まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

官吏の面子は国民の善意を覆うのか 08.11/11 あの頃

2022-04-29 02:50:00 | Weblog

      11月23日 金鶏神社社稷祭 郷学研修所内




以下は四国新聞11/10の記事である

《愛知県安城市の市道交差点に本物そっくりの偽の一時停止標識を設置したとして、愛知県警安城署は10日、道交法違反(道路における禁止行為)の疑いで、近くに住む建築設計事務所経営の男(55)と同県豊田市の従業員の男(27)を書類送検した。

 



調べでは、2人は7月30日夜、市道交差点に、工場などで使用する市販の一時停止標識を勝手に設置した疑い。調べに「(交差点で車がスピードを出すと)子供が事故に巻き込まれる恐れがあり、危ないから設置した」と供述したという。

 同署によると、2人はほかにも近くの進入禁止標識2枚が汚れていると判断し、新しい標識と入れ替えていた。標識3枚の購入代金計約2万6000円は自ら負担していた。


             


 安城署は9月下旬から10月上旬にかけ、偽の標識に基づき、誤って運転手5人を道交法の一時停止違反で摘発。標識が偽物と分かり、5人の処分を取り消した。その後、県警と市はスピードを出し過ぎないように、この交差点にゼブラ帯を設けるなどの対策を取った。》



これはYahoの道徳、マナーに関するトピックに記載されたものであるが、その他に各地の図書館の蔵書28万冊不明、9歳男子の無免許運転などが載っている。

つまり目くじらを立てれば、蔵書不明も無免許も立派な犯罪であるが、こちらは立件されてはいない。

さて、結果から追えば県警と市は事故を想定し道路にゼブラマークを描いている。
天邪鬼だが、道路交通法で立件された彼等がゼブラマークを描いたら法律では違法だが、ゼブラでは警察官の点数切符はできないはず。


          
                愛知県警のゼブラ帯



またまたヒネクレものだが、公道に立っている電柱に電力会社に掲示使用料を払って質屋や病院の広告があるが、゛立ち小ベンをするな゛タバコを捨てるな゛と掲示すると早速電力会社から苦情が来る。しかしストリップのグラビア看板を子供の通学路だと剥したら、ヌード看板の所有者に断らなくては・・・、剥せるが捨てることは出来ない・・・、そのうち興行期間が終わりウヤムヤニなった。

何ごとも無関心、不作為の世情だが、゛よかれ゛と思うことを子供なり、庶民ナリが拙なる意志でも行動にすると、゛世間゛からは嘲笑に晒され小さな善行などの喚起もお題目になってしまう。ことに廃棄したらどうかと思える取締り条例を駆使して、゛禁ずるところ利あり゛と道徳喚起どころか罰金徴収ノルマに血眼になっている現場治安官吏の恥態は他の文明国家にはあまり見当たらない姿だろう。

どうも道路は金になる、しかも多岐にわたり食い荒らされている。
昔は朝起きたら道端の掃除と決まっていたが、これも官吏御用(お抱え)の出入り業者が路上生活者に制服を着せて、しかも生活保護の適用を受け、安価で吸殻拾い、自転車整理をさせている。

昔は街道筋の親分が篭担ぎを仕切り、今の運輸行政のような事をしていたが、なかには御上から十手まで頂いて、゛みかじめ゛を貰ったり、悪徳官吏の懐を膨らますことの手代をしている者もいた。

しかし、下々は可愛いもので上級官吏は道路建設、清掃、管理、飲食店の独占営業、通行料、はたまた標識、レッカー、罰金徴収と、ただならぬ徳の無い「道」が手段を使って公務員の「狡」を絞って考案されている。

「道」はクビが動くというが、彼の国の或る意はもっと緊迫したものである。
他領に赴く道程は、厳しく、険しく、危険がある。そこで人柱として首、つまり除けのために出立時に「路」に奉げたという逸話がある。

同じミチでも、路地や径、間道、古道、あるいは哲学の途と称されるものがあるが、昔の間道などは野党盗賊が出没したようだが、何故か昨今は大手を振って道路に金食い虫や、罰金獲りが昼夜を問わず出没している。

そのせいか上は政官業の既得利権にまみえ、下は交番を留守にしても一時停止の標識の陰に隠れている治安官吏が増えてきた。

それを秤にかけたとき標題に戻るが、何か割り切れないものがある。
彼等は地域の善行者である。実費と労力と安全の為にと意志を添えて行なった善行である。ことさら、゛お目こぼし゛を官吏に願うべき筋合いではないが、何故か地域の感謝と官吏に翻意を促す続報が無いようだ。



            


昔のことだが、奈良の猿沢の池で投網を使って魚を獲っていたものがいた。売るわけでもない。子供に食べさせたかった。それを見た警官はこう言った。
『そんなところで網を洗わないで、家に帰って洗ったらどうだ・・』
これは決して落語のオチではない。

また、風呂帰りに気持ちよくなったのか立ち小便をしていたとき、途中で止められないのをはかってか警察官は終わるのを見届けて、『そんな所で手ぬぐいを絞ったらだめだよ・・』と。
双方は二度とヤラ無くなったと、前コラムに登場する奈良出身の岡本義雄氏の談だ。

「尽くして欲せず、施して受けず」岡本氏の意に安岡先生が添えた小章だが、きっと標識善行者は、尽くしたからといって表彰を求めてはいない。施しても相手からは受けるものは無い。代わりに書類送検と罰金、あるいは官吏に叱られるだろう。
「益」とは妙だか、安全が保たれた受益者は嘆願や上申などという、゛お願い゛や、゛申し上げる゛という卑屈な意から抜け出し抗議するべきだ。せめて庶民の交通安全の善意をモトとした行動に対する秤の均衡を保つべきだ。

あの安岡、岡本御両人なら言う筈だ。

官吏は「吏道」という道がある。それは一隅の善行を喚起し、人々はそれに倣う。
官吏はそれを扶けるために存在する。その調和と連帯から生まれる信頼、それが真の国力というものだ、と。

官吏が集えば国権とは異質の権力を溜め、行使することで「利」を生ずる。そして食い扶持の為の既得権と化し、国家の根底を蝕み終には国民の道徳心を衰えさせ、自尊、自立を本とする人間の尊厳すら毀損するようになる。

この一隅の善行、つまり小事にそれを見るのが政治の役割である。
仁徳天皇の「民のかまど」の故事もその倣いすべきことである。
『手を拱いてはいけない 今こそ動くべき、゛小事に観る大事゛だ』

そんな声が聴こえてくる。

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