro/717.html

コメント (2)
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